「もう一つの「幕末史」」半藤一利
P36
およそ日本の歴史で、暴力や殺人そのもので時代の流れが大きく変わった、という事例はほとんどありません。しかし、それに対する恐怖心が歴史を動かしてしまったことは二度あった、と私は考えています。
その一つがこの桜田門外の変、もう一つが昭和の2.26事件。
P44
戊辰戦争とは東北や越後の諸藩に対する侵略戦争にほかなりません。あの時点では間違いなく薩長は“暴力集団”でした。
P47
明治維新とは二重の革命だったのだと考えます。一つは薩長の倒幕による権力奪取。そしてもう一つは、下級武士対殿様、上級武士の身分闘争です。
P73
孝明天皇はまだ36歳の若さでしたから、私はこれは長州が毒殺したのではないか、と見ております。
【ネット上の紹介】
幕末の裏側にある真実に迫る! 勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、桂小五郎らが躍動した自己変革力が漲る時代に現代人は何を学ぶべきか。
第1章 維新には「知られざる真実」がある―権力闘争による非情の「改革」
第2章 幕末「心理」戦争―江戸城無血開城までの「西郷×勝」攻防三カ月
第3章 自らを「アヒルの水かき」と揶揄した男―私が勝海舟に惹かれる理由
第4章 圧倒的薩長軍に抗した“ラストサムライ”―河井継之助の「不合理を超える」生き方
第5章 なぜ龍馬はみなに愛され、そして殺されたのか?―「独創性のない」偉大なコーディネーターの素顔に迫る
第6章 「薩長同盟」は“馬関”から始まった―桂小五郎、高杉晋作と坂本龍馬の「理屈抜きの友情」
「幕末史」に学ぶ―長い「あとがき」として
読み返し。
日本は慶応元年(1865年)からはじまり、明治38年(1905年)に日露戦争が終わって日本が世界の強国の一つになるまで40年、その大日本帝国を滅ぼしてしまうのがまた40年後の昭和20年(1945年)でした。もう一つ言えば、占領下の6年半を経て、戦後日本が昭和27年(1952年)から新しい国づくりをスタートさせ、平成元年(1089年)から翌年に絶頂期を迎えたバブルがはじけたのが平成4年(1992年)ですから、これも40年かかったのです。つまり国をつくるのに40年、国を滅ぼすのにも40年。
【ネット上の紹介】
幕末のいちばん長い日
攘夷派・開国派・一橋派・紀伊派
和宮降嫁と公武合体論
テロに震撼する京の町
すさまじき権力闘争
皇国の御為に砕身尽力
将軍死す、天皇も死す
徳川慶喜、ついに朝敵となる
勝海舟と西郷隆盛
戊辰戦争の戦死者たち
新政府の海図なしの船出
国民皆兵と不平士族
西郷どん、城山に死す
だれもいなくなった後
「日本近代史」坂野潤治
P20
唯一の解決策は、「攘夷」か「開国」かの問題を棚上げにして、「尊王」か「佐幕」かに選択肢を絞り込むことであった。そうなれば薩摩と長州は「尊王倒幕」で手を握ることができる。
P31
お由羅の方は、自分が産んだ久光を藩主とするために斉彬の排斥につとめ、藩内保守派の調所広郷らがそれを支えた。
P250
李鴻章の主張を読めば、それは理にかなったものであった。(中略)
「朝鮮の独立」を目的とした戦争の講和条約で日本が清国領土の遼東半島の割譲を要求するのは筋違いであること、日本が戦争中に占領もしていない台湾の割譲を清国に求めるのは、さらに筋違いであること、独立国間の戦争での賠償金は、日本がこの戦争で実際に使った1億5000万円に限るべきで、3億円の要求には根拠がないことなどを李鴻章は主張したのである。
P444
2011年3月11日は、日中戦争が勃発した1937年7月7日の方に近く見える。
【ネット上の紹介】
この国が最も激しく揺れ動いた一八五七(安政四)年から一九三七(昭和一二)年までの八〇年間。近代日本の劇的な歩みを、「改革」「革命」「建設」「運用」「再編」「危機」という六つの時代に区分し、通観する―。はたして日本の近代とは何だったのか。わずか数十年の間にめざましい「近代化」を実現しながら、やがて「崩壊」へと突き進まざるをえなかった根本原因はどこにあるのか。史料を精緻に読み解くことで、図式的な理解を超えて、近代史をダイナミックに捉えなおす。
第1章 改革―1857‐1863
第2章 革命―1863‐1871
第3章 建設―1871‐1880
第4章 運用―1880‐1893
第5章 再編―1894‐1924
第6章 危機―1925‐1937
「幕末バトル・ロワイヤル」野口武彦
人気シリーズ、第1弾。
天保の改革から黒船来航あたりまでを振り返っている。
よく調べている、面白い。
P66
日啓とは何者であろうか。大奥に深く食い入った怪僧であった。
なにしろ、日啓はお美代の方の実の父親なのだ。
(ほとんどラスプーチン状態)
P90
いわゆる「天保の改革」は、天保12年(1841年)5月15日、12代将軍家慶の上意として示された布達からスタートする。(中略)
高価な品物の売買を禁じたのである。売れなければ物価は下がると見た。信念から生じる思い込みの力は恐ろしい。忠邦の姿にはどこか、非常な経済法則に素手で立ち向かっているようなところがある。
P172
担保を取らずに金を貸すのを「素金」(すがね)といって、今のサラ金と同じで利子が高い。幕命で利率の限度は15パーセントと定められていたが、もちろん守られない。50パーセントや60パーセントはザラで、需給関係次第でいくらでも跳ね上がる。中でも「座頭金」が一番高利で、なんと100パーセントが公認されていた。(闇金ウシジマくんでも、50%なのに!)
P223
国が亡びるのはアッという間である。
徳川家康の創業から250年にわたる無戦争を世界に誇ってきた江戸幕府は、ペリー来航からわずか15年でガタガタッと崩れてしまった。
福地桜痴は『幕府衰亡論』の中で、その原因は三つあったといっている。①京都に奏聞したこと。②水戸斉昭を顧問にしたこと。③諸大名に和戦の評議をさせたこと。
【ネット上の紹介】
徳川幕府の生き残りを懸けたイチかバチかの天保改革が、幕末の幕を切って落とした―。改革失敗、経済混乱、飢饉に火事に異国船、未曾有の事件が頻発する中、虚々実々の駆け引きに翻弄される幕府首脳の姿は、青雲の大志と権力欲が渾然一体となった政治の現実を教えてくれる。尊王攘夷・倒幕開国のうねりが押し寄せる直前、黒船来航までを、さまざまな名珍場面でたどる、既成史観ではわからない幕末政界権力争奪史。
第1部 天保政怪録(老中願望
セクハラ大名
三方領知替え
怪盗日本左衛門 ほか)
第2部 嘉永外患録(大江戸金融事情
火元争い
ワンポイントリリーフ
イケメン宰相 ほか)
「女たちの明治維新」鈴木由紀子
P73
横井小楠の政治思想に深く傾倒していたのが勝海舟であり、それを具体的に実践していったのが坂本龍馬であった。
P75
まだ開国もしていない幕末に日本茶を世界に紹介し、製茶貿易の先がけとなって巨万の富をきずきあげた女性の貿易商がいた。
P136
のちに同志社総長をつとめた小崎弘道、横井時雄、海老名弾正などは、みな新島(襄)にならって妻を「あなた」という敬称でよんだといわれ、日本家庭に新しい風を吹きこんだことはたしかである。
大山捨松の名の由来
P138
官費で10年間も勉強の機会があたえられるという現代から見ればうらやましいほどの条件にもかかわらず、応募者は1人もいなかった。嫁入り前の娘を10年間も親元から手ばなすのは捨てたも同然であり、女性は15歳くらいで結婚した当時の感覚からすれば、婚期を逸してしまうのは目に見えていた。(中略)
母の唐衣は「捨てたつもりで待つ」との切なるおもいをこめて、咲子という幼名を「捨松」とあらためた。
P141
欧米列強と肩を並べていうには、優秀な人材を育成しなければならない。それには賢い母親となる女性の教育が先決だと感じたあたりが、いかにも明治の政府高官の感覚である。彼らには男性と対等の人間として女性をうけいれ、社会に貢献させようという発想もなければ、日本の社会もそこまで熟成してはいなかった。
陸奥宗光夫人・陸奥亮子
P191
25年も日本に滞在したイギリスの外交官、アーネスト・サトウはめったに日本女性の容姿をほめなかったが、かれの日記に「美人」だと記しているのは、亮子だけだという。
1888年頃、亮子33歳頃の写真
【ネット上の紹介】
製茶貿易を先駆けた大浦慶、日本初の女医となった楠本稲、『小公子』を翻訳した若松賎子、外交の一翼を担った陸奥亮子…。幕末から明治への激動期をたくましく生きぬいた女性たちに光を当て、その足跡に迫る。逆境から道を拓いた女性たちの勇気と情熱をとおして、生きるための戦略が見えてくる。
第1章 変革への始動―常識を破る女たち(女囚高須久子と吉田松陰
松陰との再会と別れ ほか)
第2章 維新前夜―挑戦する女たち(日本茶を世界に広めた大浦慶
侠気で龍馬をささえた楢崎龍 ほか)
第3章 敗者からの転身―会津藩の女たち(同志社の母とよばれた新島八重
伯爵夫人となった大山捨松 ほか)
第4章 世界デビュー―外交官の妻たち(森有礼と契約結婚した広瀬常
陸奥宗光の杖となった亮子の献身)
最大の目的は太平洋航路の開拓 ほか)
第2章 「御一新」は革命か内乱か(光格天皇が復活させた「天皇」の権威
薩長が徳川への恨みを晴らした「暴力革命」 ほか)
第3章 幕末の志士たちは何を見ていたのか(最初に「日本人」を自覚した勝海舟
イギリス公使パークスとの会談 ほか)
第4章 「近代日本」とは何か(お雇い外国人の給与は東大教授六人分
「脱亜入欧」を可能にした日本語による高等教育 ほか)
P309