「源氏物語」を3部に分けて構成した「結び」三部作の最終章。
「紫の結び」=紫の上を中心とした源氏の君の一生。
「宇治の結び」=匂宮、薫大将、浮舟の宇治十帖。
そして本作「つる花の結び」=夕顔と玉鬘十帖を中心とした作品。
玉鬘=つる草の美称であり、中の品の女性たちが登場する。
さらに言うと、玉鬘は夕顔の娘。
P95
「あの白く咲いているのを、夕顔と言います。花の名は人に似て、こうしたみすぼらしい垣根によく咲いています」
たしかによく見れば、小家ばかりのむさくるしい界隈のここかしこ、みじめに傾いた軒先などに、同じつる草が這いまわっていました。
夕顔が突然死し、その遺体を運ぶシーン…非情にリアルだ。
P130
源氏の君には、もう夕顔を抱き上げることができそうにないので、惟光が上筵でくるんで車に乗せます。小柄できゃしゃで、気味悪くも見えずに愛らしい体でした。きつく包むことはできなかったので、髪が筵からこぼれでます。
P169
「機転のきく才気走った人ではないようだね。だが、女人は子どもっぽく大らかでこそかわいいものだよ」
源氏の君は言います。(これは著者・紫式部の本音か?だから清少納言を嫌うのか?)
近江の君が登場する「行幸」
P127
「くさくさしたときは、近江の君の顔を見ると気が晴れる」
(これは、褒めているのではない。元祖・お局様たちの「いけず」である。都人のいけずは、年期が違う)
この分け方は、通して読んでみると、すっきりする。
「これが本来の形かも」って思ってしまう。
どうして、今までこのように順番で刊行されなかったのだろう?
その意味で、コロンブスの卵、画期的だ。
【感想】
多くの女性たちが登場するが、佐野洋子さんの言うように、格別幸せになった方がいない。
西洋の小説だと、もっとなんとかするのではないか。
紫式部が、冷めた眼で登場人物たちを見ている、って読んでいて感じた。
【おまけ】
私が、印象に残った女性を3人挙げると、花散里、夕顔、浮舟かな…。
一番活躍し、貢献したのは、六条御息所と思う。
存命中は生き霊を飛ばし、亡くなっても死霊となって頑張った。
ちなみに、六条御息所の娘は秋好中宮。
【ネット上の紹介】
長雨の夜に語られた女性談義で若い源氏はさまざまな女性の魅力を知りたくなります。貴公子の恋は、身分を越え、人妻の空蝉、頭中将の可憐な女人・夕顔、落ちぶれた宮の姫君・末摘花と危うい綱渡りを続けていきます。
先日の豪雨で町の中央を流れる肱川の水があふれ、5人が犠牲になった。直前には、上流の野村ダムが雨量に耐えきれず緊急放流をしていた。(朝日新聞2018.7.25)
「すごいトシヨリBOOK 」池内紀
ドイツ文学者・池内さんは70歳になった時、手帳をつけ出す。
そのタイトルが、本書である。
その都度気がついた事を書き込んでいった。
P17
自分では「心は若い」と思っているけれど、心という見えないものを当てにしてるだけ。鏡に映る自分の顔が本当の年齢で、心も当然、シワだらけです。
P39
かつて、堀口大學は宮中に招かれて歌を詠みました。
〈深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり〉
延命治療を希望しないなら
P99
もっと確実な方法もあって、日本尊厳死協会という協会に入会する。
P113
「退職後の夫婦旅行」を楽しみにしているお父さんは多いようです。でも、お母さんは本当は友達と旅行がしたい。
公共の宿の食堂で、夫婦の団体旅行に遭遇した話
P114
どの夫婦も、ただ、黙々と食べている。
ひと組だけ華やかなのがいて、「あれは、ワケありだよ」って僕はピンときた。他人だからあんなに華やかでいるわけで、あとはみんな夫婦。「ワケありがこんなとこに来てるよなあ」と思いましたね。「わあ、エビが動いている」なんて話していて、夫婦の客にとっては、エビが動いたって話題にもならない。
服飾デザイナー川本恵子さんの言葉
P123
「本当のおしゃれというのは、郵便局へ行くにも着替えをする人」
P188
生殖能力が終わっても何十年も生きるというのは、人とゴンドウクジラ、その二種類だけみたいですね。
【参考リンク】
日本尊厳死協会: トップページ
【ネット上の紹介】
人生の楽しみは70歳からの「下り坂」にあり。ドイツ文学者の楽しく老いる極意。リタイア後を豊かに生きるヒント。
第1章 老いに向き合う
第2章 老いの特性
第3章 老化早見表
第4章 老いとお金
第5章 老いと病
第6章 自立のすすめ
第7章 老いの楽しみ
第8章 日常を再生する
第9章 老いの旅
第10章 老いと病と死
「源氏物語 宇治の結び」荻原規子
今回はネタバレあり、未読の方ご注意。
「源氏物語」の「宇治十帖」に相当する。
二人の若者が登場する。
薫大将と匂宮。
都から遠く離れた宇治の地で、宮家の姉妹がひっそり暮らしている。
お忍びで訪れた薫大将がこの姫君たちに出会い、物語が動き出す。
薫大将は姉の大君、匂宮は妹の中の君が好きになる。
ところが、大君は亡くなってしまう。
大君には義理の妹がいた。
それが浮舟。
薫大将は浮舟に亡き大君の面影を見て、世話をする。
ところが、匂宮も浮舟が好きになる。
都でもてはやされる貴公子二人からアプローチされる浮舟。
いったい、どうしたらいいのだろう…。
思いあまって、浮舟は宇治川に身を投げる。
P56
「“夜明けにも家路は見えず、訪ね来た槇の尾山(宇治川右岸の山)には霧が立ちこめている”
心細いことだな」
おそらくこの正面の山・仏徳山(大吉山)を指すと思われる、右が鳳凰堂。(写真・筆者)
2年前に、私もこの山に登った。ハイキングコースは整備されていて、山頂からの眺望良好。
P129
船頭が「これが橘の小島です」と。棹を立てて舟をしばらく留めます。
(この物語には、川を馬で渡ったり、舟で渡ったりするシーンがあるが、どうして宇治橋を利用しないのだろう?そんなに離れていないはず。当時もあったはずなのに…)
【感想】1
現在の感覚で言うと、モラルハザード全開、点滅しっぱなし。
匂宮は薫大将の恋人を取るので、漱石の「こころ」を思い出す設定。
薫大将は、優等生タイプ、まじめで、暗い。
匂宮は、不良っぽくて、明るく陽気。
浮舟は、都の二大スターから言い寄られるという、夢のような設定。
二人の男性から言い寄られる…現在なら、恋愛小説、少女マンガの『黄金律』だけど、
紫式部は1000年以上前に、この法則を見つけていたのがすごい。
更に言うと、浮舟はモテる為に、努力していない。
そのままの自分を見出されただけ…そこがミソ。(これも『黄金律』の一部)
【感想】2
薫大将も匂宮も、なぜ浮舟が身を投げたのか悩む。
現代人の我々からしたら、「二人して浮舟を追い込んだ」と、フェミニストならずとも、解釈するだろう。
でも、私の判断は違う。
『黄金律』が浮舟を死に追いやったのだ。
【おまけ】1
比叡山・横川に薫大将が登るシーンがあるが、位置関係から、雲母坂ルートを利用して、根本中堂から玉体杉を通る尾根筋をたどって横川に行ったのだろうか?
あるいは、大原からも仰木峠を経て横川に登るルートはある。
小野は、文面から現在の滋賀県の小野だと、齟齬が生じる。
京都側、修学院か大原のあたりでないと話が合わない。
【おまけ】2
荻原規子さんは、自身のオリジナル作品では「濡れ場」を描かない。
しかし、「源氏物語」は全編「濡れ場」の連続である。
…そこのところ(折り合い)を訊いてみたい。
【おまけ】3
「源氏物語」を読んで感じるのは、氷室冴子さんも、松田志乃ぶさんも、
隅々まで読み込んで、自分の作品「ジャパネスク」「嘘つきは姫君のはじまり」を書かれている、ってこと。読んでいて、そう感じた。その意味でも「源氏物語」は偉大と言える。
【ネット上の紹介】
出生の秘密をかかえる青年は自らの体から芳香が漂い、競争心を燃やし調香に熱心な宮とともに、薫中将、匂宮と呼ばれていました。ひっそりと宇治で暮らす二人の姫君との出会いは、二人の若者を思いがけない恋の淵へ導くのでした。勾玉シリーズ、RDGシリーズの荻原規子によるスピード感あふれる新訳。
続編を読んだ。
登場人物すべてが猫という日本史。
心を癒やしながら、知識を得られる…かも。
「最澄殿!!真言宗は本では学べません!!」by空海ねこ
西暦1005年紫式部は道長の娘の中宮彰子に仕えることになりました…
【蛇足】
関係ないけど、デジカメを買い替えた。(急に壊れた、誤作動…2008年夏購入)
以前sonyを使っていたけど、今度はcanon(他意はない)気分転換。
少し画像かキレイになった?
IXY200本体=12,130+消費税
SDカード8G=1,680+消費税
「イソップ寓話の世界」中務哲郎
P119
ごましお頭の男が、若い娘と年たけた婆さんと、二人の愛人をもっていた。婆さんは、自分より若い男と語らうのが恥ずかしくて、男が通ってくるたびに、髪の毛の黒いのを抜き続けた。若い方は、年寄りを愛人にしていることをごまかそうとして、白髪を抜いた。こうして、両方から代わる代わる毛を抜かれた男は、禿になってしまった。(子供用「イソップ童話」には、この話は掲載されない、と思う。「愛人」「禿」「男が通う」など、モラルコードやポリティカルコレクトネスに抵触するワードが、短い中に満載で教育上不適切と思われるから)
P89
共同体を襲う災いやそこにある一切の罪穢れを担わせ、全員で境界の外に追い出し、あるいは殺害することによって集団が浄められたとする。このようなスケープゴートの儀礼の全世界からの例については、フレイザー『金枝篇』の記述に詳しいが、これは未開社会や古代社会に限られた現象ではないし、制度化された儀礼としてのみ現れるものでもない。疫病や大地震のような不時の災厄に際して、人間はどれほどのスケープゴートを作り出してきたことであろう。
【ネット上の紹介】
イソップの動物寓話は、子ども向けの人生訓話としてなじみ深いものである。けれども、ほぼ同時代のソクラテスやアリストパネス、ヘロドトスなどによってすでに真剣な考察の対象とされたように、そこには読み手の立場によって多様な解釈を許容する、奥行きをもった世界が展開されている。では、イソップとは誰なのか。それはいかなる経緯によって成立し、流布されていったのだろうか。先行文明としてのメソポタミアやエジプトをも視野に入れながら、イソップ寓話をとりまく謎に迫る。
第1章 イソップ寓話とは
第2章 寓話の起源
第3章 イソップの生涯
第4章 寓話の歴史の三区分
第5章 イソップ以前―ギリシアの場合
第6章 ギリシア作家とイソップ寓話
第7章 イソップ以前―日本の場合
第159回芥川賞・直木賞が発表された。
『送り火』 高橋弘希
【ネット上の紹介】
東京から山間の町に引越した中学三年生の歩。うまくやってきたはずだった。あの夏、河へ火を流す日までは。注目の俊英、渾身作!
『ファーストラヴ』 島本理生
【ネット上の紹介】
夏の日の夕方、多摩川沿いを血まみれで歩いていた女子大生・聖山環菜が逮捕された。彼女は父親の勤務先である美術学校に立ち寄り、あらかじめ購入していた包丁で父親を刺殺した。環菜は就職活動の最中で、その面接の帰りに凶行に及んだのだった。環菜の美貌も相まって、この事件はマスコミで大きく取り上げられた。なぜ彼女は父親を殺さなければならなかったのか?臨床心理士の真壁由紀は、この事件を題材としたノンフィクションの執筆を依頼され、環菜やその周辺の人々と面会を重ねることになる。そこから浮かび上がってくる、環菜の過去とは? 「家族」という名の迷宮を描く傑作長篇。
ポンポン山に登ってきた。
山頂は日陰がないので、早々に退散
水声の道は、川の音を聞きながら歩くことが出来るので、涼しげ
下山後、帰宅途中のスーパーで、ソフトクリーム、アイスミルク、カルピスソーダを買った。
このために、登ったようなものだ。
先週は、購入してずっと積んだままにしていた「紫の結び」を読んでいた。
荻原規子版「源氏物語」である。
とても分かりやすい、シンプルで美しい日本語を駆使して、「源氏物語」が再現される。
また、読みやすいように工夫もされている。
源氏物語のメインキャストは光源氏と紫の上。
この二人を中心に物語が流れるようにしてある。
そして、二人の出会いから晩年までが描かれる。
すっきりスピーディに、それでいて原作を損なわない、という至難の業だ。
2巻の終わりあたりから3巻半ばが「若菜」になり、核心となる。
最終章は「雲隠」。
P89
大堰川ほとりの屋敷は、見映えもよく、住み慣れた海辺にも似たところがあるので、転居した違和感は少しでした。(現在の大堰川は南丹市八木地区から亀岡にかけてを指す。本作品の文章を読むと、嵯峨野、つまり嵐山の渡月橋あたりを意味しているようだ。明石の君が相続した屋敷が、この川のほとりにある、と。源氏の君の御堂も大覚寺の南にある。ちなみに、寂聴先生の寂庵は、化野念仏寺ほどじゃないけど、かなり嵯峨野でも奥にある。また、嵯峨野は源氏物語ゆかりの野宮神社もあり「賢木」の舞台。関係ないけど、「美しき言つくしてよ」で、真幸と有子がデートしたのも、この辺りではないかと推測される)
P157
斎院も今では仏道に励み、一心不乱に修行をしているようだ。
(斎院がなぜ仏道に、と不思議に思うかもしれない。でも、この朝顔斎院も出家している。神仏習合で違和感がないのでしょう)
【著者あとがき】
P333
紫の上は、女三の宮を妻に迎えた時点で、たいそう静かに源氏の君を見限ります。揺るぎない愛情という幻影を捨て去り、以後二度と考え直しません。そのことが、彼女の死期を早める要因になります。(この洞察がすばらしい。紫の上は、あれだけ源氏の君に愛され長い年月を共にしながら、子どもを産まずに亡くなる。このあたりが、佐野洋子さんにより、『源氏はあまたの女に情けをかけながら1人として幸せにしていない』と言われる所以だ)
P334
この物語は、読まない人から思われているほど、理想の美男子にうっとりするための読み物ではありません。もてはやされる人物のだめな部分が一貫していることろに、本当の凄味があるのです。
PS
登場人物たちは、名前の代わりに役職で呼ばれる。
役職が変わるたびに、呼び名も変わり、覚えなおさないといけない。
「源氏物語」のハードルのひとつ、と思う。
本作品では、分かりやすいよう工夫が凝らされているが、
それでも「誰だったっけ」となる。(歳はとりたくないものだ)
【ネット上の紹介】
帝に特別に愛された薄幸の女性に端を発して物語は進んでいきます。死んだ母に似ているという父の新しい妃に対する思慕。山里で源氏はその妃の面影を持つ少女を垣間見ます。紫の上との出会いでした。勾玉シリーズ、RDGシリーズの荻原規子によるスピード感あふれる新訳。紫の上を中心に再構築した、みずみずしい源氏物語。
「ねこねこ日本史」そにしけんじ
マンガ日本史…よくある企画だ。
ただ違うのは、登場人物がすべて猫、ってこと。
上杉謙信も武田信玄も織田信長も猫。
ただ、秀吉だけサル、である。
桶狭間の戦い…信長はたったの二千とサル一匹
史上最も有名な第四次川中島の戦い、今回は「きつつき戦法」で行きます
【参考リンク】
ねこねこ日本史 | NHKアニメワールド - NHKオンライン
【ネット上の紹介】
サイズが大きくなって読みやすい!ぜんぶふりがなつき!わかりやすい解説つき!日本史の重要人物が、かわいいマンガで楽しく学べる!朝読にオススメニャー!!
「十五の夏」佐藤優(上・下)
1975年、高校1年の夏休み、佐藤優少年は旅に出る。
約40日間、東欧とソ連の旅。
「栴檀は双葉より芳し」と言うが、佐藤少年は、既に問題意識が高かった。
それにしても、両親もよくOKしてお金を出してくれたなぁ。
今回の場合、本人より両親がえらいように感じる。
上巻P336
「日本で知ったルーマニアのイメージは、もっと肯定的でした。東欧社会主義国でありながら、自由がある。アメリカのニクソン大統領もルーマニアを訪問した。ルーマニアはワルシャワ条約機構の一員でありながら、1968年の『プラハの春』に対する軍事介入をしませんでした」
「対外的な自主外交と国内統治は違う。この国の内政は実に酷い。ソ連の方がずっと自由だ。おそらく、この国よりも国民に対する抑圧が厳しいのはアルバニアしかないと思う。ニコラエ・チャウシェスクに対する個人崇拝は、スターリンを上回っている。(後略)」
下巻P105
「日本人は思想に関して鈍感だ。だから、天皇制神話のようなものを本気で信じ込んでいた。もっとも陸軍将校では、神憑り的な皇国神話を信じていた人は少ない」
下巻P109
「高校1年生の夏休みにソ連・東欧に一人旅をするような少年が、将来、中学校の教師になることはない。佐藤君は、自分では認めたくないだろうが、大きな野心を持っている」
「野心なんかないと思います」
「いや、ある。ただ、若者が抱く立身出世や発明家になりたいという類とは異なる野心だ」
そう言って、篠原さんは笑った。
下巻P435
「ほんとうに好きなことをしていて、食べていけない人を僕は一人も見たことはない。ただし、中途半端に好きなことではなく、ほんとうに好きなことでないとダメだよ。(後略)」
高校一年の旅、これだけ克明に記憶しているのか、と驚嘆する。
その時につけた記録を見ながら書かれてるのだろうか、会話を詳細に覚えているのがすごい。
会話までノートに記録しないだろうから。
またそれとは逆に、数学の問題について、何度も繰り返し説明される。
「それさっき聞いたから」と言いたくなる。
本書を書いていて、その辺のダブりは記憶から抜けるのか、全体を通して読み返していないのか、気にならないのか、よっぽど強調したいのか、何度も繰り返し言いたくなるほどトラウマなのか、どれなの?
【おまけ】
現代日本の「知の巨人」と言うと、佐藤優さんと池上彰さんを思い出す。
両者を比べると、佐藤優さんは少し癖がある。
言動を見ても、共感するものもあれば、首肯出来ないものもある。
そこが違う。
【さらにおまけ】
TVでの池上彰さんは、例えば原発問題など意見の分かれている事案には、自分の意見を前面に出さない…でも注意深く聞くと、地震列島に原発を乱立するのは無謀だ、と婉曲に表現しているんだな、と分かる。そのように、映像の流れを演出している。
【蛇足】
本書を読んで、ハンガリーとポーランドに行ってみたくなった。
ウクライナ、ロシアも一度くらい行っておきたい…かな。
【ネット上の紹介】
一九七五年、高一の夏休み。ソ連・東欧一人旅。 異能の元外交官にして、作家・神学者である“知の巨人"の 思想と行動の原点。40日間の旅行記。 僕がソ連・東欧を旅することになったのは、高校入学に対する両親からの「御褒美」だ。旅行費用は、僕の手持ちの小遣いを入れて、48万円もかかる。僕は父の給与がいったいいくらか知らないが、浦和高校の3年間の授業料の10倍以上になるのは間違いない。両親には申し訳ないと思ったが、好奇心を優先した。 羽田→カイロ空港→チューリヒ→シャフハウゼン→シュツットガルト→ミュンヘン→プラハ→ワルシャワ→ブダペシュト→ブカレスト→キエフ→ →モスクワ→サマルカンド→ブハラ→タシケント→ハバロフスク→ナホトカ→バイカル号→横浜
第1章 YSトラベル
第2章 社会主義国
第3章 マルギット島
第4章 フィフィ
第5章 寝台列車
第6章 日ソ友の会
第7章 モスクワ放送局
第8章 中央アジア
第9章 バイカル号
第10章 その後
「美貌の人」中野京子
中野京子さんの絵画エッセイ。
絵画で扱われた美貌の女性、男性が取り上げられている。
下の絵はマグダラのマリア。
クリヴェッリ作品。
下の絵は「スザンナと長老たち」
「スザンナ」という名はヘブライ語の「百合」からきている。スザンヌ、シュザンヌ、スーザン……どれも語源は同じだ。そして百合といえば、真っ先に思い出されるのが「受胎告知」の場。大天使ガブリエルが処女マリアに捧げていたのがこの花だった。当然ながらシンボル的にも、「純潔」「無垢」「貞節」となる。この絵のヒロインがどういう人間であるかを、名によって知らしめているのだ。
【ネット上の紹介】
絵画のなかの美しいひとたちは、なぜ描かれることになったのか。その後、消失することなく愛でられた作品の数々。本書では、40の作品を中心に美貌の奥に潜む光と影を探る。
第1章 古典のなかの美しいひと(プロセルピナ―ロセッティ
アポロンとマルシュアス―ペルジーノ ほか)
第2章 憧れの貴人たち(侯爵夫人ブリジーダ・スピノラ=ドーリア―ルーベンス
デヴォンシャー公爵夫人―トマス・ゲインズバラ ほか)
第3章 才能と容姿に恵まれた芸術家(シャネル―マリー・ローランサン
凸面鏡の自画像―パルミジャニーノ ほか)
第4章 創作意欲をかきたてたミューズ(商人の妻のティータイム―クストーディエフ
ブージヴァルのダンス―ルノワール ほか)
「私たち、戦争人間について」石川明人
昨年読んだ「キリスト教と戦争」はとてもよかった。→「キリスト教と戦争」 石川明人
本作品は、さらに範囲を広げて、戦争とは何か、戦争をなくすことができるのか、と言った根源的な問いに対する作品となっている。
P33
戦争に対する問いは、究極的には、人間とは何か、という問いに行き着く。
そして、人間とは何かという問いは、私とは何か、私とはどんな人間か、という自問や自覚とも連動している。本書を書き進めていこうとするうえで感じる羞恥と逡巡は、おそらくそこに由来する。
P129
日本の種子島に鉄砲が伝来したのは、1542年前後とされている。フランシスコ・ザビエルが鹿児島にやってきてキリスト教を伝えたのは1549年なので、「新兵器」と「愛の教え」はほぼ同時期に日本に入ってきたことになる。
P244
ヨーロッパでは、同じキリスト教徒たちが凄惨な戦いを繰り広げてきた。彼らは決して、互いについて無知だったわけではないであろう。相手をよく知り、相手をよく理解してさえいれば仲良くできるわけではない。
P267
「九条があること」と「長いあいだ戦争をしていないこと」とのあいだに本当に因果関係があると言えるのかどうかについての義論さえ曖昧である。
戦争を繰り返してはいけない、と言うならば、今現在の戦争、軍事、国際情勢について学ぶことこそ重視されなければならないはずだ。
P268
わが国では、戦争中は「必勝への信念」が重視されたが、戦後はそれが、単純に「平和への信念」へと切り替えられた。「信念」が好きなのだ。「戦争」も「平和」も、道徳感覚と結び付けられ、情緒で語り、情緒で説得しようとする傾向が強い。
P271
歴史から学べと人は言うが、純粋な平和主義など少なくとも政治的レベルでは現実的ではないということこそ歴史の教訓ではないのか、といった疑問もあり得るだろう。
地上から武器を減らしていくことは、平和構築の第一歩だ。しかし、他国に軍縮をうながし、それを強制することができるのは、基本的には、その国を上回る軍事力だけだというのが冷厳な現実ではないだろうか。
P276
戦争と平和について考えるうえで重要なのは、「愛」ではない。「愛が大事」なのではなく、人は人を愛せない、全ての人は愛せない、という単純な事実認識が大事なのである。
P284
本書の狙いは、序章でも述べたとおり、戦争の不可解さについて答えることではなく、むしろ問いかけることであることをご理解いただければと思う。
【参考リンク】
石川明人『私たち、戦争人間について』
【ネット上の紹介】
人はなぜ、平和を祈りながら戦い続けるのか?私たちの“凡庸な悪”を正視するための、たぐいなき戦争随筆。長らく忌避されてきた“軍事の思考”を始めるに恰好な、助走路的エッセー。
序章 この世界のいったいどこに神がいるのか
第1章 戦争の原因は何か、という問いについて
第2章 戦争は人間の本性に基づいているのか
第3章 戦争の役に立つ技術と知識
第4章 あまり自明ではない「戦争」概念
第5章 戦時における人の精神と想像力
第6章 私たちの愛と平和主義には限界がある
6/18(月曜)に起こった地震により、ずっと市内の図書館全館、分室も含めて休館していた。
本日から、約2週間ぶりに再開した。(ありがたいことだ)
図書館サイトは毎日チェックしていたが、昨夜に見ても、「休館中」となっていた。
「明日、日曜もだめだな」、と思っていた。
「とりあえず分室の掲示板でも見ておくか」と、散髪の帰りに立ち寄ると、なんと開館しているではないか。(後ほど図書館サイトを見ると、「開館」のお知らせが日曜早朝にアップされていた)
さっそく図書カードを見せて、取り寄せた図書を借りた。
司書の方に聞くと、「他の分室は、いくつか閉鎖続行中」とのこと。
「本棚たおれましたか?」と、私。
「倒れなかったが、一部破損しました」、と司書の方。確かに、バーが破損して、立ち入り禁止区間がある。
「本は落ちましたか?」と、さらに私は聞いた。
「落ちました!」…う~ん、やっぱりな。
図書館の本棚は、倒れたりしないよう補強されている。
それでも、今回の地震は下から突き上げたので、補強バーが破損し、書籍が散乱したのだろう。
また、図書館分室のある施設が避難所になっているところは、今でも休室している。
「避難所が閉鎖され、施設が開館した場合は、図書分室も開室する予定です」と掲示されている。
全館、全室再開は、まだ少し先になりそうだ。
とりあえず、最寄りの分室が再開してありがたい。(ある意味、ガス停止と同じくらいこたえた)