「明治維新とは何だったのか」半藤一利/出口治明
P69
半藤:尊皇攘夷というスローガンがいつの間にか尊皇倒幕にすり替わってしまいました。
出口:それは誰が主導したと考えればいいんでしょうか。
半藤:西郷隆盛と大久保利通ですよ。
P70
出口:つまり次のような理解でいいですか?薩摩の西郷や大久保、あるいは長州の木戸孝允といった人たちは、開国というこれからの国策は理解したものの、この際やっぱり関ヶ原の恨みは晴らさないといけない、と考えた。
P73
半藤:よくこの慶応元年から明治元年までの三年間のことを「幕末」と呼びますが、そのゴタゴタは西南戦争まで続いたのですから、私はそれを含めた慶応元年から明治10年までの13年間を「幕末」と呼びたいですね。
出口:もっといえば、ペリー来航からが幕末ではありませんか。(中略)
半藤:そういう見方は可能なんですが、「末」と呼ぶにはいささか長すぎるような気もするんですよ。
P78
出口:実際は既存の社会体制を破壊した暴力革命なのに、最初から正統性があったかのような形を作ったわけですね。
半藤:だから後年、「明治維新」などという言葉を作り出して、暴力革命を正当化したんですよ。そのときはすでに薩摩の藩閥が潰れていましたが、長州中心の明治政府がその言葉を持ち出して、いかにも自分たちがやったことは正しかったように取り繕ったんです。
P102
出口:実際、岩倉使節団の留守を預かった政府には開明派がいなくなったので、廃仏毀釈のようなバカバカしい運動をうまく収めることができませんでした。
P113
半藤:文句なしに、西南戦争は暴力革命の最後の仕上げです。
山縣有朋について
P118
半藤:彼が、大久保の設計図よりも先に、自分の思い描いた軍事国家を作ってしまったんです。これが近代日本の不幸の始まりなんです。
P152
半藤:勝さんの奥さんは芸者上がりのよくできた人なんですが、それ以外にも妾が何人かおりましてね。勝さんは自分の家に書生を置かず、妾たちが同居していました。だから勝海舟を斬りに行った人たちは、みんな玄関で驚いちゃうんです。女が四人ぐらい並んで「いらっしゃませ」と出迎えるので(笑)。(中略)
西郷さんは身近に女の人なんか起きませんからね。身の回りにいたのは、村田新八みたいな連中ばかりでした。
P158
出口:大久保も西郷と同様、浮いた話はあまりないですよね。また、地位を利用して賄賂を受け取るようなこともあまりしていない。私生活がきれいという点では、西郷と大久保はわりと似ているんですよ。
P161
出口:明治維新の功労者という意味では、最初に開国・富国・強兵というグランドデザインを描いた阿部正弘を除いて、大久保の右に出る人はいませんよね。
半藤:それはいないでしょうね。
P176
半藤:私にいわせれば吉田松陰はむしろ危険な人物にすぎないんですがね。
【ネット上の紹介】
あのとき、日本を動かしたのは龍馬でも松陰でもなかった!知の巨人2人が、薩長史観に隠された「幕末・維新」を語る。
最大の目的は太平洋航路の開拓 ほか)
第2章 「御一新」は革命か内乱か(光格天皇が復活させた「天皇」の権威
薩長が徳川への恨みを晴らした「暴力革命」 ほか)
第3章 幕末の志士たちは何を見ていたのか(最初に「日本人」を自覚した勝海舟
イギリス公使パークスとの会談 ほか)
第4章 「近代日本」とは何か(お雇い外国人の給与は東大教授六人分
「脱亜入欧」を可能にした日本語による高等教育 ほか)