【ぼちぼちクライミング&読書】

-クライミング&読書覚書rapunzel別館-

「戦跡巡礼」中津攸子

2024年10月07日 07時20分11秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)

「戦跡巡礼」中津攸子
 
読み返し
 
P28
旧満州から多くの人が引き揚げて来た時、七三一部隊の人が何の苦労もなく、証拠隠滅のため頑丈な建物を破壊し、無事に帰国したことが釈然としないのだ。
 
石井部隊長について
P29
戦後、新宿の若松町で陸軍の建物を旅館とし、女郎屋を営み、昭和34年に喉頭がんで死んだという。

P59
「日本人に良い人が二人います」
と聞かされ、いくらなんでも少なすぎると思った時、
「一人は柳宗悦先生で、(中略)もう一人は李方子様です。(後略)
 
P123
長崎には「長崎原爆死没者追悼平和記念館」「長崎原爆資料館」などがあるが、私は、永井隆博士の住んでいた「如己堂(にょこどう)」をまず訪ねた。

P180
日露戦争の時の連合艦隊司令官、神将とか聖将などと称えられながら戦死でない東郷平八郎は靖国神社に祀られていない。
 
【ネット上の紹介】
1章 大陸・巡礼(秋天の悲しきまでに白き雲
二〇三高地さざんか揺らす風
乃木坂の思はぬ蟇に逢ひにけり
秋風の僅か流るる盧溝橋
伏牛の辺より白蝶翔ちにけり ほか)
2章 太平洋諸島・巡礼(拳強く握る真夏の真珠湾
バンザイ岬海上に湧く雲の峰
夏草やモンテンルパの観世音
水牢をのぞき込みたる暑さかな
逝く夏やB29の滑走路 ほか)
3章 東京・広島・長崎・巡礼(飛行雲夏草の果て暮れ残る
小舟漕ぐ人新樹光あふれゐて
亡き父の真意に気付く今日の花
灯消し正座して聞く花火音
蜻蛉や水草揺るるままにゐて ほか)
4章 特攻兵士・巡礼(天炎えて特攻の碑の影深し
白雲の映るがわびし夏の川
海に向く特攻の碑や寒雀
人間魚雷錆びひとひらの山桜
逃げ水や霞ケ浦に浮く帆船)
5章 沖縄・巡礼(海原の沖へ沖へと白き蝶
秋の空墓石声なく群がりて
激戦の跡紫のすみれ草
獅子を誘ふに似て黄水仙
とかげの子瞬時石垣に隠れたる ほか)
6章 戦後・巡礼(藁馬に水を供へる敗戦日
一枚を文庫にはさむ渓紅葉
消防車幾台通る雪の夜半
色なき風白衣の人の会釈して
若夏や江田島に寄る波の音 ほか)

「男たちの大和」辺見じゅん

2023年04月24日 07時40分51秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)


「男たちの大和 決定版」(上)(下)辺見じゅん

著者については、「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」を既に読んでいるので、
取材能力、力量は相当なものと認識している。
読んでいて、「やはりすごいな」と改めて感じた。

(上)P118
井上成美(しげよし)は、米内光政が海軍大臣の時代に軍務局長を務め、海軍次官だった山本(五十六)を加えて、海軍省の左派トリオと称された。
「山本さんはなぜ、海軍は対米戦争などやれない、やればかならず負けますと、あのとき答えなかったのだろうか」

(上)P125
この米内と井上成美に山本を加えた三人が、三国同盟問題をはじめ、戦争回避に志を同じくして抗戦派の陸軍と激しく対峙したことが公になったのは戦後のことである。井上成美に対しては年下の友人という意識が強かったが、米内光政と山本は、盟友と呼んでもさしつかえない時期を過ごしている。

(上)P226
たとえ保有燃料の節約のためとはいえ、最も大事なときに速力16ノットで走り、払暁の対潜警戒時でさえ18ノットで敵潜水艦に先を越され待ち伏せされたのは、重大なミスであった。このとき、敵潜水艦は速力19ノットで追跡していた。
しかも、潜水艦に弱い巡洋艦を旗艦にし、艦隊先頭に対潜警戒のための前衛駆逐艦を配置する用意もなかった。レイテ沖海戦の緒戦はその後も大きく響いただけに、艦隊司令部の対潜水艦への状況判断の甘さはいかんともしがたい。

(上)P367
「要するに、死んでもらいたい。一億総特攻の規範となるよう、立派に死んでもらいたいのだ」
草鹿参謀長は言った。
「それならば何をかいわんやだ。よく了承した」
伊藤司令長官は、答えた。
ただし、一つだけ条件があると言い、
「もし、征途の半ばで艦隊が大半を失い、沖縄突入ができなくなったときは、指揮官として作戦の変更をしてよいか」
と念を押した。
ただ一人の乗組員たちも無駄死にさせたくないという思いが言外にこめられていた。

(下)P27
明治38年、アナポリスの海軍兵学校を卒業して間もないニミッツは、少尉候補生として戦艦「オハイオ」に乗り、日本を訪れている。日露戦争が終わってすぐのころだっただけに、日本海海戦で勝利を収めた東郷は、ニミッツにとって憧憬の対象だった。園遊会で東郷を遠くから眺めていたニミッツは、候補生を代表して、
「われわれのテーブルで歓談して下さいませんか」
おずおずと申し出た。
東郷は快く話をしてくれた。
(後に、ニミッツは太平洋艦隊司令長官、兼、太平洋戦域最高司令官となる)

(下)P60
艦長は茂木史朗航海長に、
「艦を北向きにもっていけ」
と命令した。
死者を北枕にして寝かす慣習にならって、沈没する前に艦首を北に向けるようにとの指図と思われる。

(下)P89
「おい、みんな、艦と運命を共にせい」
花田掌航海長が叫んだ。
高地たちは互いに、体を舵輪へくくりつけた。
伝声管を通じて防空指揮所にその騒ぎが伝わったのか、有賀艦長からの声が聞こえた。
「馬鹿なことをするな。助かる者は助かって次の戦闘に参加せい」
高地たちは、舵輪にくくったロープをほどいた。

(下)P102
呉は海軍の町だ。なぜ、呉にいて陸軍憲兵隊が横暴なのか、また、海軍がそれを黙ってみているのか不思議だった。その後、海軍に入った水野は、陸海軍と陸を上にいう理由を、軍の成立を通して知った。やはり、陸軍の方が力をもっていた。

(下)P106
「大和の艦体が真っ二つなったときの火炎の熱さは30有余年経っても忘れられない。天から艦体の大小種々雑多な破片が、ハンドレールが、機銃の一部が、砲塔の一部が降ってくる。思わず、鉄兜を頭につけた」

山本五十六長官の言葉
(下)P328
長官は実に聞き上手な人だった。あるとき内田は長官にそのことを言った。
「それはね、きみ、人間は山、川でくるのがいいんだよ」
「山、川といいますと・・・・・・」
「人間は一本調子でしゃべってはだめなんだ」
長官は噛んで含めるようにいった。
「人間はね、山や川や平地があるようにしゃべらないとね。知ってることでも、ときにはフーンととぼけれ、しっかり相手の考えてることを聞いてやることだよ。相手に話す間を与えてやらんとね。自分ばかりしゃべっては、何もわからなくなる。これはね、きみ、人間はそのしゃべり方でわかるということなんだ」

(下)P356
数年前、内田は台湾に行ったとき空港の警報装置に引っかかった。三名の係員が内田を裸にした。全身の傷跡やひきつれに言葉もなかった。
「戦争ですか」
係員は流暢な日本語で訊ねた。
「そうですがな、戦艦大和に乗っとりました」
内田は答えた。
三人の係員は、瞬間、敬礼をした。

【コメント】
著者・辺見じゅんさんは、角川春樹氏の実姉。
だから、映画化に向け角川春樹氏は尽力した。
2005年に映画公開されたが、「大和」どころか、「宇宙戦艦ヤマト」さえ知らない若者世代になっていた。それでも、興行収入 50.9億円(東映の興収ランキング2位)観客動員数  400万人は立派。

【参考図書】

「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」辺見じゅん

「よみがえる昭和天皇 御製で読み解く87年」辺見じゅん/保阪正康 

【ネット上の紹介】上巻
昭和十六年十月、極秘のうちに誕生した、不沈戦艦「大和」の予行運転が初めて行われた。同十二月、太平洋戦争突入。そして戦況が悪化した昭和二十年四月六日、「大和」は三千三百三十三名の男たちを乗せ、沖縄への特攻に出撃した。日本国と運命を供にした「大和」の過酷な戦いと男たちの人生を、丹念に、生々しい迫力をもって描く、鎮魂の書。新田次郎文学賞受賞作。

【ネット上の紹介】上巻
沖縄への特攻に出撃した翌日、昭和二十年四月七日十四時二十三分、戦艦「大和」、米航空機部隊の攻撃により沈没。死者三〇〇〇余名。東シナ海の海底に散る…壮絶な「大和」の最期と生存者、遺族の戦後を描き切り、日本人とは何かを問う、戦後ノンフィクションの金字塔。

【上巻目次】
1章 神話
2章 待機
3章 海戦
4章 特攻

【下巻目次】
5章 爆沈
6章 桜
7章 鎮魂


「沖縄県平和祈念資料館と戦跡めぐり」佐藤広基

2023年01月18日 08時02分14秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)


「沖縄県平和祈念資料館と戦跡めぐり」佐藤広基

対馬丸記念館が那覇にあると知らなかった。
糸数アブチラガマは、沖縄本島南部の南城市玉城字糸数にある。











【戦跡巡り実施】
西表島/沖縄⑥最終日

【関連リンク】
≪公式≫ 旧海軍司令部壕 (海軍壕公園) (ocvb.or.jp)

【公式】ひめゆり平和祈念資料館 / [OFFICIAL] HIMEYURI PEACE MUSEUM

沖縄県営平和祈念公園 (heiwa-irei-okinawa.jp)

対馬丸記念館

糸数アブチラガマ

戦跡案内~オンライン体験版~|那覇市公式ホームページ (city.naha.okinawa.jp)

【対馬丸・関連リンク】
OKINAWA 2015 死線を泳いだ少女 平良啓子さんの証言(完全版) (vice.com)

【参考図書】

「知らなかった、ぼくらの戦争」アーサー・ビナード/編著

【ネット上の紹介】
第二次世界大戦中、日本で唯一の地上戦があった沖縄。20万人以上の犠牲者を出した沖縄戦の実相、戦跡を紹介。
唯一の地上戦
戦場での戦い
沖縄戦ってなに?
平和祈念資料館
平和祈念公園(沖縄戦跡国定公園広場ガイドマップ)
ガマめぐり
ひめゆり平和祈念資料館
旧海軍司令部壕
南風原文化センター
塔めぐり
対馬丸記念館
亀甲墓ってなに?戦跡めぐり
米軍基地めぐり


「暁の宇品」堀川惠子

2022年08月19日 18時56分02秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)


「暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」堀川惠子

今年のベスト、と思う。
戦史ノンフィクションの傑作。
よくこれだけ調べて掘り起こした。

広島・宇品港と三人の司令官について書かれている。
私の説明では面白さが伝わらないけど、読んでみて。
同著者による「原爆供養塔」に匹敵する内容。
お薦めです。

P9
太平洋戦争が開戦すると、ルーズベルト大統領はただちに「無制限作戦」を発令。武装していない日本の輸送船にいっさいの警告なしに攻撃を加え、撃沈するよう命じた。(あきらかに国際法違反)

P42
海軍のエース山本権兵衛はこれから後に大本営条例を改正する際、陸軍と海軍が共同する必要性について「最小限に制限」する方針を打ち出しており、あくまで陸軍のことは陸軍内で処理すべきといった基本姿勢を明確にしている。
海軍が陸軍の輸送に対して非協力的だった背景には、建軍当初から陸軍(長州)と海軍(薩摩)の縄張り争いに加えて、この国の鎖国の歴史も無関係ではないだろう。(大本営は「国民一丸となって」って言いながら、自分達は陸軍と海軍で覇権争いをしていた訳だ・・・「日本は太平洋戦争において、本当はアメリカと戦っているのではない。陸軍と海軍が戦っていた、その合い間にアメリカと戦っていた・・・・・・」、と揶揄されるくらい仲が悪かった―「あの戦争は何だったのか」保阪正康よりP121-122。また、戦争末期、昭和18年になると、「米機を撃つなら、英機を撃て!」などと大書きしたビラが、電信柱やガード下の壁に貼り付けられているのを見かけるようにもなった。この場合の「英機」とは東条英機首相のことであったのであろう。・・・みんな精神論にうんざりしたのかもね。「B面昭和史1926-1945」半藤一利よりP464)

陸軍の台湾出兵について
P43
陸軍の窮地(船がない)を救ったのは海軍ではなく、民間の船会社だった。これを機に政府に大恩を売った三菱は三年後の西南戦争でも会社をあげて軍事輸送にあたり、大きく飛躍していったのは周知の事実だ。

昭和15年8月下旬、篠原優参謀と渡辺信吉参謀長(大佐)の会話
「実は、アメリカと戦をすることになりました」
参謀長の顔が一気に上気した。
「なにをバカなことを!」
もともと大声で知られる参謀長が顔を真っ赤にして、建物の外にまで響くような声を発した。同席した嬉野(通軌)は戦後になっても、このときの「参謀長のすごい剣幕」は忘れられないと語っている。(彼らは、戦争を始めることが出来ても、「終わらせ方」を知らなかった。関係ないけど、仲のよい夫婦は、夫婦喧嘩の収め方を知っている)

P309
大東亜戦の天王山はガダルカナルです。ガダルは戦で負けたのではなくて、要するに手持ちの優秀船が、全部なくなっちゃったんです。高速輸送船団という戦略兵器が局地戦で潰されちゃったんです。そのあとの戦というのは、掛け声だけですね。
南海の離島への輸送で、兵站戦は果てしなく広がる。その兵站戦を誰が守ってくれるかというと、海軍は全然考えてくれない。(大本営や参謀本部のエリートたちは兵站の重要性を理解していなかったのだろうか?どうして精神論ばかりが幅をきかすようになったのだろう?そんなのでお腹がふくれる道理がないのに。武器や弾薬なしでどう戦えと言うのだろうか?インパールでも同様のことが起こっている。最高水準の偏差値の持ち主たちじゃないのか?畢竟、記憶力と理屈だけ。頭の良さだけでリーダーを選んだら、とんでもない事になる、と。現在の官僚制度も考え直す必要ありかもね

P313
今村(均)はガ島撤退の後、自決を申し出た第17軍司令官の百武中将に「ガ島の敗退は戦いによるものではなく、飢餓の自滅だったのです。この飢えはあなたが作ったものですか。そうではありますまい。・・・・・・全く、わが軍中央部の過誤によったものです」と、自決よりガ島戦の顛末を詳しく記録して後生に伝えることこそ肝要だと諭した。そして自身はラバウルに対米戦に向けた堅固な要塞を築くのと並行して自ら鍬を振るい、大規模な農作業を展開して食糧を備蓄、自給自足体制を構築した。アメリカ軍の飛び石作戦でラバウル基地は後に完全に孤立させられ、補給も途絶えるが、陸海軍10万もの将兵を島内に抱えながら敗戦まで1人の餓死者も出さなかった。

P353
アメリカ軍の海上封鎖によって宇品の輸送機能はほとんど失われており、もはや原爆を落とすほどの価値はなかった。さらに言えば、兵糧攻めと度重なる空襲で芯から干上がった日本全土に原爆投下の標的にふさわしい都市など残されていなかった。
それでも原爆は落とされねばならなかった。莫大な国家予算を投じた世紀のプロジェクトは、必ず成功させねばならなかった。ソ連の南下を牽制するためにも一刻も早く、その威力を内外に示さねばならなかった。それは終戦のためというよりも、核大国アメリカが大戦後に覇権を握ることを世界中に知らしめるための狼煙であった。(「正当な理由として掲げ続けた軍事目標・宇品」を外して「住宅や商店が密集し、人々の営みが行われていた繁華街の真上」が原爆の投下地点として選ばれる。東京裁判における、「平和に対する罪」(A級犯罪)と「人道に対する罪」(C級犯罪)は、どうなるの?特に、一般住民に対する非人道的行為を国際犯罪とする「人道に対する罪」は、どう説明するの?)

【同著者による作品】
もし、「原爆供養塔」未読なら、先に読んだ方がいいかも。
大宅壮一ノンフィクション賞で、名作だから。

「原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年」堀川惠子

「戦禍に生きた演劇人たち」堀川惠子

「チンチン電車と女学生」堀川惠子/小笠原信之

「狼の義」林新/堀川惠子

「死刑の基準」堀川惠子

「教誨師」堀川惠
日本の戦争 BC級戦犯60年目の遺書 
「日本の戦争BC級戦犯60年目の遺書」田原総一朗/田中日淳/堀川惠

【ネット上の紹介】
日清戦争、上海事変、ガダルカナル、そして8・6―。日本の「海の戦争」を支えた輸送基地=宇品港の三人の司令官と、軍都・広島が背負った「宿命」。日本軍事史上の最重要問題に光を当てる傑作。
第1章 「船舶の神」の手記
第2章 陸軍が船を持った
第3章 上陸戦に備えよ
第4章 七了口奇襲戦
第5章 国家の命運
第6章 不審火
第7章 「ナントカナル」の戦争計画
第8章 砂上の楼閣
第9章 船乗りたちの挽歌
第10章 輸送から特攻へ
第11章 爆心


「もしも魔法が使えたら」星野光世

2022年04月01日 19時32分20秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)


「もしも魔法が使えたら」星野光世

「戦争孤児」をテーマにした作品。

P10
学童疎開は、ふたつにわかれていました。
 縁故疎開・・・・・・田舎の親戚や知人を頼って家族で移動すること。
 集団疎開・・・・・・学校ごとに集団で地方へ移動すること。

P92
まわりの大人たちは、戦争孤児に対して本当に冷たかった――。
なぜ、戦争孤児になったのか。どうして浮浪児として生きなければならないのか。そう考えてくれる大人は、周囲にひとりもいなかったのです。

P119
新潟の伯母の家にいたときのこと。わたしはお腹をおわして、おもらしをしてしましました。伯母は怒って、雪の降っている夜、わたしを外に連れ出し、氷の張っているバケツの冷たい水を私の体にかけるのです。寒いのと、冷たいのと、お腹が痛いのをがまんして、「伯母さん、ごめんなさい、ごめんなさい」と謝るしかなかったのです。わたしが6歳のときでした。
「おまえも、親といっしょに死んでくれればよかったのに・・・・・・」と伯母にいわれました。

P19
3月10日の、この東京大空襲は、一般市民を標的とした空襲では世界史上最大規模だといわれています。(爆撃の指揮官だったのがカーチス・ルメイ。彼は、原爆も指示し、後に、ベトナム戦争時では、「石器時代に後戻りさせてやる」と発言した。なお、佐藤栄作内閣の時に、一等旭日大綬章が授与された。推薦は当時の防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名。この2人も、どうかしているし、阻止しなかった当時の政治家たちも頭がおかしい。当時の学生たちも、反対しなかったのか?)
Curtis LeMay (USAF).jpg
カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay)

【ネット上の紹介】
伝えたい、戦争の「もうひとつの真実」を 83歳の主婦が、自らと10人の戦争孤児の体験を 絵と文章にして、子どもたちに語る活動をしています。悲惨な記憶が、永遠に過去のものであり続けるために――。もしも魔法が使えたら お母さん、あなたに会いたい! 戦争孤児12万3000人、彼らがどう生きたか、知っていますか? 東京で、山形で、神戸で、空襲により孤児となった11人の少年少女たちの「生きるための戦い」。【解説より】 苦しみに耐える子どもの顔は、あまりにも優しい。この絵本の魅力は、残酷な現実にもかかわらず、生き抜く子どもたちの美しい表情との対立にある。野田正彰(ノンフィクション作家・精神科医)
「疎開したおわん」(星野光世)
「ほたるの池」(永田郁子)
「見えない母に支えられて」(山田清一郎)
「プールで九死に一生を得る」(高橋喜美子)
「なーんだ、おまえなんか」(柳田守男)
「セーター30円で買ってやるよ」(米川琴)
「雪の夜に冷たい水をかけられて」(吉田由美子)
「孤児の運命」(村田温子)
「馬小屋で寝る弟」(児島武)
「1本のサツマイモを分け、命をつなぐ」(金子トミ)
「トラックで棄てられた、わたし」(山本/麗子)
もしも魔法が使えたら


「戦争とバスタオル」安田浩一/金井真紀

2022年02月18日 08時00分02秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)


「戦争とバスタオル」安田浩一/文 金井真紀/文と絵

市井の人の言葉を丁寧に拾いあつめた比類なき湯けむりエッセイ。風呂から覗いた近現代史』、とある。
各地の温泉や銭湯を訪ねながら、昭和史「負の遺産」を掘り起こしていく旅エッセイ。
裸同士だからこそ聞ける「ホンネ」の数々が収録されている。

P12
いまはタイ国鉄のナムトック支線と呼ばれる路線は、かつての「泰緬鉄道」である。第二次世界大戦中の話だ。印度侵攻作戦を計画する旧日本軍は、タイとビルマを結ぶ鉄道を建設した。総延長415キロメートルに及ぶこの路線こそが、泰緬鉄道だ。

P13
タイ国内はもとより英語圏でも、泰緬鉄道(Thai-Burma Railway)ではなく、死の鉄道(Death Railway)と呼ばれることが多い。

P92
沖縄は全国でいちばん出生率が高い。未婚率はトップクラスで、失業率ではもうずっと最下位。

P94
「いま何やってるんですか」
「んーと・・・・・・」
ほんの一瞬だけ口ごもって、
「ラブホの掃除」
と答えた。
ラブホテルは、夏場は冷房が入っている。もうそれだけで天国みたいに楽なのだと彼女は言った。

P103
近辺にはいくつもの特飲街(米兵相手のバーが連なるエリア)が存在したが、コザ十字路から北は白人街、南は黒人街と区分けされていた。これはトラブルを防ぐことを名目とした、当時のMP司令部による一種の人種隔離政策でもあった。

P204
かつて釜山に、キム・ピルゴンさんという織物業者がいた。このキムさんこそがイテリ生みの親である。(中略)
60年代、キムさんはイタリアから大量の布地を輸入した。ビスコールレイヨンと呼ばれるものだ。洋服をつくるには適していない。思案を重ね、たどり着いてのがタオルとして活かすことだった。これを軽石に巻きつけて体を擦ってみたらどうだろう。試しに沐浴湯で使ってみたら、垢がぽろぽろと落ちるではないか。

P231
パッピンスとは韓国のかき氷。(中略)小豆と練乳のパッピンスが売られていた。3000ウォン(約300円)でドカンと大盛りだ。


【ネット上の紹介】
タイ、沖縄、韓国、寒川(神奈川)、大久野島(広島)―あの戦争で「加害」と「被害」の交差点となった温泉や銭湯を各地に訪ねた二人旅。心を解きほぐしてくれる湯にとっぷり浸かりながら、市井の人の言葉を丁寧に拾いあつめた比類なき湯けむりエッセイ。風呂から覗いた近現代史。
第1章 ジャングル風呂と旧泰緬鉄道―タイ
第2章 日本最南端の「ユーフルヤー」―沖縄
第3章 沐浴場とアカスリ、ふたつの国を生きた人―韓国
第4章 引揚者たちの銭湯と秘密の工場―寒川
第5章 「うさぎの島」の毒ガス兵器―大久野島
付録対談・旅の途中で


「女たちのシベリア抑留」小柳ちひろ

2020年06月28日 07時21分16秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)
「女たちのシベリア抑留」小柳ちひろ

従軍看護婦たちも、シベリアに抑留されていた。
それを掘り起こしたノンフィクション。
ことしのベスト、と思う。

P44
お下げにして編んでいた髪を二房、襟足近くで切り、母に渡した。
「これ、私の代わりに・・・・・・。遺骨は帰ってこないと思うから」

軍司令部からの通達
P59
「ソ連軍からの要求するものは、抵抗せずに渡すこと、その第一は酒、第二は女」

P61
虎林陸軍病院の陸軍看護婦長、佐藤節子は、ソ連軍が女を求めてやって来るたびに、庶務主任の下士官から「若い子を出せ」と命令され、床下に看護婦たちを隠して徹底的に抵抗した。ようやくソ連兵が立ち去ると、「婦長だけ残れ」と呼び出され、「俺たち軍人は命より大事な軍刀を手放した、女の貞操くらい何だ」と往復ビンタを加えられたという。
杏樹陸軍病院でも、日赤看護婦、永安春子の回想によれば、病院長が看護婦たちに「軍人が軍刀を捨てたのだから、女が貞操を捨てるくらい何でもないことだ。ソ連兵に求められたら貞操を提供しろ」と命じた。永安は「何とひどい言葉か」と悔しくて腹が立ったが、上官には反発できない。その時、婦長の三福君子が「軍が滅びて軍刀を捨てるのは当然です。私たちは大和撫子です。操は生きている限り守らねばなりません」と発言し、仲間の看護婦たちは感激した。後に三福本人から話を聞いた十川八重子によれば、三福の発言はもっと辛辣で、「『貞操を提供しろ』と言うのであれば、あなたの奥さんから先に出すべきでしょう」と言い、ようやく病院長は引き下がったのだという。(普段いばっている院長や軍人たちが、負けるとふがいない態度になるってどういうこと? すかさず保身に走るってのは、GHQが来たときにも見られた・・・つまりRAA)

同じ収容所にいた男性たちが驚いたこと
P229
「ダモイ(帰国)の日に看護婦たちが化粧をしていたんですよ。あれだけ何度も所持品検査で全部取り上げられて何も持っていないはずなのにね、口紅もつけ、白粉も顔にはたいてるんです。(後略)」

【挿入短歌】
髪断って女を隠す敗戦日 (阪東秀子)
野も山も実りの九月十九日 北斗七星ソ領で眺む (阪東秀子)
シベリアの秋の夜空にある星よ 命ある身を恨んでもみき (林正カツエ)
姉となり妹となりてシベリアに 勇士のみとり我はひたむく (竹折由美子)

【参考リンク】
「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」辺見じゅん
https://blog.goo.ne.jp/takimoto_2010/e/b377f89dbef9914b47f13a0ea34f8352

「生きて帰ってきた男 ある日本兵の戦争と戦後」小熊英二

「凍りの掌(て) シベリア抑留記」おざわゆき

【感想】
組織としての日本赤十字に信頼を持てなくなった。

【ネット上の紹介】
NHK BS1スペシャルの話題作を書籍化。文化庁芸術祭賞優秀賞他、数々の賞を受賞!70年の沈黙を破り、彼女たちは証言した。知られざるシベリア抑留、もう一つの歴史。
第1章 シベリアに女性がいた
第2章 従軍看護婦たちの満州
第3章 シベリアへ
第4章 なぜシベリアに送られたのか
第5章 長引く抑留
第6章 “女囚”
第7章 帰国
第8章 帰らざるアーニャ

「「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史」中村光博

2020年04月21日 14時17分42秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)
「「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史」中村光博

戦争孤児に対する政府の対応について
P52
「(前略)本音を言うなら、たとえ1日1個でいいからおにぎりくらい配ってほしかったですよ。なんででしょうね。戦争孤児が戦争を起こしたんじゃないんだから。政府がやったんだから。それなのに何にも政府は・・・・・・。毎日死んでいくんですよ、子どもが。食べなきゃ死んじゃいますよね」

P156
昭和21年の春、GHQの担当者が、日本政府や自治体に、対策をとるよう指示をしたのだ。指示を出したのは、GHQの公衆衛生福祉局の担当課長だったネルソン・ネフ氏。厚生省の幹部や警察、東京都の担当者などをオフィスに呼び出し、いまだに子どもたちが町をさまよっている状況を改善するよう、強く対策を求めた。

かつて戦争孤児だった方の言葉
P193-194
「よく身に染みたよね、人の冷たさっていうのかね。本当に優しかったら、あの孤児たちが、浮浪児がいたら、そこで何か周りでね、温かい手を差し出しているはずなんだよね、だから、日本人というか、人間は、案外そういう冷たさを持っているんじゃないかと思うけどね」(当時、野良犬のように扱われた仕打ちに対する怒りは、今も消えない・・・政府、役人だけでなく、世間、具体的には親戚の冷たい仕打ちは酷かったようだ)

あるキリスト教系の保護施設の仕打ち
P197
クリスマス会ということでいい服を着させてもらい喜んでいたのもつかの間、会が終わり、地域の人たちが帰ると、すぐに服を脱がされ、元のぼろぼろの服に着替えさせられたのだという。
「時々、厚生省なんかの役人が来て立ち入り検査がある。そのときだけ、子どもたちにいいものを着せる。役人の見学は5分ほどで終わって帰っていく・・・・・・そうするとすぐにその新しい服は脱がされて・・・・・・そんなんあり得ますか。誰だって怒ると思うよ、そんなことされたら。
そのときに、何が神様だって思ったよ。(後略)」

一緒に行動していた戦争孤児が、列車にとびこみ自殺する
P100
「俺はそのとき思った、これから徹底的に社会に逆らって生きてやるって。なんなんだ、僕たちばっかりにこんなことさせて。何の罪があるというんだ」(戦争孤児が多かった都市ほどヤクザが多いように思う、抗争も多いように思う・・・彼らには生活手段がなかった・・・暴力団側も、使い捨ての駒として、使い勝手がよかったんじゃないか・・・)

【ネット上の紹介】
戦争で親を失い路上生活を強いられ、「駅の子」「浮浪児」などと呼ばれた戦争孤児。飢えと寒さ。物乞いや盗み。戦争が終わってから始まった闘いの日々。しかし、国も周囲の大人たちも彼らを放置し、やがては彼らを蔑み、排除するようになっていった。「過去を知られたら差別される」「思い出したくない」と口を閉ざしてきた「駅の子」たちが、80歳を過ぎて、初めてその体験を語り始めた。「二度と戦争を起こしてほしくない」という思いを託して―戦後史の空白に迫り大きな反響を呼んだNHKスペシャル、待望の書籍化。
プロローグ―たった70年前、ここに孤児たちがいた
第1部 戦争が終わって闘いが始まった―焼け野原に放置された「駅の子」(神戸空襲で「駅の子」になった―内藤博一さん
上野駅で見た地獄―金子トミさん
孤児の保護施設・板橋養育院の悲劇
学童疎開の犠牲者―渡辺喜太郎さん
引き揚げ孤児の悲劇―瀬川陽子さん
路上生活で視力も失う―小倉勇さん
「戦争孤児」の保護を後回しにした国
奮闘した民間の保護施設―1000人の子どもを保護した愛児の家
「靖国の遺児」と呼ばれた子どもたち)
第2部 嫌われていった「駅の子」―復興から取り残され、やがて忘れられ(対策を指示したGHQ
始まった強制収容「狩り込み」
檻に閉じ込められた戦争孤児―伊藤幸男さん
復興から取り残されていく「駅の子」
路上で野良犬のように扱われる―山田清一郎さん
社会に逆らって生きると決めた―小倉勇さん
転落していった子どもたち
日本を去った戦争孤児―伊藤幸男さん
「駅の子」たちのいま)
エピローグ―取材を終えて

「戦跡巡礼」中津攸子

2020年04月16日 21時16分26秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)

「戦跡巡礼」中津攸子
 
中津攸子さんが戦跡を訪ね、歌を詠み、エッセイが添えられている。
訪問地は中国、サイパン、シンガポール、沖縄、広島など、アジア諸国、日本各地。
例えば、ハルピンでは次のような歌を詠まれている。
 
西日照る七三一の部隊跡
 
尾崎秀樹さんとの会話P26(ちなみに尾崎秀実は尾崎秀樹の実兄)
「七三一部隊は終戦後どうなったか知っていますか」
とあの艶のある声で私に聞かれた。
「よく知りませんが、石井四郎部隊長は天寿を全うしたと聞いています」
と申し上げると、
「そうなのです。それまでの研究した資料をアメリカに渡して戦犯をまぬがれたのです」
「下取引があったのですか」
「そうです。研究資料を渡すことで、七三一部隊の全員が無事に帰国し、官公庁や国立大学、医学研究所、ミドリ十字や自衛隊に再就職したのです」(ご存じのように、ミドリ十字は「薬害エイズ事件」を起こし、甚大な被害を与えた・・・元々のネガティブな「社風」が受け継がれていたのだろう、現在は救済合併により消滅)
 
P28
旧満州から多くの人が引き揚げて来た時、七三一部隊の人が何の苦労もなく、証拠隠滅のため頑丈な建物を破壊し、無事に帰国したことが釈然としないのだ。
 
石井部隊長について
戦後、新宿の若松町で陸軍の建物を旅館とし、女郎屋を営み、昭和34年に喉頭がんで死んだという。
 
P123
長崎には「長崎原爆死没者追悼平和記念館」「長崎原爆資料館」などがあるが、私は、永井隆博士の住んでいた「如己堂(にょこどう)」をまず訪ねた。(中略)亡き博士を偲びながら、仏教に帰依した聖徳太子の子山背大兄王は戦うなかれとの戒律を守って滅び、釈迦族も同じく滅び去ったことを思えば、この身が滅びようとも争ってはならない、滅びることを恐れるのでなく、戦うことを恐れなければならないと思っていた。
 
【感想】
著者の人柄が偲ばれる佳作だ。
なお、本作は英語バージョンもある。
世界中の人に読んでもらいたい、という配慮からだ。
 
【参考リンク】
丸木美術館
(埼玉に行く機会があれば訪問したい・・・東京も行ったことないけど)
 
【ネット上の紹介】
1章 大陸・巡礼(秋天の悲しきまでに白き雲
二〇三高地さざんか揺らす風
乃木坂の思はぬ蟇に逢ひにけり
秋風の僅か流るる盧溝橋
伏牛の辺より白蝶翔ちにけり ほか)
2章 太平洋諸島・巡礼(拳強く握る真夏の真珠湾
バンザイ岬海上に湧く雲の峰
夏草やモンテンルパの観世音
水牢をのぞき込みたる暑さかな
逝く夏やB29の滑走路 ほか)
3章 東京・広島・長崎・巡礼(飛行雲夏草の果て暮れ残る
小舟漕ぐ人新樹光あふれゐて
亡き父の真意に気付く今日の花
灯消し正座して聞く花火音
蜻蛉や水草揺るるままにゐて ほか)
4章 特攻兵士・巡礼(天炎えて特攻の碑の影深し
白雲の映るがわびし夏の川
海に向く特攻の碑や寒雀
人間魚雷錆びひとひらの山桜
逃げ水や霞ケ浦に浮く帆船)
5章 沖縄・巡礼(海原の沖へ沖へと白き蝶
秋の空墓石声なく群がりて
激戦の跡紫のすみれ草
獅子を誘ふに似て黄水仙
とかげの子瞬時石垣に隠れたる ほか)
6章 戦後・巡礼(藁馬に水を供へる敗戦日
一枚を文庫にはさむ渓紅葉
消防車幾台通る雪の夜半
色なき風白衣の人の会釈して
若夏や江田島に寄る波の音 ほか)

「知らなかった、ぼくらの戦争」アーサー・ビナード/編著

2020年02月16日 08時31分34秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)
「知らなかった、ぼくらの戦争」アーサー・ビナード/編著

著者が太平洋戦争を生き延びた人たちを訪ねていく。
多くの方が高齢で、もうこの手の本は出ないだろう、と思っていた。
しかし、これほど貴重な証言が埋もれていたとは・・・驚いた!
2017年に出版されたが、出版時、既に多くの方が亡くなられている。
それほど貴重な証言だ、嚙み締めて読むべし。
読むのが遅れたが、今年ベストの1冊、と思う。

P39
米軍による日本への爆撃の指揮官だったカーチス・ルメイ大将って、いまだに許す気持ちになれないな。日本側にはもはや反撃する能力がないと、アイツはだれよりもわかっていて、それなのにドシドシ焼夷弾を落としまくって、日本中の都市を火の海にして、無差別殺戮を繰り返したんだ。とんでもない馬鹿野郎だと、俺は思っているよ。(まったく同感だ。原爆も指示し、後に、ベトナム戦争時では、「石器時代に後戻りさせてやる」と発言した。なお、佐藤栄作内閣の時に、一等旭日大綬章が授与された。推薦は当時の防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名。勲章より、精神鑑定を受けさせるべきだ)

P154
沖縄戦で心に刻んだ最大の教訓は「軍隊は民間人を守らない」ということです。

高畑勲氏の話
P248
「はらはら」と表裏一体なのは「笑い」ですね。ちょっと客観的だから笑えるんですよ。「どきどき」というのは、もう笑えない。わたしの同僚の宮崎駿の作品も、『天空の城ラピュタ』のころまでは笑えたんですけど。それ以降になると、くすっと笑わせるところ以外では笑えなくなっちゃって。宮﨑アニメに特別の特別な魅力があることは、ぼくはよくわかっています。でもすっかり「どきどき型」、つまり巻き込み型になったんです。

【追加の感想】
本書に登場する人々は、どの方も「生き延びた」という意味で、運が強い。
その中でも、とてつもない強運とサバイバル能力があるのが平良啓子さんだ。
1,800人の疎開児童を乗せた「対馬丸」は、撃沈され、筏で6日漂流したのち無人島に漂着、のち漁船に救助される。その後、1945年2月に沖縄に戻るも、沖縄戦が始まる。4人に1人亡くなったと言われる沖縄戦で、やんばるの山奥に逃げて生き抜く。
【参考リンク】
OKINAWA 2015 死線を泳いだ少女 平良啓子さんの証言(当時9歳)

【ネット上の紹介】
いつまで知らないでいるつもり!? アメリカ出身の詩人アーサー・ビナード氏(1967年生まれ)が、日本人の太平洋戦争体験者たちを訪ね歩き、戦争の実態と、個人が争いから゛生き延びる知恵゛を探ります。登場する語り手は、真珠湾攻撃に参加したゼロ戦の元パイロット、「毒ガス島」で働いた元女子学徒、戦後GHQで働いた元事務員など、実にさまざま。日本人以上に日本社会に詳しいビナード氏が、自身の受けたアメリカの教育とも照らし合わせながら戦争に対する考察を深めます。日本民間放送連盟賞・2016年番組部門[ラジオ報道番組]最優秀賞を受賞した、文化放送「アーサー・ビナード『探しています』」を採録して再構成した書籍です。「『平和』って、無知のままでいること?」 「『戦後』って、いつの戦争のあと?」
第1章 「パールハーバー」と「真珠湾」と「真実」(マリは蹴りたしマリはなし(栗原澪子)
「空母は何隻いたのか?」(原田要) ほか)
第2章 黙って待っていたのでは、だれも教えてくれない(まだあげ初めし前髪の乙女たちは毒ガス島で働いていた(岡田黎子)
「君は狭間という日本語を知っているか」(飯田進) ほか)
第3章 初めて目にする「日本」(「外地」は一瞬にして「外国」となった(ちばてつや)
「日本という国が本当にあった!」(宮良作) ほか)
第4章 「終戦」は本当にあった?(八月十五日は引っ越しの日?(三遊亭金馬)
ストロボをいっぺんに何万個も(大岩孝平) ほか)
第5章 一億総英会話時代(GHQは東京日比谷で朝鮮戦争の業務を遂行(篠原栄子)
公園はすべてを見てきた(小坂哲瑯) ほか)

「置き去り サハリン残留日本女性たちの六十年」吉武輝子

2019年05月18日 21時05分25秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)
「置き去り サハリン残留日本女性たちの六十年」吉武輝子

地上戦が行われたのは、沖縄だけ、と思っていないだろうか?
サハリン(樺太)でも、地上戦が行われ、民間人の多くが亡くなっている。
生き残った日本人も、「事情」により、引き揚げが適わなかった。
現地に行って取材し、多くの当事者に話を聞き、埋もれた史実を掘り起こしたのが本書である。

P19
「満鉄」の初代総裁は台湾の民政長官だった後藤新平。この後藤新平が、満州への移民政策の発案者で、政府にも積極的に働きかけたが、後藤新平が構想の見本としたのはイギリスがインドを支配するために設立した「東インド会社」だった。

P170
8月15日の玉音は、停戦せよとの内部向けの命令であって、国会の議決も経ていない。それを受けて8月26日、占領軍が日本に進駐したが、9月2日、正式に降伏調印式が行われるまでの間は、あくまでも戦闘状態の一時中止であり、平和は確定していなかったのである。(中略)
ちなみに韓国は9月2日を独立記念日にしている。米国もロシアも日本に対する戦勝記念日は9月2日である。(この認識の誤差により、多くの悲劇が発生している)

【ネット上の紹介】
歴史の闇に埋もれた女たちの衝撃の証言!サハリン、韓国、日本の現地取材による渾身のドキュメント。
序章 歴史の闇の中に放置された人びとを訪ねる―サハリン残留日本女性の真実
第1章 戦後四十年、鉄のカーテンに封じ込められて―日本人であることを隠して生きた女性たち
第2章 子どもを投げては帰れません―国籍が分けた運命の明暗
第3章 ああ北緯五〇度。国境の町に立って―苛烈を極めた日ソ国境線の跡は今も
第4章 国がやらないならサハリンが故郷の自分たちでやる!―同志で立ち上げた手づくりの「日本サハリン同胞交流協会」
第5章 戦争は終わってはいなかった!―玉音放送の五日後に起こった惨劇
第6章 北海の藻屑と消え散った四〇〇〇人の命―待ち望んだ母国の山野を目前にして
第7章 二つの国と三つの名前に引き裂かれた人生―韓国に帰ったサハリン残留日本女性を訪ねて

「私たち、戦争人間について」石川明人

2018年07月02日 20時38分12秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)


「私たち、戦争人間について」石川明人

昨年読んだ「キリスト教と戦争」はとてもよかった。→「キリスト教と戦争」 石川明人
本作品は、さらに範囲を広げて、戦争とは何か、戦争をなくすことができるのか、と言った根源的な問いに対する作品となっている。

P33
戦争に対する問いは、究極的には、人間とは何か、という問いに行き着く。
そして、人間とは何かという問いは、私とは何か、私とはどんな人間か、という自問や自覚とも連動している。本書を書き進めていこうとするうえで感じる羞恥と逡巡は、おそらくそこに由来する。

P129
日本の種子島に鉄砲が伝来したのは、1542年前後とされている。フランシスコ・ザビエルが鹿児島にやってきてキリスト教を伝えたのは1549年なので、「新兵器」と「愛の教え」はほぼ同時期に日本に入ってきたことになる。

P244
ヨーロッパでは、同じキリスト教徒たちが凄惨な戦いを繰り広げてきた。彼らは決して、互いについて無知だったわけではないであろう。相手をよく知り、相手をよく理解してさえいれば仲良くできるわけではない。

P267
「九条があること」と「長いあいだ戦争をしていないこと」とのあいだに本当に因果関係があると言えるのかどうかについての義論さえ曖昧である。
 戦争を繰り返してはいけない、と言うならば、今現在の戦争、軍事、国際情勢について学ぶことこそ重視されなければならないはずだ。

P268
わが国では、戦争中は「必勝への信念」が重視されたが、戦後はそれが、単純に「平和への信念」へと切り替えられた。「信念」が好きなのだ。「戦争」も「平和」も、道徳感覚と結び付けられ、情緒で語り、情緒で説得しようとする傾向が強い。

P271
歴史から学べと人は言うが、純粋な平和主義など少なくとも政治的レベルでは現実的ではないということこそ歴史の教訓ではないのか、といった疑問もあり得るだろう。
 地上から武器を減らしていくことは、平和構築の第一歩だ。しかし、他国に軍縮をうながし、それを強制することができるのは、基本的には、その国を上回る軍事力だけだというのが冷厳な現実ではないだろうか。

P276
戦争と平和について考えるうえで重要なのは、「愛」ではない。「愛が大事」なのではなく、人は人を愛せない、全ての人は愛せない、という単純な事実認識が大事なのである。

P284
本書の狙いは、序章でも述べたとおり、戦争の不可解さについて答えることではなく、むしろ問いかけることであることをご理解いただければと思う。

【参考リンク】
石川明人『私たち、戦争人間について』

【ネット上の紹介】
人はなぜ、平和を祈りながら戦い続けるのか?私たちの“凡庸な悪”を正視するための、たぐいなき戦争随筆。長らく忌避されてきた“軍事の思考”を始めるに恰好な、助走路的エッセー。
序章 この世界のいったいどこに神がいるのか
第1章 戦争の原因は何か、という問いについて
第2章 戦争は人間の本性に基づいているのか
第3章 戦争の役に立つ技術と知識
第4章 あまり自明ではない「戦争」概念
第5章 戦時における人の精神と想像力
第6章 私たちの愛と平和主義には限界がある


「昭和二十年夏、女たちの戦争」梯久美子

2018年01月19日 20時39分29秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)


「昭和二十年夏、女たちの戦争」梯久美子

P42
あまり誰も言わないけれど、当時の東京では、未婚の若い女性と、既婚男性の不倫が多かったのよ。他の都市部でも多分そうだったと思う。男の人は職場のある東京に残って、妻子を地方に疎開させるでしょう。だから一人暮らし。で、独身の女性と恋愛になってしまう。

8月15日、東京の情景
P53
――その日、放送局を出ると、まだ夕方にはだいぶ間があるのに、空が一面、黒ずんだ灰色をしていました。あちこちから黒煙が上がっていて、紙の燃えかすがひらひらと舞い降りてくる。各官庁が、書類を燃やしていたんです。
 最初はわからなかったけど、しばらくしてああそうかと気がついたわ。アメリカが進駐してくる前に、機密書類を焼いてしまおうとしているんだ、って。NHKは内幸町にあったから、まわりはお役所だらけ。(中略)艦政本部からの煙が、とくにすさまじかったのを覚えています。

甘粕正彦に対する赤木春恵さんの印象
P120-121
きっと厳しくて怖い人なんだろうと思っていたんです。精悍できりっとした感じの。そうしたら意外と小太りで、ずんぐりむっくりと言っちゃ悪いけれど、そんな感じのかたでした。

P132-133
終戦時の満洲における日本人の数は約150万人だったが、そのうち、開拓民は約24万人。うち、8万人以上が日本に帰還することなく亡くなっている。
(中略)
そして8月15日がやってくる。日本政府は当初、「居留民はできる限り定着の方針をとる」としていた。敗戦時に満洲にいた日本人は、日本に帰らずそのまま現地で生活せよというのである。
 定着どころか満洲の日本人は生命の危険にさらされており、政府の方針は初めから無謀なものだった。

P239
「女が女にやさしくしなければ民主主義が成り立たない」という言葉を、その後、吉屋信子さんにお会いする機会があったときに、ご本人から直接うかがったことがあります。

【参考】
これにてこのシリーズを全て読んだことになる。
もし――どれも未読なら、「僕は兵士だった」から読んでみて。

「昭和二十年夏、僕は兵士だった」梯久美子
「昭和二十年夏、子供たちが見た戦争」梯久美子

【ネット上の紹介】
大宅賞作家が綴る戦争ノンフィクション第2弾!元NHKアナウンサーで作家の近藤富枝、生活評論家の吉沢久子、女優の赤木春恵、元国連難民高等弁務官でJICA理事長の緒方貞子、日本初の女性宣伝プロデューサー吉武輝子。戦争の陰でも、女性たちは輝いていた。
実らないのよ、なにも。好きな男がいても、寝るわけにいかない。それがあのころの世の中。それが、戦争ってものなの。(近藤富枝)
空襲下の東京で、夜中に『源氏物語』を読んでいました。絹の寝間着を着て、鉄兜をかぶって。本当にあのころは、生活というものがちぐはぐでした。(吉沢久子)
終戦直後の満洲、ハルビン。ソ連軍の監視の下で、藤山寛美さんと慰問のお芝居をしました。上演前に『インターナショナル』を合唱して。(赤木春恵)
はじめての就職は昭和二〇年春、疎開先の軽井沢。三笠ホテルにあった外務省の連絡事務所に、毎日、自転車をこいで通いました。(緒方貞子)
終戦翌年の春、青山墓地で、アメリカ兵から集団暴行を受けました。一四歳でした。母にだけは言ってはいけない。そう思いました。(吉武輝子)
薔薇のボタン―あとがきにかえて


「昭和二十年夏、僕は兵士だった」梯久美子

2018年01月17日 20時43分02秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)


「昭和二十年夏、僕は兵士だった」梯久美子

レベルが高く読みやすい。
さらに、読んで良かったと思える作品。

P7
この本で話を聞いた金子兜太、大塚初重、三國連太郎、水木しげる、池田武邦の五氏は、終戦時に18歳から26歳だった。(中略)
かれらもまた、あの夏、ひとりの兵士だった。ゼロからスタートして、何者かになったのである。その半生は、戦争に負けた国が、どのようにして立ち上がっていったのかの物語でもある。

P20
あんたは男色の話を聞いて驚いていたが、爆撃が激しくなって、島にいる慰安婦がみんな内地に帰ってしまったら、恐るべき勢いで男色が広まった。若い男の取り合いでケンカが絶えなかった。わたしはそれを見ていて、そうか、人間というものは、こういうものなんだと思った。

P28-29
「もうこれ以上痩せられないというくらい痩せると、今度は下腹が異常にふくれあがり、脚がむくんできます。膝から下が象の脚のようになり、足の甲が盛り上がって歩けなくなる。そでれも工員は這って作業にでようとするんです。休むように言うんですが、班の仲間同士で、作業に出る者と出ない者の食事差をつけていたらしく、そんな身体になっても、決して休もうとしませんでした。

P72
都会っ子であることは、軍隊ではマイナスだった。地方出身で苦労してきた者が多く、虎屋の羊羹を食べたことがある、銀座のネオンを見たことがあるというだけで目の敵にされ、殴られた。(日本のいじめは根が深い…軍隊でも学童疎開でも隣組でもいじめはあった。和の国日本である)

P92-93
日本はもう危ない、駄目かもしれないと思ったんです。
東京大空襲で、大勢の民間人の無残に焼けこげた死体を片づけたときからずっと心のどこかにあった思いが、東シナ海の暗くて冷たい海を漂いながら、どんどん強くなっていきました。
そのときわたしはこんなふうに考えたんです。もし生き延びて、ふたたび日本の土を踏めるようなことがあったら――この後も人生というものが私にあるなら――もう一度、歴史を勉強しなおそうと。(海軍一等兵曹として乗り組んでいた輸送船が二度撃沈され、二度とも九死に一生を得た大塚氏は、戦後、働きながら大学に通い、考古学を学ぶ。その後、登呂遺跡の発掘等、多くの発掘を手がけ第一人者となり、日本考古学協会会長もつとめた)

三國連太郎氏…上海の昭和島から日本に引き揚げたのが昭和21年
P147
何か買うものはないかと思って、ひとりで広島駅で下車しました。そこから広島の街に入ったんです。
そうしたら、ほんとうに何もないんですね。街は跡形もなく、一面の焼け野原。見えるものは原爆ドームと、ところどころに立っている鉄塔のようなものだけでした。

建築家・池田武邦氏の章が凄まじい…マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、天一号作戦を生き抜いている。天一号とは、戦艦「大和」とともに出撃した、いわゆる沖縄海上特攻である。
P234
――軍艦というものは、もちろん戦うためにあるんですが、同時に生活の場でもあります。そこで食事をし、眠り、訓練をする。戦友と語り合ったり、読書をしたりもします。乗組員にとって、普段は家のようなところなんですね。その「家」が、ひとたび戦闘が始まると、そのまま戦場になる。日常と戦場が重なっているんです。

P265
そのまま浦賀の復員局で復員業務にあたっていた池田氏のもとに、父が訪ねてきたのは二月末のことだった。
「父は東京帝國大学の願書を手にしていました。元軍人でも、定員の一割までなら大学に入れるらしいから、受けてみろというんです。ご奉公は十分したんだから、もう一回、勉強してみたらどうかと」(こうして親孝行も兼ねて一か月の受験勉強で工学部に合格する。その後、霞が関ビル、京王プラザホテルなど手がける一流の建築家となるのだ)

P280
軍部が勝手に戦争を始めたという人たちがいます。戦争指導者たちがすべて悪いんだと。本当にそうでしょうか。戦前といえども、国民の支持がなければ戦争はできません。開戦前の雰囲気を、僕は憶えています。世を挙げて、戦争をやるべきだと盛り上がっていた。ごく普通の人たちが、アメリカをやっつけろと言っていたんです。真珠湾攻撃のときは、まさに拍手喝采でした。(例えば近い将来、北朝鮮のミサイルが本土に落ちたとする。すると、世論は「叩くべし」と好戦的な雰囲気に一気に変わるだろう。倍返しの好きの国だし。水を差すような意見を言ったら非国民呼ばわりされるかもしれない…以上、杞憂であって欲しい)

【ネット上の紹介】
かれらもまた、あの夏、ひとりの兵士だった。俳人・金子兜太、考古学者・大塚初重、俳優・三國連太郎、漫画家・水木しげる、建築家・池田武邦。廃墟の中から新しい日本を作り上げた男たちの原点は、太平洋戦争の最前線で戦った日々にあった。何もかも失った若者は、どのようにして人生を立て直したのか。過酷な戦場体験と戦後の軌跡を語り尽くした感動のノンフィクション。巻末に児玉清氏との対談を収録。
賭博、男色、殺人―。南の島でわたしの部下は、何でもありの荒くれ男たち。でもわたしはかれらが好きだった。(金子兜太)
脚にすがってくる兵隊を燃えさかる船底に蹴り落としました。わたしは人を殺したんです。一八歳でした。(大塚初重)
逃げるなら大陸だ。わたしは海峡に小舟で漕ぎ出そうと決めました。徴兵忌避です。女の人が一緒でした。(三國連太郎)
もうねえ、死体慣れしてくるんです。紙くずみたいなもんだな。川を新聞紙が流れてきたのと同じです。(水木しげる)
マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、そして沖縄特攻。二〇歳の頃に経験したことに比べれば、戦後にやったことなんか大したことない。(池田武邦)
すべてを失った若者たちの再生の物語―対談 児玉清×梯久美子


「帰郷」浅田次郎

2017年03月02日 20時58分40秒 | 読書(戦争/引き揚げ/ 抑留)


「帰郷」浅田次郎

戦争をテーマにした短編集。
次の6編が収録されている。

「帰郷」
「鉄の沈黙」
「夜の遊園地」
「不寝番」
「金鶏のもとに」
「無言歌」


特に良かったのがが「金鶏のもとに」。
複雑で壮絶な作品である。

P198
(軍命令により、人倫に悖る行為を処断する。命令は知っていたな)
 はい、と兵は神妙に答えた。
 人倫に悖る行為は即刻処断すべしという軍命令が、具体的にどういう意味であったのか、染井はそのとき初めて知ったのだった。支那戦線でのその種の命令は、無抵抗の現地住民をみだりに殺傷するなとか、婦女子を犯すなという意味だったが、ブーゲンビルではまったくちがっていた。つまり、飢えても人の肉は食うなということだ。

【参考リンク】
「戦争」という普遍を書く。浅田次郎の新刊『帰郷』インタビュー|文

浅田次郎の連作短編集『帰郷』が描くもの「これは戦争小説ではなく反

【おまけ】
読んでいて、「ゆきゆきて、神軍」を思い出した。
忘れられない強烈な作品だ。
 

【ネット上の紹介】
みんな、普通の人だった──。作家・浅田次郎のライフワークである「戦争」をテーマにした短編集。名もなき一般市民の目線から、戦中戦後の東京の風景を描き出す。人情ドラマが光る全6編。