Sightsong

自縄自縛日記

金大禮『天命(Supreme)』

2017-01-08 11:13:54 | 韓国・朝鮮

金大禮『天命(Supreme)』(Sound Space、1995年)を聴く。

Kim DaeRye (vo)
Park ByungWon (piri, vo)
Kim GiBong (jing, piri)
Park DongMae (janggo, vo)

金大禮(キム・デレ)は韓国・珍島の歌い手である。

女性ではあるが男性のような迫力のある声だ。腹の底からなのか、全身からなのか、生命力のようなものが喉を伝わり、頭蓋と上半身を震わせた音が絞り出される。これはコブシと言うには単純に過ぎるだろう。そして他の歌い手や、太鼓や、笛の音とともに共鳴し、声が絞り出されている途中にもその性質や音量が変貌してゆく。とんでもない。

先日、里国隆のドキュメンタリー『黒声の記憶』について齋藤徹さんに話したところ、テツさんが、里国隆に似た歌い手として挙げた人である。テツさんによれば、彼女はムソク(シャーマン)の家系ではないが啓示を受けてムソクに入り、練習の途中で声が変わったところで「今、神が降りました」と言ったともいう。また、彼女のチン(jing、銅鑼)の手で持つところは髪の毛であったともいう。さらには、CDで聴いてもこの迫力に魅せられるのではあるが、このバイブレーションは周囲に居た人を巻き込んだはずだ、とも(里さんについても、近くで聴くと、苦痛で逃れられないような体験であったとの証言があった)。

調べてみると、2011年に亡くなったようだ。

●参照
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
パンソリのぺ・イルドン(2012年)
金石出『East Wind』、『Final Say』(1993、97年)
ユーラシアン・エコーズ、金石出(1993、94年) 
イム・グォンテク『風の丘を越えて/西便制』(1993年)
『人はなぜ歌い、人はなぜ奏でるのか』 金石出に出会う旅 


ウディ・アレン『ミッドナイト・イン・パリ』

2017-01-08 09:44:56 | ヨーロッパ

ウディ・アレン『ミッドナイト・イン・パリ』(2011年)を観る。タブレットでアマゾンビデオを観るのは快適。

現代のパリ。主人公の男ギルは、ハリウッドのシナリオライターであり生活にはまったく困っていないが、小説家になりたがっている。婚約者は典型的なお金持ちの娘であり、パパは頑固な共和党支持者。見るからにギルと父娘との相性は良くない。その上、この婚約者は、いかにもセレブ界に馴染んだ博学な友人に惹かれる始末。ある夜、ギルは突然1920年代のパリにタイムスリップする。そこではフィッツジェラルド夫妻やヘミングウェイが熱く語り、コール・ポーターがピアノを弾き、ピカソやダリやブニュエルやマン・レイといった男の憧れの対象が現れる。そしてギルとピカソの愛人とは恋に落ち、さらに時間を数十年遡り、ロートレックやゴッホ、ゴーギャンがいるベル・エポックの時代へとスリップしてしまう。

女の憧れは「現代」の20年代ではなくベル・エポック、ギルの憧れは20年代、ギルの婚約者は現代を現実的に生きている。ギルを現代につなぎとめるものが、本物のコール・ポーターではなく、ポーターの古いレコードだということがウディ・アレンらしい。

ウディ・アレンはマンハッタンがひたすら好きで、マンハッタン賛歌たる『マンハッタン』を撮ったのだろうなと思っていたのだが、パリや黄金時代への憧れもあったのだね。もっともそれは、ヘミングウェイらと同様に、アメリカ人にとっての憧れのパリである。それにしても、主人公のコンプレックスや屈折、共和党の毛嫌いぶり、アイドルたちへの憧憬を隠さないミーハーぶりといったものの描写など、さすがというかやはりというかのウディ・アレン。

映画に登場するゼルダ・フィッツジェラルドは、既に心のバランスを崩していて、セーヌ川に飛び込もうとしているところをギルたちに止められたりもしている。エリカ・ロバック『Call Me Zelda』はそのゼルダを描いた面白い小説だったが、映画化の話はどうなったのだろう。ウディ・アレンが監督すればいいのに。

ところでわたしなら1940年代か50年代のマンハッタンにスリップしてみたい。目的は言うまでもない。

●ウディ・アレン
ウディ・アレン『マンハッタン』
(1979年)