気分転換に海遊館に行ってきた。
「昭和史 1926-1945」半藤一利
読み返し。
毎日出版文化賞特別賞受賞。
昭和史の決定版、文章も読みやすい。
満州事変について
P81
この人たち(本庄繁・石原莞爾・三宅光治・板垣征四郎)は本来、大元帥命令なくして戦争をはじめた重罪人で、陸軍刑法に従えば死刑のはずなんです。
(中略)
昭和がダメになったのは、この瞬間だというのが、私の思いであります。
上海事変
P96
中央からもらった2万円で、自分の愛人で「東洋のマタ・ハリ」と言われている川島芳子も使って中国人に金をまき、事件を起こす算段をしました。そして1月18日、ついに事件はおきます。日蓮宗の坊さん2人が信徒3人を連れて上海の街を「南無妙法蓮華経」と托鉢して歩いている時、抗日運動が盛んな頃ですから、反日分子――といってもそう装わせた中国人――がそれを襲撃し、結果としては2人が死に3人が重症を負うという殺人事件になりました。
この無法をチャンスとした日本軍は、「犯人をだせ」と厳重抗議をします。中国側は覚えがありませんから「何を言うか」ともみ合って一触即発になります。向こうは反日で燃えてますし、こっちはやる気じゅうぶんというか元々そのつもりなんですから、あっという間に火を噴いて、10日後、中国軍と日本軍が弾を撃ち合う大事件に発展したのです。
今話したことはのちにわかったことで、当時はまさか日本軍の謀略で田中隆吉と川島芳子が組んでしかけたなんて誰も知りませんから「やっぱりはじまったか」と日本人の皆が思った。
2.26事件
P159
私は生き残った少尉4人に戦後もずっと後に会いまして「殺すことはなかったんじゃないですか」と聞いたところ、4人共「そうなんだよなあ」と、どうも後悔していたようです。
P177
この年の5月18日、かの有名な「安部定事件」が起きます。(中略)
ちょうどこの時に、チャップリンとフランスの詩人ジャン・コクトーが来日しましたが、ともにあまり騒がれないほど国民は安部定事件の話題で沸いていました。
P181
西安というのは、唐の時代(618~907)の世界的大都市だった長安で、始皇帝の墓や兵馬俑、三蔵法師が仏教の経典を持って来て納めたという大雁塔などがあります。その街はずれの温泉「華清地」で玄宗皇帝と楊貴妃が喋々喃々やっていたという話もあり、今は大歓楽地になっています。(その華清地の裏山に、蒋介石が軟禁された穴倉が残っているそうだ=即ち「西安事件」)
P182
西安事件とは、中国のナショナリズムが一つになって誕生する、まさに対日抗戦を可能にする歴史の転換点だったのです。
しかし日本は、この情報が伝わってきたにも関わらず、中国が今や一つになろうとしていることをまったく理解していませんでした。
昭和12年、野上弥生子さん、年頭の新聞紙上での挨拶
P183
「(前略)洪水があっても、大地震があっても、暴風雨があっても、・・・・・・コレラとペストがいっしょにはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように・・・・・・」
盧溝橋事件の際の牟田口廉也
P188
「敵に撃たれたら撃て、断固戦闘するも差し支えなし」
まさしく抗戦命令です。こういう命令は、ほんとうはその上の旅団長にきちんとしらせるかたちをとって、統帥命令といいいますか、天皇命令にしないまでも、参謀本部命令にしないといけないのですが、牟田口さんは独断命令を一木大隊長に下したのです。
トラウトマン和平工作は昭和13年1月15日で打ち切られてしまうその翌日
P206
1月16日、近衛さんは声明を発します。これが有名な「国民党政府を相手にせず」、つまり国民政府を政府としては認めない、もう和平なんてしないというもので、これでは戦っている当事者は最後までやらざるを得なくなってしまいます。実に馬鹿げた話で、せっかく参謀本部が乗り気だったのに、政府が強行でぽしゃってしまったのです。(近衛文麿は昭和20年12月、服毒自殺している)
南京大虐殺
P197-201
その根拠は・・・
旧日本軍の集まりである偕行社「南京戦史」
いわゆる不法な行為によって殺されたとすれば、三万強がその数ということになりましょうか。
(中略)
ただ、中国が言うように三十万人を殺したというのは、東京裁判でもそう言われたのですが、あり得ない話です。当時、南京の市民が疎開して三十万もいなかったし、軍隊もそんなにいるはずはないのですから。
(比較の問題じゃないけど、文化大革命では40万人から1000万人以上と言われる)
P236
この戦い(ノモンハン事件)を指揮した関東軍の参謀が、服部卓四郎中佐と辻政信少佐でした。(中略)二人とものほほんとしたことを言っていますが、そこからは責任のセの字も読み取れません。まことにひどい話です。
P238
つまりノモンハン事件で膨大な被害を被らせた二人が再び参謀本部に戻って「今度は南だ」と南進政策――これはイギリス、アメリカとの正面衝突を意味します――を、「こんどこそ大丈夫」と言わんばかりに推進したのです。
P239
作戦課長・服部卓四郎大佐「サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかった・・・(後略)」
何たることか、ノモンハンの時にすでにわかっていたではないか(後略)。
・・・学習能力のない陸軍だった。
三国同盟が結ばれた時の西園寺公望の言葉
P319
「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上で死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」
P356
『昭和天皇独白録』には「・・・・・・国際信義を無視するもので、こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷める様に云ったが、・・・・・・」と驚くようなことが記されている。
P356
私などは調べれば調べるほど、近衛はこりゃだめな宰相だと思うのですが、昭和天皇はそうじゃなかったんですねえ。
ミッドウェー海戦について
P405
山本五十六の部下であった黒島亀人先任参謀がこう断言しているのです。
「作戦は少しも間違っていなかった。機動部隊指揮官の南雲中将が、あらゆる機会を捉えて、アメリカ空母を攻撃するようにという連合艦隊の命令を正しく実行していたら、この海戦は日本海軍が勝利をおさめていたことであろう」
P469
すでに7月24日、ポツダム宣言が出る前に、(原爆)投下命令が出されていたのです。(鈴木貫太郎は、ポツダム宣言に対して「黙殺」すると言明したが、どう訳したのかよく問題になる――ignore なのか、reject なのか?、と。しかし、既に投下命令が出ていたのなら、どうしようもない。「歴史をかえた誤訳」鳥飼玖美)
著者・半藤一利さんの感想&結論
P498
それにしても何とアホな戦争をしたものか。この長い授業の最後には、この一語のみがあるというほかはないのです。ほかの結論はありません。
歴史からの教訓
P503
①国民的熱狂をつくってはいけない
②具体的な理性的な方法論を検討せねばならない(希望的観測に頼ってはいけない)
③日本型タコツボ社会における小集団主義の弊害・・・参謀本部と軍令部は小集団エリート主義の弊害そのもの
④ポツダム宣言の受諾が意志の表明でしかなく、終戦はきちんと降伏文書の調印をしなければ完璧なものにならないという国際的常識を、理解していなかった
⑤対症療法で、その場その場のごまかし的な方策で処理してしまった
南進について・・・
P529
根拠なき自己過信、驕慢な無知、底知れない無責任と評するのは容易です。けれども、よく考えると、いまの日本も同じようなことをやっているのじゃないかと、・・・(後略)
ノモンハンの教訓
P533
①失敗を率直に認めず、その失敗から何も教訓を学ばないという態度
②情報というものを軽視し、非常に「驕慢な無知」に支配されていた
③「底知れぬ無責任」勇猛敢闘させるようなものであれば、失敗しても責任が問われなかった
【参考図書】
「地図と写真でみる半藤一利昭和史1926-1945」
「昭和史裁判」半藤一利/加藤陽子
「昭和の名将と愚将」半藤一利・保阪正康
「昭和史 戦後篇」半藤一利
「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて」大沼保昭/江川紹子
「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」加藤陽子
【ネット上の紹介】
授業形式の語り下ろしで「わかりやすい通史」として絶賛を博した「昭和史」シリーズ戦前・戦中篇。日本人はなぜ戦争を繰り返したのか―。すべての大事件の前には必ず小事件が起こるもの。国民的熱狂の危険、抽象的観念論への傾倒など、本書に記された5つの教訓は、現在もなお生きている。毎日出版文化賞特別賞受賞。講演録「ノモンハン事件から学ぶもの」を増補。
[目次]
昭和史の根底には“赤い夕陽の満州”があった―日露戦争に勝った意味
昭和は“陰謀”と“魔法の杖”で開幕した―張作霖爆殺と統帥権干犯
昭和がダメになったスタートの満州事変―関東軍の野望、満州国の建国
満州国は日本を“栄光ある孤立”に導いた―五・一五事件から国際連盟脱退まで
軍国主義への道はかく整備されていく―陸軍の派閥争い、天皇機関説
二・二六事件の眼目は「宮城占拠計画」にあった―大股で戦争体制へ
日中戦争・旗行列提灯行列の波は続いたが…―盧溝橋事件、南京事件
政府も軍部も強気一点張り、そしてノモンハン―軍縮脱退、国家総動員法
第二次大戦の勃発があらゆる問題を吹き飛ばした―米英との対立、ドイツへの接近
なぜ海軍は三国同盟をイエスと言ったか―ひた走る軍事国家への道
独ソの政略に振り回されるなか、南進論の大合唱―ドイツのソ連進攻
四つの御前会議、かくて戦争は決断された―太平洋戦争開戦前夜
栄光から悲惨へ、その逆転はあまりにも早かった―つかの間の「連勝」
大日本帝国にもはや勝機がなくなって…―ガダルカナル、インパール、サイパンの悲劇から特攻隊出撃へ
日本降伏を前に、駆け引きに狂奔する米国とソ連―ヤルタ会談、東京大空襲、沖縄本島決戦、そしてドイツ降伏
「堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ビ難キヲ忍ビ…」―ポツダム宣言受諾、終戦
三百十万の死者が語りかけてくれるものは?―昭和史二十年の教訓
ノモンハン事件から学ぶもの
珍しく米ドラマを観た。
「クローザー」
刑事ドラマで、基本1話完結。
第1シーズン=全13話
第2シーズン=全15話
第3シーズン=全14話
第4シーズン=全15話
第5シーズン=全15話
第6シーズン=全15話
第7(ファイナル)シーズン=全21話
現地では、2005年から2012年にかけて放映された。
1時間弱のなかにミステリ要素と人間模様が凝縮されている。
刑事ドラマは何作か試したが、一番面白いと感じた。
全シーズン観た作品は久しぶり。
参考までに、良く出る単語を書き出しておく。
public prosecutor 検事
lawyer, attorney 弁護士
Law court 法廷
detective 刑事
police officer 警官
victim 犠牲者
body 死体
homicide, murder 殺人
execution 執行
stay of execution 執行猶予
あと気がついたのは、字幕ではベンツとなっているが、ドラマではメルセデス(Mercedes)と言っている。ポルシェ(Porsche)は、ポーシュと言っている。
ロサンジェルスを舞台に展開するが、
ロサンジェルスの略はLA。(元はスペイン語Los Ángelesで、「天使」の複数形)
ロスと略すのは和製英語。
【追加】・・・特におもしろい回。
第2シーズン=第8話「永遠を誓った場所」(日本人と親子心中を扱っている)
第2シーズン=第9話「神の選択」(医療現場での死亡、ミスか故意か)
第3シーズン、第8話「海外線の殺人者」(犯人とブレンダの直接対決)
第3シーズン、第9話「告発の余波」(エレベーターでの緊迫した尋問)
第5シーズン、第9話「消えた凶器」(予感したテイラーが「まあ見ていろ」と)
第6シーズン、第2話「不条理な排斥」(緊迫の対決シーン)
「ミッションスクールになぜ美人が多いのか」井上章一/郭南燕/川村信三
京女(京都女子大)は、3Bと言われているそうだ。
同女(同志社女子大)は、3Kだそうだ。
3B=不細工、貧乏、仏教
3K=可愛い、金持、キリスト教(かしこい、きれい、の説もある)
これって当たってるのだろうか?
京女に通っていたら、世間の評判も高いし就職、結婚は有利と思う。
初等科から通ってたら貧乏ではない、と思うけど。
単に、京女の自虐ネタのように思う。
ただ、具体的な数字として、女性ファッション誌の読者モデル、女子アナの出身校を見ると圧倒的にキリスト教系の学校を卒業している方が多い。
皇室との親和性も高く、イメージアップに貢献した。
美智子上皇后;双葉学園双葉小学校、聖心女子学園中等科・高等科を経て、聖心女子大学卒業
雅子皇后;田園調布双葉小学校、中学高等学校(大学はハーバード、東大、オックスフォード)
秋篠宮家の姉妹は国際基督教大学だし。
P32
今、多くの男女は、デートのクライマックスを、クリスマスイブの晩に設定する。京都の若い僧侶を見るかぎり、その様子は仏教界でもかわらない。(中略)ブッダの降誕日とされる4月8日に、男女交際の勝負をかける僧は、まずいない。
京女出身者の談話
P37
「同志社はだぶん当時入学したら、あの十字架もらえるみたいなんですけど、私たち、念珠なんですよ。念珠もらって全員本願寺に参る、で卒業の時も西本願寺にいくんですけど、(後略)」
【ネット上の紹介】
なんと「あけすけな題名」と思うでしょう。でもどこかで「そうかも」と、うなずくところがありませんか?ミッション系校に学ぶ女子は、「かわいい、金持ち、キリスト教」の3Kと呼ばれてます、と井上章一さん。局アナや読者モデルの出身校からもはっきり傾向がうかがえるという。キリスト教はなぜみな憧れるキラキラの存在となったか?日本のキリスト教受容研究には「盲点」があるのでは?そんなとっぴな問題提起を研究者が受けて立ち、見えてきたものは―。明治になって上流階級に浸透していったキリスト教文化のかくされた歴史。
第1章 プロテスタント校はあなどれない―読者モデルを量産するわけ(かわいい、金持ち、キリスト教
クリスマス、そしてチャペルの力 ほか)
第2章 ミッション系大学の成功物語―なぜ女子アナの多数を占めるのか(女子アナの半分近くはキリスト教校出身者
慈愛と奉仕を理念とするキリスト教系大学 ほか)
第3章 変遷するキリスト教イメージ―悲劇のカトリック受容史を見直す(日本社会で承認を得るための苦闘
「淫祠邪教」からの出発 ほか)
第4章 「お嬢様学校」を生み出したカトリック―女子教育で人気の秘密(プロテスタント学校の姿勢に学ぶ
女子教育の理想と「結婚」への介入 ほか)
カップヌードルミュージアムに行ってきた。
このところ疲れ気味なので、箕面温泉にも入ってきた
年配の方が多かった。
外国からの観光客も多かった。
ビジネスホテルに宿泊するより、ずっとお得感があるからだろう。
よく情報を仕入れている、と感心した。
箕面観光ホテル | 癒しの温泉宿・旅館|【公式】大江戸温泉物語グループ
【参考リンク】
カップヌードルミュージアム 大阪池田 (cupnoodles-museum.jp)
【駐車場】
台数
23台
料金
60分 / 300円
営業時間
8:30 ~ 17:00
「女の子がいる場所は」やまじえびね
2023年 第27回 手塚治虫文化賞・短編賞受賞作品。
世界を舞台にして、次の5編が収録されている。
サーカーボールを蹴飛ばす日・・・サウジアラビア
しかめっつらとメガネ・・・モロッコ
大きな家のお嬢さん・・・インド
おばあちゃんとママとパパ・・・日本
はじまりの日・・・アフガニスタン
今日の宿題は?
算数とフランス語とコーランの暗唱
パパには結婚相手がふたりいる
ママはパパの第二夫人
すべてがそろった状態を幸福と呼ぶなら
人はいつまでたっても幸せになれないよ
【ネット上の紹介】
世界中の「女の子だから」山内マリコ(作家)、宇垣美里(フリーアナウンサー)、推薦。国も宗教も文化も違う少女たちに降りかかる“女の子だから”を見つめる作品集。
「キリスト教と日本人 宣教史から信仰の本質を問う」石川明人
日本にキリスト教が浸透しなかったのはなぜ?
宣教史から振り返った作品。
P52
キリシタンへの改宗者が増えていくと、布施の額が減るという現実的な問題も出はじめたようで、ザビエルと僧侶たちとの関係は悪化して、嫌がらせや攻撃をされるようになっていった。
P87
伴天連追放令の背景としてさらにもう一つ言及すべきなのは、当時ポルトガル人が女性や子供を含む日本人を奴隷として売買していたという問題である。秀吉にはそれも許せなかったのである。(秀吉は、美女の誉れ高いガラシャに振られて、キリシタンを嫌うようになったという説もある)
P98
秀吉の時と違って完全な「禁教」にすることができたのは、カトリックであるスペイン・ポルトガルに対し、プロテスタントのオランダ・イギリスとのあいだで宣教を伴わない貿易が可能になったからでもある。
P106
こうした鎖国およびキリシタン迫害の背景には、カトリック国であるスペイン・ポルトガルと、新興のプロテスタント国であるイギリス・オランダとの世界覇権をめぐる争いもあった。
P114
ペリー自身も当然キリスト教徒である。彼が属していた教派は、英国教会の系統にある「聖公会」だ。初代駐日大使で日米修好条約を締結したタウンゼント・ハリスも、同じく聖公会に属していた。(中略)
海軍のペリーから約90年後、今度は陸軍のダグラス・マッカーサーが連合軍最高司令官として日本にやってきたが、彼も同じく聖公会の信徒で、日本にキリスト教を広めることに大変熱心であった。
P128
フルベッキは集まった日本人に対し、「平和は哲学者の夢であり、キリスト教徒の希望であるますが、戦争は人類の現実の歴史です」と述べた。これまでイギリスが世界各地で何をしたか、フランスやドイツやロシアはこれまで何をしたかを考えてみよ、とフルベッキは言い、現実に「危険」があるのだと繰り返した。
そして次のように続けている。「私の助言は、海岸を固めると同時に、真に国家的な軍隊をつくりなさいということです。若者を訓練し、教育しなさい。そしてすべての人に昇進の道を開きなさい」(『ミカド――日本の内なる力』P137)
P224
日本のキリスト教徒数は、総人口の1%程度という状態が続いている。(中略)
これまで宣教に費やしたコストとその成果に比べるならば、やはりキリスト教は日本で成功したとは言い難い。(中略)
確かに日本でもクリスマスなどのイベントは定着し、キリスト教式で結婚式を挙げる人は多い。(中略)日本人の半数近くは、牧師と神父の区別もついておらず、カトリックとプロテスタントの違いも説明できないのではないだろうか。
(韓国でのキリスト教徒の割合は約30%。この理由は次のように説明されている・・・以下、「教養としての宗教事件史」島田裕巳より――朝鮮王朝(李氏朝鮮)の時代になると、儒教が国教に定められ、仏教は弾圧を受けて衰退した。
儒教は基本的に男性のための宗教、上層部のための宗教であり、女性や下層階級はその枠のなかから排除されてしまう。朝鮮半島でも仏教の信仰が衰えなかったとしたら、それは女性や下層階級を含む民衆を救済する役割を果たし、宗教的な空白を作ることはなかったであろう。ところが、空白が存在したために、代わってキリスト教がそれを埋めることになったのである。P252)
P228
かつて、ヨーロッパのキリスト教徒たちは、外国に行っては現地の宗教文化を排斥し、壊滅させ、反抗する原住民を虐殺してきた。(中略)
しかし、日本はヨーロッパのキリスト教徒による侵略が当たり前だった時代に、それをさせなかった。あるいは、それをされずに済んだ。そのことが日本にキリスト教徒が広まらなかった理由の全てとは言わないまでも、重要な背景の一部であることは確かである。
P230
また森岡(清美)は、日本人には「敬畏すべき神」を忌み、「親しみやすい神」を慕う、という傾向があることも認めている。(中略)
そうした「神」を求める傾向のある多くの日本人には、キリスト教のように、まず何よりもおのれの罪を自覚させ、悔い改めを迫り、神の栄光に奉仕することを求める宗教には入り込みにくいのではないか、というのが彼の分析の大枠である。
【参考図書】
「キリスト教と戦争」 石川明人
「私たち、戦争人間について」石川明人
「佐藤優さん、神は本当に存在するのですか?」竹内久美子
【ネット上の紹介】
日本人の九九%はキリスト教を信じていない。世界最大の宗教は、なぜ日本では広まらなかったのか。宣教師たちは慈善事業や教育の一方、貿易、軍事にも関与し、仏教弾圧も指導した。禁教期を経て明治時代には日本の近代化にも貢献したが、結局その「信仰」が定着することはなかった。宗教を「信じる」とはどういうことか?そもそも「宗教」とは何か?宣教師たちの言動や、日本人のキリスト教に対する複雑な眼差しを糸口に、宗教についての固定観念を問い直す。
第1章 キリスト教を知らずに死んだ日本人に「救い」はない?
第2章 戦争協力、人身売買、そしてキリシタン迫害
第3章 禁教高札を撤去した日本
第4章 「本当のキリスト教」は日本に根付かないのか
第5章 「キリスト教」ではなく「キリスト道」?
第6章 疑う者も、救われる
「昭和史裁判」半藤一利/加藤陽子
以前(2018年)読んだ本の読み返し。
前回読んだ「昭和の名将と愚将」は、軍人を対象としていた。
今回は、文官たちを俎上に載せてその功罪を問う。
検事役が半藤一利さん、弁護人が加藤陽子さん。
二人が議論しながら、心情や状況を掘り下げていく。
こうして「日本のいちばん長い昭和反省会」が始まった。
第1章 広田弘毅↓
昭和23年、A級戦犯として絞首刑執行される(70歳)
第2章 近衛文麿↓
昭和20年12月、服毒自殺(55歳)
第3章 松岡洋右↓
東京裁判の判決を待たず結核で死去(66歳)
辞世「悔いもなく怨みもなくて行く黄泉(よみじ)」
第4章 木戸幸一↓
A級戦犯となるが、後に仮釈放される
昭和52年、宮内庁病院にて87歳で死去(肝硬変)
第5章 昭和天皇↓
P94
半藤:ほとんどの日本人に理解できない。なぜなら、自分は天皇の次に偉いと思っているんだ、と
P96
加藤:なにしろ五摂家です。天皇の前で椅子に深く腰掛けて、足までくんでおしゃべりしたというのは近衛さんだけだったという逸話はゆうめいですね。
P100
加藤:政治家の死というのは、お金の切れ目なのだということを感じたと、近衛自身が記しています。
P120
半藤:昭和20年の太平洋戦争間際にトップに立った人たちはみんな、みんなと言っても参謀本部と軍令部は別ですよ、それ以外の人たちは、このまま戦い続けて国内が混乱し、ついに共産革命が起きたらどうしょうかということを本気で心配するんです。そうならないためにも早く降伏したほうがいいと、こうなるわけですね。木戸、近衛はもちろんですが、海相の米内光政も、実はそれを心配したのです。
P127
半藤:近衛は遺書で「僕は支那事変以来、多くの政治上の過誤を犯した」と自ら認めておりますが、その失敗の責任はあまりに大きい。泰淳は同情したかもしれないけれど、天皇はこれを許さないのです。
P184-185
加藤:蒋介石にとっては戦争の責任者の断罪などどうでもいいのです。中国における日本人の個人の私有財産も含めた日本の現物財産、あれをとにかく置いていってくれればいいと。
P194
加藤:当時、上海の日本人社会には序列というのがありまして、いちばん偉いのが外務省。次が日銀や横浜正金といった銀行系です。三井物産はそのつぎだったようですね。
P205
加藤:「フリードリヒ大王や、ナポレオンのような行動、極端に云えば、マキャベリズムのようなことはしたくないね」ということを天皇がおっしゃったと内大臣の木戸幸一は日記に記していますが、これは南部仏印進駐についてのコメントです。
P220
半藤:松岡(洋右)がやったことのなかで国際連盟脱退は、最大のまちがいであったと私は思っています。
P227
半藤:それにしても、天皇はなぜあれほど松岡を嫌ったのか。昭和天皇という人は不思議なくらい個人の悪口は言わない人なのですが。
P233
半藤:「東亜新秩序」というのは近衛文麿がいいだした言葉ですが、では「大東亜共栄圏」はだれがいいだしたかといいますと、これが松岡なんです。昭和15年(1940)8月1日だそうですよ。
P252
半藤:木戸と近衛は学習院、京都大学法学部の同級生。この同級生づき合いと華族ネットワークが木戸を表舞台に押し出したわけですね。
P265
加藤:幕府と協調していくことを決めた瞬間、もしくは長州藩に宮中側近を変えられてしまった瞬間に、孝明天皇はすべての権力を奪われてしまった。そういうイメージが西園寺と木戸のあいだには共有されています。だからこそ親政には反対だった。親政で突破しても陸軍が言うことを聞かなかったらおしまいだという認識だったのです。
P267
半藤:日本の国のためにはこれからという大事というときに悪い人(木戸幸一)を選びましたね。陸軍にはおべっかを使い、右翼には色目を使うような人が速記にいたということは、まことによくなかった。
P295
加藤:「戦争中は羊を飼って自家製の食物での食事療法をしていました」と、のちに秩父宮妃殿下が語っていますが、秩父宮夫妻も白州次郎・正子夫妻と同じようなライフスタイルで戦中を過ごしていたのですね。白州夫妻は太平洋戦争が始まると、あっという間に鶴川の田舎に引っ込んで、お米や麦やジャガイモを作って暮らすわけですから。これが真の上流階級の、第二次世界大戦期の過ごし方でした。(武蔵と相模の間に位置することから、無愛想をもじって邸を「武相荘」と命名した。いまでは一般公開されている)
P323
半藤:じつは海軍は情けないことに、潜水艦の実践的な使い方を知らなかったのです。第一次世界大戦のドイツ潜水艦の猛威にイギリスが音を上げたという戦訓がありながら、潜水艦は輸送船を狙うべきものだということに気づいていなかった。(中略)それには理由がありまして、日本海軍は敵の艦船を撃沈しても、輸送船は1点なんです。いっぽう戦艦は10点。高得点なのは戦艦と航空母艦でして、つまり論功行賞のためには輸送船なんか沈めてもたいして稼ぎにならなかったわけです。(日本の点数主義の根は深い)
P330
加藤:天皇は、終戦に持ち込むには戦果を上げてからでないと内乱になると思っていました。そんな天皇に引導を渡したのが貞明皇太后でした。皇太后が自分は疎開しない、と言ったときです。
P332
加藤:戦争責任については、政治的責任と道義的責任という分け方で考えるのが通常の発想です。天皇に政治的責任がないのはむろんのことです。けれども「天皇陛下の御ために」と、死んでいった将兵の家族に対しては申し開きがたたないという意味で、道義的責任はあるのではないかという議論。
天皇の無答責について
P389
注釈:つまり政治的、行政的な責任は政府が有しており、君主個人に帰するものではないというわけである。いっぽう昭和天皇の戦争責任を「有り」とする立場からは、天皇は開戦を承認し、終戦を決断しており、政治的決定過程において最終的な決定権者としてふるまっているとする。そのことからも政治的責任があるとされる。
P398
半藤:木戸と近衛は仲がいいように思われがちですが、じっさいは違ったのでしょう。
P402
半藤:天皇がいつも総理大臣に言う言葉が、3つありました。国際協調と、憲法遵守、そして経済の安定です。
【おまけ/ツーショット特集】
このツーショットはレア ↓
(蒋介石と毛沢東)
近衛は長身だ ↓
(近衛は片手をポケットに入れている)
近衛と木戸 ↓
(近衛は両手をポケットに入れている)
木戸は152cm、近衛は180cm
【参考図書】
「昭和の名将と愚将」半藤一利・保阪正康
「昭和史 1926-1945」半藤一利
「昭和史 戦後篇」半藤一利
「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて」大沼保昭/江川紹子
【ネット上の紹介】
「軍部が悪い」だけでは済まされない。松岡洋右、広田弘毅、近衛文麿ら70年前のリーダーたちは、なにをどう判断し、どこで間違ったのか―昭和史研究のツートップ・半藤さんと加藤さんが、あの戦争を呼び込んだリーダー達(番外編昭和天皇)を俎上に載せて、とことん語ります。あえて軍人を避けての徹底検証は本邦初の試み!
第1章 広田弘毅(開廷に先立って
東京裁判と『落日燃ゆ』 ほか)
第2章 近衛文麿(天皇の次に偉い男
金はなかった、人気があった ほか)
第3章 松岡洋右(外務省「大陸派」
伏魔殿、帝国外務省 ほか)
第4章 木戸幸一(自称「野武士」、ゴルフはハンディ「10」
名家の坊やが抱えたルサンチマン ほか)
第5章 昭和天皇(初陣の日中戦争
勃発からひと月で海軍の戦争に ほか)
「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて」大沼保昭/江川紹子
以前(2016年)読んで勉強になったので、再読した。
聞き手が江川紹子さんで、大沼保昭さんがレクチャーする形式。
P4
東京裁判は、日本という国家を裁く裁判ではなく、あくまでも戦争の主要責任者の個人的な刑事責任を裁く裁判でした。
P15
米国の原爆投下とかソ連の日ソ中立条約侵犯など、連合国側の違法行為を弁護側が取り上げようとしても、この裁判(東京裁判)には関連性がないということで、許されなかったことです。
P17
中国政府が犠牲者の数を過大に主張してきたことは冷静に批判すべきですが、南京で日本軍が虐殺行為を犯してしまったことそれ自体は認めるべきでしょう。東京裁判でこの責任を問われて死刑になった松井石根大将も、部下たちのこの戦争違反を阻止できなかったことを深く悔いていたのです。
P23
日本国民は、自国民に300万以上の犠牲を強いた指導者を、自分たちで裁くことをしなかった。他者が裁いた裁判を、あるいは肯定し、あるいは批判し否定するということで終えてしまっている。
P65
中国共産党の立場は、日本の人民も中国の人民と同じく日本の軍国主義の犠牲者であって、賠償を請求すれば同じ被害者の日本人民に払わせることになる、というものでした。(中略)この立場はその後ずっと一貫していて、日本の首相の靖国神社参拝に中国政府が神経を尖らせるのも、このためです。
P71
悠久の文明大国である中国が、1840年のアヘン戦争から欧米列強と日本から侵略され、辱められてきという意識が徹底しています。「国恥百年」ということばは全国民に共有されており、1915年の対華21ヵ条要求を受諾した5月9日、1937年に日中戦争が勃発した7月7日、1931年に満州事変が勃発した9月18日などは、「国恥日」とされている。
P78
占領軍が敗戦後、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶのを禁止して、「太平洋戦争」で統一されます。
P122
日本ばかり責めるけれど、韓国にも慰安婦はいたではないか。ベトナム戦争のとき派兵された韓国軍はベトナムで一体どれほどひどいことをやったんだ。中国は、南京大虐殺だと日本をさんざん非難するけれど、自分のところであれだけ人民弾圧をやっているではないか。毛沢東は大躍進や文化大革命で自国民を何百万人死なせたんだ。チベットやウイグルでの大規模な抑圧、人権侵害は何なんだ。そういうことをやっていながら日本を批判できるのか。あるいは、欧米はあれだけ列強として植民地支配をやっておきながら、日本に説教を垂れるのか。自分たちは、旧植民地の膨大な数の人々に、日本のように反省を示して謝罪をしたのか。これは、素朴な、人としてごくあたりまえの不公平感だとおもうのです。
もちろん、他国が悪いことをやっているからといって、日本が悪いことをやってもいい、ということにはならない。そういった居直りは自らを貶めるものでしかない。ただ、日本もこれまでそれなりに過去の行為を反省してきたのだから、中国や韓国もそこをちゃんとみて、わが身を振り返りながら日本に接してほしい。
P128
同報告書(クマラスワミ報告)には、後に虚偽と判明した吉田清治氏の女性「奴隷狩り」証言も記載されています。2014年に『朝日新聞』が吉田証言の記事を取り消したあと、日本政府はクマラスワミ氏に修正を求めましたが、同氏は吉田証言だけが根拠ではないといって応じませんでした。(慰安婦問題は、吉田清治氏、植村隆 氏のような人物がいたせいで、よけいこじれてしまった。マスコミも、その証言をそのまま信じて報道拡散して、日韓関係をより悪化させた)
P138
慰安婦問題にかぎらず、第二次大戦と植民地支配にかかわる諸問題について、日本は法的責任を認めないが、ドイツは認めた、ということもよくいわれますが、これは誤りです。ドイツが認めてきたのも道義的責任です。
P162
日本の首相が元慰安婦のところへ行き、深々と頭を下げてその手を握り、その様子がメディアを通して広く伝えられれば、元慰安婦の方々の多くの満足も得られるし、韓国国内でも国際社会でも、慰安婦問題で傷ついた日本の名誉は大きく回復される(後略)
(キスまでしなくてもハグのような象徴的なパフォーマンスは必要、かもしれない。ヴィリー・ブラント西独首相が1970年にポーランド・ワルシャワを訪問した際、ゲットー・英雄記念碑の前で跪いて黙祷を捧げたそうだ。こういう分かりやすい形で反省と謝罪を表現して、国際社会で評価された。←P195、日本のリーダーに必要なのは、メディアを意識したパフォーマンスかも。こういったことを早くにやっておけば、ここまで日韓関係が、こじれなかったかもしれない)
©Bundesregierung Photo: Engelbert Reineke
ワルシャワでひざまずいたブラント Brandts Warschauer Kniefall
P166
植民地支配のために現地の人々を制圧することも、「野蛮人をキリスト教化する」などの論理で正当化されていました。
P168
スペイン、ポルトガルに続いて、オランダ、英、仏、ベルギー、ドイツ、ロシア、さらに米国も世界各地を植民地化した。こうした国々には植民地支配が悪であるという観念はほとんどなかったし、そういう国々がつくり運用した国際法も、植民地支配を認め、むしろその道具として機能した。19世紀後半には、欧米の白人の間で、自分たちのすぐれた文明をアジアやアフリカの「未開」「野蛮な民族」にもたらす尊い義務がある、という考えが流布します。
P170
19世紀から20世紀初頭の欧米中心的な国際社会で、戦争は国家政策のひとつと考えられていました。外交の延長線上に戦争があり、外交と戦争を組み合わせて国家利益を実現するというのが、ヨーロッパの古典的な国際関係だったわけです。
P172
1920年代に戦争を違法化すべきだという運動が盛り上がり、1928年に不戦条約が結ばれる。これで戦争が国際法上はじめて、原則として禁止されました。世界が戦争を違法なものにしようとして、国際法上画期的といってよい成果が出た。
しかしその三年後に、日本が満州事変をおこしてしまったのです。
P186
そもそも国連は、米英仏中ロという軍事大国のいずれかが違法な武力行使をおこなっても、それを制裁によってやめさせることはできない。実際、ソ連のハンガリー、チェコ、アフガニスタンへの武力行使、米国のベトナムやカリブ海諸国への武力行使やその威嚇、英仏のエジプトへの武力行使、中国のベトナムへの武力行使など、米英仏中ロは、自分たちが主導してつくった国連憲章に違反する武力行使をしばしばおこなってきました。
P192
かつての欧米列強は、日本とドイツを批判することはやっても、自分たちの植民地支配責任や帝国主義政策、他国への侵略行為に関しては、ほとんど反省の意を表していない。典型は米国で、ベトナム戦争であれだけ枯れ葉剤を使い、その結果多くの障碍児が生まれるような残虐なことをしておきながら、ベトナムに対してまったく謝罪していません。フィリピンを植民地支配したという意識もない。フランスにしてもイギリスにしても、植民地支配についての責任意識、帝国主義的外交への反省は知識人もほとんどないし、かつての植民地支配への謝罪も、日本に比べてきわめて限られたものでしかない。(オーストラリア、ニュージーランドも日本の捕鯨を激しく批判するが、自分たちは先住民を絶滅の危機に追いやっている。どーいうこと?)
P198
異民族支配それ自体が悪という意識が高まるのは、ナショナリズムが重要な意味をもつようになった19世紀以降のことなのです。それ以前は異「民族」――「民族」という意識自体、基本的に近代以降のものです――支配は、世界各地でどこにもあある現象でした。
P199
香港は1997年に中国に返還されますが、当時、欧米の発想が支配的な国際社会の感心は、もっぱら「英国が育て上げた香港の民主主義が、共産党独裁の中国の下で維持されるだろうか」というものでした。(中略)
返還式典でも、アヘン戦争の流血や植民に支配についての英国からの謝罪はありませんでした。最後の総督だったクリストファー・パッテン氏は記者会見で、「(英国が香港の)民主制度を発展させた」と述べ、過去1世紀半に及んだ植民地支配について謝罪しないのかと聞かれると、「アヘン貿易まで正当化しようとは思わないが、一体、今何を謝罪するのか。この未来志向の都市で、19世紀の話をするのは驚くべきことだ」と述べています。(1997年といえば、鄧小平氏が亡くなった年。気になって香港に行ってきたので覚えている。返還の時のスピーチも、気にして新聞を読んだけど、「謝罪の言葉がないなあ」「むしろ、自らの統治について自画自賛だし」と、感じた)
P208
ある在日韓国人が、「韓国の三大紙(『朝鮮日報』『中央日報』『東亜日報』は、日本の『産経』みたいなもの」と語っていましたが、これは言い得て妙です。(対日批判をした方が発行部数が伸びるのだろうか?韓国メディアは反日を煽ってばかり。だから、「日本のメディアは韓国メディアへの働きかけに努めてほしい」と著者は語っている)
【ネット上の紹介】
日中・日韓関係を極端に悪化させる歴史認識問題。なぜ過去をめぐる認識に違いが生じるのか、一致させることはできないのか。本書では、韓国併合、満洲事変から、東京裁判、日韓基本条約と日中国交正常化、慰安婦問題に至るまで、歴史的事実が歴史認識問題に転化する経緯、背景を具体的に検証。あわせて、英仏など欧米諸国が果たしていない植民地支配責任を提起し、日本の取り組みが先駆となることを指摘する。
[目次]
第1章 東京裁判―国際社会の「裁き」と日本の受け止め方(ニュルンベルク裁判と東京裁判
「勝者の裁き」と「アジアの不在」 ほか)
第2章 サンフランシスコ平和条約と日韓・日中の「正常化」―戦争と植民地支配の「後始末」(サンフランシスコ平和条約とは何か
寛大だった連合国との講和 ほか)
第3章 戦争責任と戦後責任(「敗戦責任」から「戦争責任」へ
被害者意識と加害者認識 ほか)
第4章 慰安婦問題と新たな状況―一九九〇年代から二十一世紀(なぜ慰安婦問だけが注目されるのか
慰安婦問題は日韓問題? ほか)
第5章 二十一世紀世界と「歴史認識」(十九世紀までの戦争観と植民地観
第一次世界大戦と戦争の違法化 ほか)
「昭和の名将と愚将」半藤一利・保阪正康
これは再読。
レベルの高い対談だったので、読み返したくなった。
やはり良かった。
P18
半藤:日本人は今でこそ最後の一兵まで戦い、絶対に降伏しないと思われているが、本来はそんなことはなく、戦国時代では誰も玉砕せずに主将が腹を切るとすぐ城を明け渡している。だから、日本人はメンツが大切なのであって、それさえ留意すれば降伏するはずだ、と言う認識がアメリカ側にはあったんですよ。だから、特攻とか玉砕というのは、日本の文化にはないわけで、どこかで日本人は変調をきたしたに違いない。
P20
保阪:松岡洋右は国際連盟を脱退して帰国したときに横浜で大歓迎を受けています。
半藤:国連脱退は言ってしまえば新聞が推進した。
P18
半藤:薩長は攘夷を決行しようとして、薩英戦争や下関戦争で、列強にコテンパンに負けます。このままではダメだから、文明を取り入れて、富国強兵をしてから改めて攘夷をしようと方針転換をするんです。これは西郷隆盛も言っています。そして明治維新以降も、攘夷の精神は死んでいない。
(中略)
だから、昭和の初めあたりから、列強入りした日本に欧米から圧力がかかると、実際にはたいした外圧ではなくて日本が自ら招いたものにもかかわらず、すぐに過剰反応している。
P52
半藤:小畑敏四郎は軍令畑で「作戦の鬼」と呼ばれた人だから、とにかく対ソ戦略を進めようとするのに対して、永田鉄山は、国力の増強を第一に考えて、満洲、ついで中国の権益を抑えて、対ソ戦はそれからだという意見。だから、最後には大喧嘩になってしまう。
保阪:この違いが後に、小畑は皇道派、永田は統制派と分かれていくんですね。
半藤:2.26事件で討伐されて皇道派が力を失うと、統制派が力を持ち始めて「中国一撃論」を主張し始める。これは石原の意見と対立してくる。それで杉山元が天皇に「1ヶ月で片付きます」といって日中戦争に突入するんですが、永田が生きていたら、果たして日中戦争まで入っていったのか・・・・・・。(中略)
東條は、その後、永田の後継者という看板を背負って登場してきますが、思想まで継承しようとしたとは到底思えませんね。その意味では永田を利用したとも言えます。
P62
半藤:米内(光政)、山本(五十六)、井上(茂美)というのは会社組織にたとえるなら、米内がのんびり社長、山本が歯に衣を着せぬ専務、井上が厳格な経理部長といったところですよ。(2.26事件当夜、米内は、築地の芸者のところにいて、横須賀鎮守府指令府にいなかった。カミソリと言われた井上が万事心得ていたので、米内がいるかのように振る舞って事なきを得た・・・P61)
P71
半藤:私は太平洋戦争は薩長が始めて、賊軍が終わらせたという持論なんです。(米内光政=盛岡藩、井上成美=仙台藩、鈴木貫太郎=関宿藩、山本五十六=長岡藩)
P94
半藤:勇士の勇敢敢闘は作戦のまずさを補うことはできない。作戦がいくら巧緻でも大本営の戦略の失敗を補うことは誰もできないんです。
P108
半藤:開戦前に軍令部が、山本(五十六)の下につける参謀長を宇垣纏にしようとした際に、山本が「宇垣は日独伊三国同盟に賛成した」という理由で大反対をして、かわりに伊藤(整一)が参謀長になったという経緯がある。四ヶ月後、今度は永野(修身)が伊藤を軍令部次長にほしがったときには、さすがに山本も反対できなかった。二度目ですからね。それで仕方なく伊藤の軍令部次長就任を承認したんです。しかし、その伊藤の後任の参謀長として来たのがけっきょく宇垣纏(笑)。だから、開戦直前になって司令長官と参謀長は口もきかないほどの間柄という妙な人事構成になった。
P111
半藤:彼(伊藤整一)が名将と呼べるのはやはり「大和」での出処進退が見事だったという点につきる。若い人を助けて、自分だけ死んだことによってすべてチャラになってしまった。
保阪:軍人は、死ぬことで責任を取れるんですね。
P113
保阪:しかし、伊藤も「大和」の出撃には当初「無謀ではないか」と反対しますよね。
半藤:ええ。命令する草鹿(龍之介)のほうも承服しかねているから、なかなか説得できない。それで最後に草鹿が、有名な「一億総特攻の魁となっていただきたい」という台詞を言うと、「わかった。作戦の成否はどうでもいいということなんだな」と伊藤は実に穏やかな顔をして承服したそうです。
P134
半藤:牟田口(廉也)さんが撤退させなかったのは、たぶん勲章が欲しかったからだと思いますよ。なにせ「牟田口閣下の好きなもの、1に勲章、2にメーマ、3に新聞記者」と陰口を叩かれていたそうです。メーマとはビルマ語で女性に意味です。ビルマ女性が大好きだった。3番目は、新聞記者に大口を叩くのが好きだという意味です。
保阪:インパール作戦に従軍した京都の部隊の兵士たちに話を聞いたことがあるんですが、牟田口の名前が出た途端、激高する人もいましたね。仲間が「水、水」とうわごとを言いながらバタバタと死んでいったというような悲惨な話を数珠を握り締めながら語るんですが、その人は「牟田口が畳の上で死ぬのだけは許せない」と言ってました。
半藤:インパール作戦は、どのくらい亡くなったんでしょうかね。
保阪:8万人行って、7万人近くの兵士が死んだという話もあるそうです。とにかく白骨街道といわれるほど相当な数の人が死んでますよね。
「生きて虜囚の辱めを受けず…」が有名な「戦陣訓」について
P158
軍人勅諭があるのに、また「戦陣訓」なんて、屋上屋を重ねるようなことをしたのは、東條の周りにいた師団長クラスの連中が、ゴマすりのために作らせたという側面があるように思う。
(中略)
石原莞爾なんかは部下に読むなと言っていたそうですからね。
P170
半藤:山本が死んだとき、新橋の芸者さんで恋人だった河合千代子さんという人がいるんですが、この人が山本五十六が書いたラブレターを持っていたんです。(中略)これらがまことに人間味があって面白いんですよ。千代子と一緒に出かけたことのある安芸の宮島から、山本が手紙を書いているんですが、「鹿がクウクウといっとったからウンヨシヨシと言ってやりました」とか何とか(笑)。
ノモンハン事件
P177
保阪:この要綱を実際に起案したのがほかでもない、関東軍司令部作戦課の辻政信ですよ。それを作戦主任の服部卓四郎が承認した。そして、このとき大本営の参謀本部作戦課長はというと、稲田正純でしたね。
半藤:ええそうです。司馬遼太郎さんが後年ノモンハン事件を書こうとしたとき、たしか昭和50年ごろでしたか、稲田正純の話を聞きたいというので私と一緒に会いに行ったことがあるんですよ。(中略)「こんなやつが作戦課長だったのかと心底あきれた」という司馬さんの言葉を覚えていますよ。
シンガポール華僑虐殺事件
P188
半藤:日本軍ではその数6千人、華僑側では4万人と言っています。(中略)
保阪:あれは、抗日分子が後方攪乱を行って占領ができなくなるのを阻止するという理屈、ただ一点で行われた蛮行でした。この粛清計画を立案したのが辻政信その人。
インパール作戦
P198
半藤:この作戦には不人気となっていった東條英機内閣への全国民の信頼を再燃させるために、という政治的な意図があった。そして川辺と牟田口は盧溝橋事件のときの旅団長と連隊長でした。ビルマでこの愚将コンビがふたたび出会って最悪の大作戦を推進したのです。
(中略)
保阪:牟田口は前線から離れた「ビルマの軽井沢」と呼ばれた地域で栄華を極めた生活をしているといううわさは矢のように前線の兵士に伝わってきたようですし、実際に牟田口はそこからひたすら「前進あるのみ」と命令をだしていた。
P194
しかし結局服部(卓四郎)は戦後、再軍備の最高の旗振り役になりましたね。「服部機関」が中心になって、再軍備の路線を突っ走っていった。
P247
保阪:これは学徒でいった整備兵の人から聞いた話ですが、知覧でも、搭乗前に失禁したり失神したりする特攻隊員がいたというのです。それを抱え込んで無理やり乗せたというですね。その人も怖気づいた兵隊を抱え込んで飛行機に乗せたことがあり、そのことがいまでも心の傷として残っていて消えない、と言っておられました。ご存じの通り、特攻隊員の遺書は悲惨そのものですよ。「こんな作戦をする国が勝つわけがない。けれどいかざるを得ない」とか・・・・・・。
P252
保阪:僕は「特攻」というのは文化に対する挑戦だと思っています。あの時代の指導者の、文化に対する無礼きわまりない挑戦だったと。
半藤:「特攻」に対する考察がし尽くされぬままなら、日本は軍隊なんかつくっちゃいかんと思いますよ。
【参考図書】
「昭和史 1926-1945」半藤一利
「昭和史 戦後篇」半藤一利
【ネット上の紹介】
責任感、リーダーシップ、戦略の有無、知性、人望…昭和の代表的軍人二十二人を俎上に載せて、敗軍の将たちの人物にあえて評価を下す。リーダーたるには何が必要なのか。
名将篇(栗林忠道
石原莞爾と永田鉄山
米内光政と山口多聞
山下奉文と武藤章
伊藤整一と小沢治三郎
宮崎繁三郎と小野寺信
今村均と山本五十六)
愚将篇(服部卓四郎と辻政信
牟田口廉也と瀬島龍三
石川信吾と岡敬純
特攻隊の責任者―大西瀧治郎・冨永恭次・菅原道大)