「子どもたちの階級闘争」ブレイディみかこ
2017年 第16回 新潮ドキュメント賞受賞作品。
英国在住の保育師が、英国の託児所について書いている。
結果として、英国事情、英国論ともなっている。
想定以上に、充実した内容だった。
P39
ふとしたはずみでマヤがオレンジジュースのコップをひっくり返してしまった。
父親が握りしめているTシャツからジュースのしずくが垂れ、その脇にみるみる大きな水たまりが広がった。マヤが失禁したのである。わたしは椅子から立ち上がって親子のほうに飛んでいった。
「もう十分でしょう」
私はマヤの手を引いて託児所に連れてゆき、下着とズボンを着替えさせた。
涙がぽとぽと床に落ちていたが、彼女は声を出さなかった。声を出さずに泣く子どもたち。こういう子どもたちをわたしは知っている。
P80-81
「移民の子どもたちのほうが明るいというか、彼らのほうが幸福な子どもたちに見えるというのは不思議な発見です」
大学で心理学を学んでいるというヴォランティアの青年がそう言った。
「移民の家庭は、親も子もわかりやすい反応をするからね」
私が言うと、ミドルクラス風の美しい発音で英語を話すその青年は言った。
「どんなプアでも、過去より未来のほうがよくなるんだと信じられる人々の方が幸福度は高い。でも、それがこんな年齢の子どもたちまで当てはまるとは……」
P86
移民や難民について「よその国の福祉で楽に暮らすために来てる」などという人はあまりに現実を知らなすぎる。欧州に来る移民は自らの能力を発揮するために国境を越えて来る、勤勉で上昇志向の強い人々だ。
P94-95
「ねえ、あなたも外国人だからわかるでしょう?」
母親の一人がわたしのほうを見て薄笑いしながら言った。
私はそう言ってフォークの脇にプラスティックのナイフも突き立てて言った。
「私もミカコも九年前からここで働いています。あの頃は、スタッフも保護者も子どもたちもほとんど英国人でしたから、私たち外国人はマイノリティでした。でも、私たちはまったく他のスタッフと同じように迎えられました。どこの人間でも、どんな人だろうと、どんな問題を抱えていようと歓迎する。ここはそういう理念のもとに作られた託児所です。たとえスタッフが変わっても、私たちのスピリットは変わりません」
友人が前方でぴしゃりとそう言った。(この友人はイラン人の女性だ)
P103
アイーシャとケリーにはよく似たところがあった。二人とも、倒れようが殴られようが泣かないのだ。普通、幼児というものは、痛い目にあったり怖い目にあったりすると、声をあげて泣いて周囲の人々にそれをわからせようとする。これは、まだ周りの大人に庇護されなければ生きていけない段階の未熟なヒューマンビーイングの生きる知恵でもあり、自己を保護するための生存本能とも言える。
だが、アイーシャとケリーにはそれがなかった。まるで周囲の大人たちに何の期待もしていないようだ。
P155
「右とか左とかいうイデオロギーは、結局、庶民を貧しくするものにしかならないんじゃないかと思うときがある」
【蛇足】
本作品は昨年から知っていた。要チェック作品だな、と。
急に「いま読まないと」、と思ったのが、大宅壮一賞の候補になったから。(今は名前が変わって、大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞、というそうだ)
もし受賞したら、図書館の予約、激しい順番待ちになってしまう、早めに借りておこう、と。それが今回の事情だ。(読んで良かった!)
大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞|日本文学振興会 - 文藝春秋
【おまけの感想】
海外事情、それも英国の事情を描いた作品と言えば、木村治美さんの「黄昏のロンドンから」を思い出す。(旧い!)
その次に思い出すのが、高尾慶子さん。
リドリー・スコット氏の家政婦となって(!)英国事情を書いた。
そして今回が、保育師・ブレイディみかこさんだ。
私の中では、そういう流れになっている。
【参考リンク】
太田出版「atプラス」【対談】日本の保育はイギリスに学べ!?トニー・ブレアの幼児教育改革について ブレイディみかこ×猪熊弘子 前篇(2016/05/16)
太田出版「atプラス」【対談】日本の保育はイギリスに学べ!?トニー・ブレアの幼児教育改革について ブレイディみかこ×猪熊弘子 後篇(2016/05/20)
【ネット上の紹介】
地べたのポリティクスとは生きることであり、暮らすことだ―在英20年余の保育士ライターが放つ、渾身の一冊。
1 緊縮託児所時代 2015‐2016(リッチとプアの分離保育
パラレルワールド・ブルース
オリバー・ツイストと市松人形
緊縮に唾をかけろ
貧者分断のエレジー ほか)
2 底辺託児所時代 2008‐2010(あのブランコを押すのはあなた
フューリーより赤く
その先にあるもの。
ゴム手袋のヨハネ
小説家と底辺託児所 ほか)