「みんぱく」に行ってきた。
今年は、「みんぱく」創設50周年。
何度も行ってるけど、飽きない。
企画展は水俣病
開催日:2024年03月14日〜2024年06月18日
石牟礼道子さん「椿の海の記」生原稿
*なお9月から、新しい企画展が始まる。
「客家と日本――華僑華人がつむぐ、もうひとつの東アジア関係史」
開催期間:2024年09月05日〜2024年12月03日
*客家は歴史上有名人が多いので気になる企画展
【覚書】
山岳保険を更新した。3年で76,860円
自分の怪我はもちろん、人を怪我させた場合を想定している。
「「怖い絵」で人間を読む」中野京子
読み返し。
P70・・・エリザベート皇后
傍からはおとぎ話のように始まった夫婦の物語ですが、実態は、悲しいふたりが45年かけて、結婚すべきではなかったという事実を確認し合っただけのように思えます。
P102
アントワネットを醜化しようとしたにもかかわらず、期せずしてダヴィッドの確かなデッサン力は、王権神授説のもとに育てられたプリンセスたる者の矜持を、その凄みとともに描きとめてしまったといえるでしょう。
断頭台に向かうマリー・アントワネット
薔薇を持つマリー・アントワネット
【ネット上の紹介】
名匠ベラスケスの手による、スペイン・ハプスブルク家の王子の一見かわいらしい肖像画。しかし、その絵が生まれた“時代の眼”で見ていくと、人間心理の奥底に眠る「恐怖」の側面が浮かび上がる。悪意、呪縛、嫉妬、猜疑、傲慢、憤怒、淫欲、凌辱、そして狂気…。詳細な解説を付したカラー図版三十三点を読み解くことで見えてくる人間の本性とは―。
運命の章―ベラスケス『フェリペ・プロスペロ王子』
呪縛の章―ヴィンターハルター『エリザベート皇后』
憎悪の章―ダヴィッド『マリー・アントワネット最後の肖像』
狂気の章―ゴヤ『我が子を喰らうサトゥルヌス』
喪失の章―ベックリン『死の島』
憤怒の章―レーピン『イワン雷帝とその息子』
凌辱の章―シーレ『死と乙女』
救済の章―グリューネヴァルト『イーゼンハイムの祭壇画』
②「風にもまけず粗茶一服」松村栄子
③「花のお江戸で粗茶一服」松村栄子
「粗茶一服」シリーズ再読。
①P56-P58
「弘法さんの五重の塔やわ」
(中略)
巨大な西本願寺の前を通過した。
(中略)
「あんなぁ、蛸薬師を左折してな」
(東京から東名→名神、京都南で下りて北上している。以上の説明からおよその場所を特定できる)
整合性、巧みな伏線、見事な完成度。
このシリーズは面白いので、コンスタントに再読している。
【参考リンク】
「雨にもまけず粗茶一服」松村栄子
「風にもまけず粗茶一服」松村栄子
「花のお江戸で粗茶一服」松村栄子
「粗茶」シリーズ再読
「名画で読み解くプロイセン王家12の物語」中野京子
P44
(フリードリッヒ)大王は父フリードリッヒ・ヴィルヘルム一世よりもっとオープンで、入植を希望するならどんな異教徒でもかまわない、モスクを建ててもいい、宗教より実直な人間性のほうが重要だ、と言い切り、移民・難民受け入れをさらに拡大してプロイセンを大躍進させることになる(現代ドイツが移民に寛容な背景にはこうした歴史がある)
P55
18世紀ヨーロッパは、絶対君主が啓蒙思想を身にまとおうとした時代だ。
P72
フランスはプロイセンを非文明国と蔑んでいたが、すでに15年も前にフリードリッヒ大王は拷問を廃止していたし、信教の自由は彼の祖父の代から認められていた。
どちらが野蛮やら。
P98
とかく隣国同士は仲が悪い。冗談まじりとはいえ、フランスは「ヒトラーのせいでひどい目にあわされた」とドイツを非難し、ドイツはフランスに「ナポレオンはもっとひどかった」と言い返す。
P102
プロイセンでは、他国ほどフランス発祥の革命運動に大きく影響されなかったが、それは歴代の王が総じて質素で、禁欲的でさえあったのも要因だ。
P162・・・岩倉具視使節団について
一君主にすぎなかったプロイセンが短期間に、それもほぼビスマルク一人の剛腕によって統一帝国にのし上がったという事実は、使節たちを興奮させずにおかなかった。ビスマルクも遠いアジアからの若い訪問者たちにアドバイスして曰く、列強の植民地にならぬためには、富国強兵に励み、独立を守らねばならない。
【ネット上の紹介】
長い群雄割拠時代を経て、十九世紀、プロイセンのホーエンツォレルン家はついにドイツを一つにまとめ、帝国を形成してヨーロッパ最強国の一角に食い込んだ。フリードリヒ大王とビスマルク―二人の傑物がいなければ、この偉業は成しえなかったろう。激動の二百十七年の光と闇、運、不運、そして熱い人間ドラマを、色彩豊かな名画とともに読み解いてゆく。オールカラー版、中野京子の人気シリーズ、第五弾!
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴァイデマン『フリードリヒ一世』
ザムエル・ゲーリケ『少年時代のフリードリヒ・ヴィルヘルム一世』
アントン・グラフ『フリードリヒ大王』
アドルフ・フォン・メンツェル『サンスーシ宮殿の食卓』
アントン・グラフ『フリードリヒ・ヴィルヘルム二世』
F・G・ヴァイチュ『シャルロッテンブルク宮殿庭園のフリードリヒ・ヴィルヘルム三世と王妃ルイーゼ』
エドゥアルト・ゲルトナー『ブライテン通りのバリケード』
カール・シュテフェク『散歩中のルイーゼ妃と二人の息子』
フランツ・フォン・レンバッハ『ビスマルク』
アントン・フォン・ヴェルナー『ドイツ皇帝即位式』
マックス・コーナー『ヴィルヘルム二世』
ジョン・シンガー・サージェント『ガス』
「 美術品でたどるマリー・アントワネットの生涯」中野京子
読み返し。
デュー・バリー夫人との対立について
P67
「負けて勝つ」という戦いができなかったのは、年齢のせいばかりではないだろう。皆が感じたように、すでにもうここにアントワネットの性格上の特徴がはっきりあらわれている。侮辱を許さぬプライドの高さだ。それは自信のない人間に限って極端な表出となる。
ポリニャック夫人について
P105
ポリニャック家はブルボンの疫病神だったのかもしれない。
(ランバル公爵夫人は最後まで忠誠を尽くし暴徒に惨殺される、一方ポリニャック夫人は財産を抱えて国外逃亡、息子は王政復古で首相となりブルボン終焉に導く)
ヴェルサイユからチュイルリー(1世紀以上も捨て置かれた建物で荒れ放題)へ移される・・・P135
ルイ・シャルルが、「ここはずいぶん汚いね、ママ」と言ったとき、アントワネットの返事はみごとなものだ。「ここにはルイ14世がお住みになり、居心地が良いと思われていたのですよ。わたしたちがそれ以上を要求してはなりません」。
この誇り高い言葉は、次の感慨へ一直線に続いている、「不幸になって初めて、自分が何者かわかるのです」。
ルイ16世の遺書
P165
「我が妻には、わたしのせいで彼女の身にふりかかってしまった不幸、そしてともに過ごした期間にわたしが彼女に与えたであろう悲しみについて赦しを乞います」
P182-189
荷馬車がようやくコンコルド広場に着いた時、ギロチン台の周りには一万人もの群衆が集まっていた。アントワネットはしっかりした足取りで階段を上がったが、死刑執行人の足を踏んでしまい、「ごめんなさいね」と謝った。急激に痩せたせいなのか、その時、靴が片方脱げてそのままになったという。まるでシンデレラのように。(死ぬ直前、死刑執行人を気遣うこころばえに心がうたれる。その時の靴は、カン美術館に保管されている)
【参考リンク】
「マリー・アントワネット運命の24時間」中野京子
【ネット上の紹介】
フランスの栄華をきわめたヴェルサイユの歴史。なかでも最も魅惑的な人物として語り継がれる悲劇のヒロイン、マリー・アントワネット―その三十八年の生涯を、「ヴェルサイユ宮殿(監修)マリー・アントワネット展」の出展作品を題材にしながら紡いでいく。王妃の運命を決めた“偶然・暗転・想定外”(コラム)を収載。
[目次]
ハプスブルク家のプリンセス
変わりはじめた国際地図
嫁ぎ先ブルボン家
王太子妃としての生活
神に選ばれた王妃
ロココの薔薇
忍び寄る革命
「パリへ!」
逃亡失敗とフェルゼン
引き裂かれた家族
忘れ得ぬ王妃
「島へ免許を取りに行く」星野博美
何度目かの読み返し。
タイトルの「島」とは長崎・福江島のこと。
ここに五島自動車学校がある。
P18
合宿免許・・・・・・。二十年前ならともかく、もう40も半ばだよ。高校卒業したての子たちと一緒に合宿するなんて、悪い冗談にしか聞こえなかった。
P142
「いいなあ。大村って1回いってみたい。大村純忠の町でしょ」と言ったところ、「誰ですか、それ?」と思いきり怪訝な顔をされた。
「大村純忠。知らない?日本で最初に洗礼を受けたキリシタン大名で、十字架を首からさげて戦場に行ってたらしいよ」
(大村には長崎空港があるので訪問することになる)
P145
「バイキング」というのは、島の北端、三井楽にある道の駅「遣唐使ふるさと館」のレストランでバイキング式ランチを食べる、という意味だ。(中略)
「遣唐使館、三井楽教会、淵ノ元カトリック墓碑群、水ノ浦教会、楠原教会、ってルートはいかがでしょうか」
先生は目を丸くした。
「星野さんはまだ路上にも出とらんのに、島の地理をよう知っとるね」
(私も昨年11月にそれぞれ訪問してきた)
P248-249
質問 いつまでも運転がうまくならず、「下手くそ」と言われ続けています。
回答 運転を形容する言葉は二種類しかありません。それは「安全」と「危険」であって、「上手」「下手」ではない。目指すべきは「安全な運転」であてって、「上手な運転」ではない。運転技術の向上などまったく目指さなくてよか。「上手だけど危険」、これが一番いかん。「下手でも安全」、それでよかとです。
【参考リンク】
・・・五島自動車学校
〒853-0026
長崎県五島市浜町424番3
「島へ免許を取りに行く」星野博美
「島へ免許を取りに行く」星野博美
【ネット上の紹介】
愛する猫をなくしたうえに、人間関係はズタズタ。いやな流れを断ち切りたい。日常に小さな風穴を開けたくて向かったのは、島の小さな自動車学校。そこは、山羊や犬やにわとりがいて、馬にも乗れる牧場のような学校だった!人生の示唆に富む運転教習に悪戦苦闘しながらも過ごした数週間。人や動物や車とのふれ合いから見えてきた風景は?読めば、新しい何かに挑戦したくなる名作エッセイ。
[目次]
第1章(それはにわとりですか?
自動車学校で馬に乗る?? ほか)
第2章(新しい生活
初めて車を運転する ほか)
第3章(世界が逆転する
不思議な教科書 ほか)
第4章(車脳
逃避行 ほか)
第5章(仮免
路上デビュー ほか)
第6章(五島は「出る」
それぞれの旅立ち ほか)
第7章(免許取得
地獄篇 ほか)
「いつか陽のあたる場所で」「すれ違う背中を」「いちばん長い夜に」
約5年ぶり読み返し。
P122「いちばん長い夜に」
「私は私なりに、自分のことをよく知っているつもりです。私のような人間は、一人で生きて、一人で死んでいくべきだと思っています」
P313
冬至は古くから「生まれ変わり」の日と考えられてきたのだということだった。この日を境に、再び日一日と昼間の時間が長くなっていく。つまり太陽が生まれ変わって、また新しい1年を築き始めるという考え方があるのだそうだ。
だからこそ冬至には、これから新たに運が向きますようにと願いをこめる。
著者あとがきより
小森谷芭子と江口綾香には、共に前科持ちという事情がある。罪を犯した代償として人生を大きく狂わせ、多くのものを失った彼女たちにとっては「取り立てて大きなことの起こらない日常」こそが貴重であり、かけがえのないものに違いない。(中略)だから、「あえて何も起こらない話」にしようと思っていた。
この物語が、まさかこういう終わり方をするとは、私自身もまったく予測していなかった。だが、生き残ったものは生き続けなければならない。体験したことを決して忘れることなく、胸に刻みつつ、それでも諦めずに。芭子と綾香とは、既に新たなステップに踏み出している。
【リンク】
「いつか陽のあたる場所で」乃南アサ
「すれ違う背中を」乃南アサ
「いちばん長い夜に」乃南アサ
【ネット上の紹介】
前科持ちの刑務所仲間―それが芭子と綾香の関係だった。“過去”に怯えながらも、東京の下町に居場所を見つけて、ゆっくりと歩き始めた時、二人は自分たちの大きな違いに気づき始める。人を殺めるとは何か。人が生きていくとは何か。亡くなった人間が残すものとは何か。そして、いつか、彼女たちの長い夜は明けるのだろうか?
「プロテスタンティズム 宗教改革から現代政治まで」深井智朗
読み返し。
マルティン・ルター
PⅧ
プロテスタントは、ルターの改革以後に発生したさまざまな教会とその信者たちを指す。そしてプロテスタンティズムとは、いわゆる宗教改革と呼ばれた一連の出来事、あるいは1517年のルターの行動によってはじまったとされる潮流が生み出した、その後のあらゆる歴史的影響力の総称だ。
P5
なぜキリスト教は北アフリカやパレスチナを離れ、北上し、その中心をヨーロッパへと移したのであろうか。諸説あるが、おそらくその理由の一つは、イスラムに地中海地域の覇権を奪われたからであろう。
P9
さらに教会はこう説明したのである。天国に行くためには教会の教えに従う必要がある。天国への道を知っているのは教会だけで、その道を通過せずには天国に行けないのだと。これがキリスト教的ヨーロッパの完成であった。教会は天国とそこにいたる通路を支配した。教会は「あの世」というきわめて宗教的な問題を取り扱っているのだが、実際には「この世」を支配した。
P29
贖宥状は便利なもので、信者の側からすれば罪の償いと天国行きの確約がお金で買えるし、取り引きできる。天国行きの確証を目に見える形で手に入れることができる。他方で教会の側からすれば、これを販売することで現金収入がある。そしてこれは人々が欲しいものだから、完全に売り手市場である。
P31
教会はその土地の支配者の私有物であり、貴族や諸侯の次男や三男がその職を聖職録とともに受け継いでいることが多かった。地方の聖職者の多くは聖書を読んだこともなく、ミサの順番さえ知らなかったし、キリスト教の教えを体系的に説明することなどもできなかった。
P40
1517年の贖宥状批判の狙いをここで確認しておこう。それは、西ヨーロッパのキリスト教であるカトリックのリフォームをめざしたものだ。新しい宗派としてのプロテスタントが誕生したわけではない。ルターはたしかに討論を呼びかけたが、新しい宗派を造ったとは考えていないし、そもそも生み出そうともしていなかった。
P59
もともと聖書はヘブライ語とギリシャ語で書かれているが、彼は新約聖書の部分を1522年に、旧約聖書は1534年にドイツ語に訳した。
P65
カール五世は自ら起草した判決文を読み上げ、破門となったルターを異端と宣言した。
P66
東方で急速な拡大を続けるオスマン帝国が1526年にハンガリー王国に勝利し、国教に迫る勢いを見せていた。そのためカール五世は国内勢力の結集のために、ルターを擁護する諸侯に対して強く出られなかったのであろう。
P72
ルターの教会制度批判が本気だと人々が確信したのはおそらく彼が結婚した時であろう。
カルヴィニズムについて
P96
東欧やオランダでは影響力を拡大し、フランスではユグノーと呼ばれるようになり、またスコットランドでは国教となっている。スコットランドでカルヴァンの影響を受けた人々は長老派と呼ばれるようになった。
ルターとカルヴァン(右)
P98
すべての信徒が聖書を読み、解釈する自由を認めたプロテスタントは解釈をめぐって争い、分裂し、互いに対立するようになった。「プロテスタントの宗派や教団についての本を書けばそれは必ず電話帳よりも厚くなる」という冗談があるほどだ。
P116
おそらく一番力を入れたのは、日曜日の礼拝の充実であった。(中略)
(礼拝は英語で「サービス」という)。
P154
ニーチェはルター派の牧師の息子で、キリスト教をラディカルに批判し、否定したと理解されているがそれは正確ではない。ニーチェは、彼の父親にその姿を見たような権威主義的な教会と制度としてのキリスト教を否定したのであって、キリスト教を批判したのではない。
P168
大西洋を渡ったのはピューリタンと呼ばれる人々であったが、彼らは特定の教派ではなかった。ピューリタンには長老派、会衆派、バプテストやクェーカーまでさまざまなグループがある。(中略)
1620年9月16日であった言われる。(中略)この船は現在のニューヨークのあたり、ハドソン川の川口をめざしていた。ピューリタンと呼ばれたまさに新プロテスタンティズムの精神を具現化した人々41人を含む102名(そのうち29名が女性)がその船に乗り込んでいた。66日をかけて船は大西洋を渡った。
P185
カウンタビリティとは神学用語である。神の前での最後の審判において、人間が天国行きの最終決定を受けるための、自分の人生についてのアカウンタビリティである。神の前で人生を説明してみせるのである。
P186
アメリカの公共宗教研究所の2014年の調査によれば、所属する宗教ではキリスト教が78.2%であった。(中略)神を全く信じない人々は8%で、どの宗教団体にも属さない人が14%いる。ユダヤ教とイスラムはそれぞれ2%程度である。(わずか2%なのに、米国がイスラエルを擁護するってどういうこと?)
日本のキリスト教徒人口は193万人、国民の1.5%、プロテスタント人口はその半分(2016年12/3、文化庁の調査)
P199
隣国の韓国がほぼ同時期にアメリカの宣教師によってプロテスタンティズムを伝えられ、今日では人口の30%以上がキリスト教徒であるのとは対照的である。
【誤植】
P36
早くから理解され。
↓
早くから理解された。
【追加】
「プロテスタンティズム」はとても良い本で、読売・吉野作造賞も受賞してたが、研究不正行為により受賞を取り消された。
【以下、Wikipediaより】
2019年5月10日、東洋英和女学院大学の調査委員会は研究活動上の不正行為(盗用および捏造)があったと認定し、同学院はこれを受けて開催した臨時理事会で深井を懲戒解雇処分とすることを決定した。調査では、深井が『ヴァイマールの聖なる政治的精神』で紹介した「神学者カール・レーフラー」は存在せず、その論文も捏造であることなどが認定された。
本人は一部に関して「想像で書いた」などと説明し、意図的な研究不正を認めていない。
【ネット上の紹介】
1517年に神聖ローマ帝国での修道士マルティン・ルターによる討論の呼びかけは、キリスト教の権威を大きく揺るがした。その後、聖書の解釈を最重要視する思想潮流はプロテスタンティズムと呼ばれ、ナショナリズム、保守主義、リベラリズムなど多面的な顔を持つにいたった。世界に広まる中で、政治や文化にも強い影響を及ぼしているプロテスタンティズムについて歴史的背景とともに解説し、その内実を明らかにする。
第1章 中世キリスト教世界と改革前夜
第2章 ハンマーの音は聞こえたのか
第3章 神聖ローマ帝国のリフォーム
第4章 宗教改革の終わり?
第5章 改革の改革へ
第6章 保守主義としてのプロテスタンティズム
第7章 リベラリズムとしてのプロテスタンティズム
終章 未完のプロジェクトとして
「椿の海の記」石牟礼道子
4歳頃の水俣が描かれている。
扉絵も著者自身による。
解説には次のように書かれている。
P302
これはあれが始まる前の幸福だった水俣の話であり、いわばあの悲劇の前史だ。この幸福感があったからこそ石牟礼道子は『苦海浄土』を書くことができたのだし、その意味ではこの『椿の海の記』が『苦海浄土』を下支えしているのだ。
【ネット上の紹介】
はだしで盲目で、心もおかしくなって、さまよってゆくおもかさま。四歳のみっちんは、その手をしっかりと握り、甘やかな記憶の海を漂う。失われてしまったふるさと水俣の豊饒な風景、「水銀漬」にされて「生き埋め」にされた壮大な魂の世界が、いま甦る。『苦海浄土』の著者の卓越した叙情性、類い希な表現力が溢れる傑作。