「アラビア猫のゴルム」ヤマザキマリ
ヤマザキマリさん最新刊。
著者は猫を飼っている。
産地は中東シリア・ダマスカス。
どうして、どのように出会ったのか?
この本を読むことによって知ることが出来る。
また、中東シリア情勢というか、当時の雰囲気も感じることが出来る。
文章を一部紹介。
イスラム教の国では犬を飼う人をあんまり見かけません。犬はイスラム社会にとって不浄の動物とされ、警察犬や盲導犬としてさえ用いられないのだそうです。なのに、なぜか猫に対するシンパシーは他の国民に比べて並はずれて強いのがイスラムの国々の特徴でもあります。
私は今までにいろんな国を巡ってきましたが、野良猫のイキイキ度ではシリアが1番だったと思います。エジプトではどちらかというと野良猫達も痩せていましたし、イタリアのローマのコロシアムに住んでいる無数の野良猫達も性格がどことなく荒んでいました。それに比べてシリアの猫達には全体に平和なオーラが漂っているように感じられます。人間達が自分達に害を及ぼすことなどないことを確信しているうえ、必ずご飯はどこかで誰かにもらえるというゆとりが猫達をあのようなおおらかな様子にさせるのでしょう。
「ハナシがちがう!」田中啓文
田中啓文さんはSF作家、パロディ作家として、印象が強い。
しかし、落語を扱った作品も本作をはじめ、何冊も上梓されていて、相当な通とうかがえる。
さて、内容は不良少年が無理やり、落語家の師匠に弟子入りさせられるところから始まる。
業界裏の人間模様が語られ、好きな方にはたまらん、でしょうね。
落語の、特に上方古典落語をネタに、物語が展開し、ミステリの謎解きまでおまけについてくる。1話で2度美味しい、といった趣向になっている。
さらに、月亭八天さんのエッセイも挿入されていて、これも面白い。
これを読んで永年の疑問が氷解した個所がある。
つまり、一人前の芸妓になったことを、なぜ「一本になった」と言うのか?
次のように書かれている。
その昔、時計のなかったころ、色町の芸者さんの花代を線香で計っていたそうです。帳場は線香場とも呼ばれ、男衆さんが線香台に線香を立て、あるいは粉のお香を並べ、それが一筋立てば、なんぼ(幾ら)というシステムであったと聞いているます。一人前の芸妓になると一本になったというのは、線香一本分の値段が取れるようになったということです。(P8)
【用語説明】ウィキペディアより
●京都・大阪などの近畿地方
芸妓を「芸妓(げいこ)」、見習を「舞妓(まいこ)」と呼ぶ。山形、石川などでもこの呼名が行われる。
●東京を中心とする関東地方
芸妓を「芸者」、見習を「半玉(はんぎょく)」・「雛妓(おしゃく)」などと呼ぶ。
【ネット上の紹介】
上方落語の大看板・笑酔亭梅寿のもとに無理やり弟子入りさせられた、金髪トサカ頭の不良少年・竜二。大酒呑みの師匠にどつかれ、けなされて、逃げ出すことばかりを考えていたが、古典落語の魅力にとりつかれてしまったのが運のツキ。ひたすらガマンの噺家修業の日々に、なぜか続発する怪事件!個性豊かな芸人たちの楽屋裏をまじえて描く笑いと涙の本格落語ミステリ。
「テルマエ・ロマエ」(Ⅲ)ヤマザキマリ
シリーズ最新刊。
今回も楽しませてもらいました。
ルシウス最高!
それにしても、3巻も続くと思わなかった。
(並みの才能なら、単発ギャグで終わったでしょうね)
しかし、イタリアに十代から住んで、10年以上暮らしてきた方だけに、造詣がハンパじゃない。
ところで、この作品、映画化されるそうだ。
いったいどんな具合になるんでしょう?
かの『ROME』のセットを使用していると聞くが・・・すばらしい!
【参考リンク】(著者ブログ)
http://moretsu.exblog.jp/12481409/
【立ち読みページ】
第1話①
第1話②
第1話③
【ネット上の紹介】
驚愕の実写映画化決定!(出演:阿部寛・上戸彩 監督:武内英樹『のだめカンタービレ』 製作:フジテレビジョン 配給:東宝)すべての“風呂”は、“ローマ”に通ず。風呂&古代ローマを巡って、さらなる大冒険は続く…!マンガ大賞&手塚治虫文化賞のW受賞など、ほとんど社会問題化している超ベストセラー・爆笑コミック、全世界待望の最新Ⅲ巻!
「みんなのふこう」若竹七海
これは面白かった、軽妙にして洒脱。
久しぶりに若竹七海作品を読んだけど、熟練の業を感じた。
タッチは軽いんだけど、構成にプロの技を仕掛けてある。
17歳のココロちゃんが主人公なんだけど、本人は前面に出てこない。
周囲の人物がココロちゃんを語ることによって、物語が展開する仕組みになっている。
特に重要な語り手が、女子高生のぺんぺん草ちゃん。
この2人の青春小説でもあり、全体としてミステリ構造にもなっている。
ココロちゃんのキャラクターがけっさく。
要領が悪く、不器用で失敗ばかりだけど、めげずに明るく元気、超天然。
小さいときから施設で育ち、父を知らず。
母とはそりが合わず、1人で生活している不幸な少女。
(このあたりまでは、フツーの小説で、キャラとしてもフツー)
しかし、ここから展開が違ってくる。
とにかく、人がいいから欺されやすく、人に利用されてしまう。
ところが、ココロちゃんを欺したり、悪く言ったりすると、その人は災厄に見舞われる。
たたりのある動く依り代、である。
そんな事も知らず、カルト教団がココロちゃんに手を出してしまう。
さて、どうなるか!?
【ネット上の紹介】
田舎町のラジオ局・葉崎FMで、毎週土曜夜に放送される読者参加型番組「みんなの不幸」は、リスナーの赤裸々な不幸自慢が評判の人気コーナー。そこに届いた一通の投書。「聞いてください。わたしの友だち、こんなにも不幸なんです…」。海辺の町・葉崎を舞台に、疫病神がついていると噂されながら、いつでも前向きな17歳のココロちゃんと、彼女を見守る同い年の女子高生ペンペン草ちゃんがくりひろげる、楽しくて、ほろ苦い、泣き笑い必至な青春物語。
先日、「パエトーン」を紹介した。覚えてる?→現代の「パエトーン」(4/8)
この作品は チェルノブイリ事故から2年後の1988年に発表された。
なんと、この作品がネット上で無料公開されている!
公開した潮出版社によると、福島の事故直後、ネット上で「まさにパエトーンの状態だ」と話題になり、山岸さんに知らせると、「ぜひ無料公開したい」と返事があったという。
原発問題を考える契機になれば・・・、と思う。
「三陸海岸大津波」 吉村昭
吉村昭さんのノンフィクション。
昭和45年に、上梓された作品。
明治二十九年の津波と昭和八年の津波をメインに書かれている。
(現在入手困難になっている本書であるが、なんとか探して購入できた)
当時存命だった津波経験者を訪ねて話を聞いたり、記録文献を調べてこの作品を書かれた。
何度も三陸海岸に足を運んで書かれた作品である。
P33
ようやく災害地にも、本格的に救援の手がさしのべられ、腐乱した死体の処理もはじまった。が、葬儀などをおこなうような状態ではなく、死体は流木の上にひとまとめにしてのせられ重油をまいて焼かれた。
肉親を探してあてどもなく歩く者が多かった。精神異常を起こして意味もなく笑う老女や、なにを問いかけられても黙りつづける男もいた。
P51
津波に対する恐怖以外にも、死体の散乱する海岸一帯は不気味な地域として人々に恐れられた。
死体の多くは、芥や土砂の中に埋もれていた。生き残った住民や他の地方から応援に乗りこんできた作業員たちの手で収容されていたが、掘り起こしても死体の発見されない場合が多い。
そのうちに経験もつみ重ねられて、死体の埋もれている個所を的確に探し出せるようになった。死体からは、脂肪分がにじみ出ているので、それに着目した作業員たちは地上に一面に水を流す。そして、ぎらぎらと油が湧く個所があるとその部分を掘り起こし、埋没した死体を発見できるようになったのだ。
海岸には、連日のように死体が漂着した。人肉を好むのか、カゼという魚が死体の皮膚一面に吸い着き、死体を動かすとそれらの魚が一斉にはねた。
また野犬と化した犬が、飢えにかられて夜昼となく死体を食い荒らしてまわった。住民が犬を追いはらおうとすると、逆に歯をむき出して飛びかかってくる。犬は集団化し危険も増す一方なので、野犬退治が各所でおこなわれた。
P66
海は、人々に多くの恵みをあたえてくれると同時に、人々の生命をおびやかす過酷な試練を課す。海は大自然の常として、人間を豊かにする反面、容赦なく死を強いる。
PS
津波と言えば、3/11である。
過去の経験を生かす事ができなかったのか?
特に、政治、行政、気象、原子力、防災関係者は、本書を読んでおいて欲しかった、と思う。
【参考リンク】
【関連リンク】
原発および原発事故をネットで読む
[要旨]
明治29年、昭和8年、そして昭和35年。青森・岩手・宮城の三県にわたる三陸沿岸は三たび大津波に襲われ、人々に悲劇をもたらした。大津波はどのようにやってきたか、生死を分けたのは何だったのか―前兆、被害、救援の様子を体験者の貴重な証言をもとに再現した震撼の書。
[目次]
1 明治二十九年の津波(前兆;被害;挿話 ほか);
2 昭和八年の津波(津波・海嘯・よだ;波高;前兆 ほか);
3 チリ地震津波(のっこ、のっことやって来た;予知;津波との戦い)
「ソイヤ!!こち亀お江戸だいすきBOOK」秋本治/川富士立夏
別に、私は「こち亀」ファンではない。
川富士立夏さんが書かれている、『お江戸入門書』なので読んだ。
即ち、川富士立夏=高田郁さん、である。(皆さん、知ってた?)
お江戸についてのトリビアが語られる。
(P34)
『九尺二間に過ぎたるものは、紅のついたる火吹き竹』
『火吹き竹』というのは、かまどの火を起こすための道具で、台所仕事の必需品さ。その火吹き竹に紅がついている、ということは使っているのは紅の似合う若い女性。つまりさきほどの唄は、狭くて貧しい裏長屋に暮らす独り身の男のところへ嫁に来てくれる女など滅多にいない、もし嫁いできてくれるなら、何て珍しい、うらやましいな、という哀しい男心を読んだ唄なわけさ。
(P132)
御輿を担ぐ時のかけ声には「わっしょい」派と「そいや(せいや)」派がある、とよく言われるけれど、江戸時代からあったのは「わっしょい」の方。「和して背負う」が変化して「わっしょい」になったそうだ。
(P140)
江戸時代の女性の性質を表現した言葉が紹介される。
①きゃん=さっぱりと陽気
②おちゃっぴい=おませな跳ねっかえり
③おてんば=自由活発
(P150-151)
白菜は、江戸時代からあるように誤解されることも多いけれど、日本に入ってきたのは明治になってからだよ。たとえば、時代劇でお百姓さんが白菜を荷台に乗せて運んでいるシーンなんかが出て来たら、随分お粗末な時代考証だ、と笑われる。
江戸各地で採れた野菜について。
千住=ねぎ
亀戸=大根
小松川=小松菜
駒込=茄子
目黒=筍
品川=蕪
早稲田=茗荷
本所=瓜
谷中=生姜
・・・ずいぶん、いろんな野菜が採れた事が分かる。
ある意味、江戸時代の方がずっと豊かだった、と言える。
(遠洋漁業に出なくても、魚は捕れたし)
少なくとも、エコに関しては、江戸時代の圧勝、である。
「トルコのもう一つの顔」小島剛一
これは驚いた、すばらしい。
言語学者が書いたトルコ体験記録、すごく面白い。
(特にトルコ少数民族言語について研究されている)
どういう経緯で、この本を見つけたのか忘れたけど、読んで良かった。
いくつか文章を紹介する。
P53-54
イスラーム神学では、「聖典の宗教」のうちユダヤ教とキリスト教は、最後の宗教イスラームにいたる前の漸進的な段階だと見なす。「遅れている」けれども間違ってはいないと見る。しかし聖典外の宗教は「基本的に誤った」ものだと考える。だからときどき、答えようのない質問をする人に出会う。「あなたは大学も出ているし、世界中を旅行していろいろなものを見てきたのに、どうしていまだにイスラームに改宗されないのですか」
P109-110
トルコ語かザザ語の歌を知っていたら一曲歌えと言う。サズで伴奏するから。
「一曲だけ習ったデルスィム語の歌があるけど」
「出だしはどんなふう?」
「こんなふうに始まる。ラララー・ララー・・・・・・」
「ああ、あの歌ね。知ってるよ。オワジュクのQ君の作曲だ」
私の歌はもちろん「ドゥイェ・ドゥイェ」。これを伴奏つきで歌うのははじめてだ。オワジュクで過ごしたばかりの日々を思い浮かべながら歌う。一番・・・・・・二番・・・・・・胸が次第に熱くなってくる。三番に入ったところで女たちの一人が泣き崩れた。もう一人が目を押さえ、男たちがうつむく。終わりまで歌ったころは皆が泣き腫らしていた。
友人の細君が訊く。
「オワジュクの人たちはこの歌の意味をあなたに教えてくれたかしら。誰が誰に話しかけているのか、あなたは知ってるの」
「今兵役に行く男が妻を慰めようとしているのだと聞いたけど」
「そう、そうよね。知ってるはずよね。でなければこんな歌い方はできるはずがないわ」
P130
真っ平らな土地の真っすぐな道を走り続ける。車の残骸がとうもろこし畑を背景に散らばる。Y氏はあまりにも変化のない景色に悲鳴を上げた。
「こりゃいくらなんでも退屈すぎる。少し本道をそれようよ。眠くなったら大変だ」
私はアドリア海岸のリエカに抜ける道を提案する。
「きれいなとこかい」
「リエカはまあまあだけど、その少し先のオパティアが一見に値するねオーストラリア・ハンガリー帝国時代の瀟洒な建物が並んでいて今は皆ホテルになっている。団体旅行の予約が多いから泊まるのは難しいかもしれないけど」
P135
美醜の普遍的な尺度が存在しないことは周知の事実であるが、ある種のものを見聞きしたときに「美しい」と思うかどうかも、民族により、時代により、人により、また環境によって異なることがある。お寺や教会の鐘の音を聞いて「美しい」と言う人も「喧しい」と言う人もあり、さらには「恐ろしい」と言う人もある。(中略)
私の出会った範囲では、トルコ人は山を見て「美しい」と思うことがほとんどないようである。薪を取りに、または狩猟をしに、あるいは湯治のために、はたまた宝探しのために山に登ることはある。しかし山そのものを歓びとするトルコ人に会うことは稀なるうちにも稀であり、Y氏と知り合う前には、山々の美しさを語って目を輝かすトルコ人に出会ったことは一度しかない。
P144-152
クルド人・・・特にクルディスタン独立の可能性について、著者がトルコ人外交官相手に(トルコ語で)検証していく。この薀蓄のすごさ・・・悶絶クラス、である。
ほんのごく一部を紹介する。
「クルド人の民族主義者が皆マルクス・レーニン主義だなどということはない。ムシュ県はいつの選挙でもイスラーム原理主義政党が勝つのは知っているね。クルド人はシャーフィイー派が多くて、『宗教は阿片なり』の一言を聞くだけで無条件に反共なんだ。ところがマルクス・レーニン主義者かつ信心深い回教徒という人も結構あるし、左翼だけど反ソというのがまた随分多い。モスクワの政府がソ連の少数民族の民主主義を非難するのはロシアの民族主義の発露にほかならないことを見抜いているからだ」
P160
謙譲の美徳という概念はトルコにもヨーロッパにも実生活では存在しない。謙譲は、美徳ではないどころか、ことにトルコでは、愚劣なことである。「私にはなんの取り得もありません」と言えば、「本人が言うのだから間違いない。それにしても気の毒な人だ。なにもわざわざ言わなくてもいいのに」と誰しもが考える。「沈黙は金」も同じく空文である。口数が少ないことは日本では美徳のうちだが、フランスでは「頭が空っぽである証拠」と見なされる。誰にも好かれない。敬遠ではなく「《蔑》遠」される。
以上、文章紹介終了。
この作品を読んで、クルド人問題の「しっぽ」をやっと掴んだ気分。
「だからどうなんだ?」、と言われるかもしれない。
知ったからと言って、仕事に役立つわけでも、日常生活が便利になるわけでもない。
でも、読書とは(私にとって)そんなものである。
PS
清水義範さんが「夫婦で行くイスラムの国々」で、トルコについて書かれているが、「トルコのもう一つの顔」のほうが、ずっと面白い。トルコに入れ込んでいる年月、熱情、知識・・・これらに、圧倒的な差があるから。面白さのレベルに差が出て当然。知名度と面白さは比例しない例、である。
ちなみに、「トルコのもう一つの顔」をネットで調べてもらったら分かるけど、この作品を読んだ方は絶賛している。とても評判の高い本である。
【ネット上の紹介】
言語学者である著者はトルコ共和国を1970年に訪れて以来、その地の人々と諸言語の魅力にとりつかれ、十数年にわたり一年の半分をトルコでの野外調査に費す日日が続いた。調査中に見舞われた災難に、進んで救いの手をさしのべ、言葉や歌を教えてくれた村人たち。辺境にあって歳月を越えてひそやかに生き続ける「言葉」とその守り手への愛をこめて綴る、とかく情報不足になりがちなトルコという国での得がたい体験の記録である。
freefan#63が郵送されてきた。
今号は、印刷に入る直前、3.11大震災が発生、発行が遅くなった。
特集が『福島・大日岩』だっただけに、いろいろ検討されたようだ。
次のように書かれている。
編集部では、災害以降「日本の岩場を斬る」の掲載を見合わせることも含めて、様々な検討を重ねてまいりました。現地の取材および誌面の編集が震災以前であったとは言え、こうした状況の中で、岩場の紹介記事を取り上げることについては、被災地の状況、被災者の感情、社会の情勢、岩場の安全、情報の伝達等々を考慮し、慎重な判断を必要としました。
その上で今回掲載に踏み切ったのは、今後の長い復興の中で、微力ではあっても支援につながるのではないかと判断したためです。今は岩場の利用は控えるべき状況かもしれませんが、状況が落ち着けば積極的に出かけて、宿に泊まったり、食事をしたり、土産物や特産品などを買ったりといった地元経済への還元を通じて、僅かながらも復興の一端を担うことができます。また、様々なクライマーが訪れて交流を深めることは、東北のクライミング界の活力にもなります。そのために、本誌での福島・大日岩の紹介記事が、全国のクライマーの方々に、いずれは行ってみたくなるような魅力を伝えられたら幸いです。
以上、転載終了。
さて、特集の『福島・大日岩』であるが、読みごたえのある内容となっている。
新田龍海君が1人で出かけて、「フォッサマグナ」(14a)、「グレート東郷」(12b/c)を登っている。(「鉄の爪」(13a)は残念ながらRPならず)
食事のシーンが美味しそうに紹介されている。
行ってみたい気分になる特集である。
『三種の神器』コーナー、今回はヘッドランプ。
分かりやすく比較紹介してあり、参考になった。
私は旧タイプのランプと、一般ランプを使っているので、いずれ購入したい、と思った。
要チェック記事は、『裏六甲/不動岩・烏帽子岩調査報告』。
六甲の岩は、何年も訪問していないが、それでも、気になる。
実際読んでみて下さい。
日曜日、ポンポン山に登ってきた。
朝10時頃、神峰山寺から登りだして、お昼12時前に登頂。
約20分昼食休憩、14時前に、神峰山寺に下山。
おおよその目安として、登るのに2時間、降りるのに2時間、といったところ。
4時間あればOKだけど、余裕をもって朝10時までに出発したい。
昨年はバスで登山口=神峰山寺にアプローチしたが、今回は車で行った。(帰りのバスの本数が少ないから)
道が整備されているので、本山寺まで車で上がってくる方多数いたが、私は一番下の神峰山寺駐車場に駐めた。
ポンポン山の欠点は、道が整備されすぎていること。
楽をしようと思えば、行程の半分まで車で行くことが出来る。
ぼちぼち歩いている横を、排気ガスを排出して何台も車が通過する。
・・・あまりよい気分と言えない。
今後、条件のそろった時のポンポン山に登るのはやめようと思う。
条件とは、①よい季節、②日曜日、③快晴、である。
この3つがそろうと、人が多く、車も多い。
【参考資料】
JR高槻駅(バス)→神峰山口→神峰山寺→本山寺→ポンポン山▲679m
→本山寺→神峰山寺→神峰山口→(バス)JR高槻駅
歩行4時間30分 距離16km
資料データ:「行楽の山歩き」参考
【写真リンク】
ポンポン山
【資料】
本山寺 (高槻市)
神峯山寺
神峯山寺公式サイト
ポンポン山 (近畿) - Wikipedia
【参考リンク】
21.ポンポン山コース|東海自然歩道連絡協会公式サイト別ウィンドウで開く
4/16、グラビティ・なんば店、オープニングコンペがあった。
リザルトは次のとおり。
http://www.gravity-research.jp/file/gr/20110416_gr-namba_compe2.pdf
めずらしく映画の話「歌え!ロレッタ愛のために」・・・伝記映画。
さて、ロレッタ・リンは知っていたけれど、伝記映画があるのは、最近まで知らなかった。
1934年、8人兄弟の2番目、炭鉱作業員の娘として生まれる。
13歳で結婚、結婚指輪もなかった。
結婚して、子どもが何人も生まれたけれど、結婚指輪にこだわるロレッタ。
しかし、結婚記念日に、夫はギターを買ってくる。
これが、カントリー界の女王、ロレッタ・リンの始まりである。
独学でギターを練習し、自分で作詞作曲する。
最初は小さな酒場で歌い、レコードも自費製作。
ラジオで曲が流れ、気がつくと全国14位に。
映画で印象に残るセリフがある。
ナッシュビルに着いて、有名劇場で歌うことになったロレッタ・リン。
劇場は立派で、周りはベテランばかり、気後れする・・・。
「あたし下積みをしていない」、とロレッタ。
「そんなものは、あとでしろ」、と夫。
シシー・スペイセクが吹き替えなしで歌っている。
(すばらしく上手い!1980年アカデミー主演女優賞受賞)
派手なところが何もない映画だけれど、なぜか心に残る。
「上京十年」益田ミリ
益田ミリさん、中日新聞連載エッセイ。
いくつか文章紹介。
(P40)
あー、もう、なんか嫌になってきちゃったなぁ。つぶやくつもりもなかったのに、思わずことばになって出てしまうことがある。別になにが嫌というわけではない。それは「空しい」という感じに近い気持ちだ。(中略)
「くよくよしてちゃダメだよ」
などと、空しさと「くよくよ」をごちゃ混ぜにして、前向きさが足りないせいにしてしまう。一歩譲って、たとえ「空しさ」と「くよくよ」が同じだとしても、人はくよくよしたっていいのである。くよくよして落ち込んで、あー、もう、なんか嫌になってきちゃったなってつぶやきながら眠る夜があってもいいと思う。
もしもわたしの友達が、
「あー、もう、なんか嫌になてきちゃったなぁ」
と隣で言ったら、わたしは「ある、ある」と首が折れるほどうなずいてやりたい。
頑張ったからといって必ず報われるわけでもない毎日を生きているもの同士として、嫌になっちゃったクラブを作りたいくらいだ。
カルチャースクールで50代、60代のおばさんたちが、真っ赤なフラメンコ衣装を着て踊っている。
これについて著者の感想がいい感じ。(P57)
「いい歳をしてそんな衣装を着てさ」
などとバカにする人がいたとしたら、つまらない人だなぁと思う。いい歳とか男らしさとか女のくせにとか、なんて窮屈な言葉なんだろう。自分からわざわざ窮屈に生きることもなかろうに。
せめて、わたしはそんなことを言わないようにしたい。そのほうが、楽でいられるし、うんと格好いいと思うからだ。
(P74-75)
「結婚は絶対にしたほうがいいわよ~」
とか、
「子どもはふたり産むべきよ~」
というような人生アドバイスを、頼まれもしないのにしている人を目撃すると驚いてしまう。たったひとつしか与えられていない貴重な人生だというのに、どうして気軽にアドバイスできるんだろう?その後の人生に責任を取る気があるのならともかく、なんとなくで言うのはどんなもんかと思う。人の人生に首をつっこむヒマがあるんだったら、重曹で浴槽を磨いているほうがよっぽど有意義だと思ってしまうわたしである。
【今日の一言】
このような方は、どこの世界にもいる。もちろん、クライミング界にも。
頼まれもしないのにムーブを教えたり、人生訓をたれるヤツ・・・困ったものだ。
「それはお前だ!」って?・・・スマン!!
(エラソーな言動してない、と思うけどなぁ)
ただし、危険なことをしていたら、注意するけどね。
【追加】
世の中には、『生き方そのものが危険』、って方もいる。(人生いろいろ、だ)
触らぬ神に祟りなし、成仏して下さい。
【ネット上の紹介】
OL時代に貯めた200万円を携えいざ東京へ。イラストレーターになる夢に近づいたり離れたり、高級レストランに思いきって出かけ初めての味にドギマギしたり、ふと老後が不安になり相談窓口に駆け込んだり。そして父から毎年届く御中元に切なくなる。東京暮らしの悲喜交々を綴るエッセイ集。
「あかね空」山本一力
これは面白かった、人情時代小説。
上方から江戸に下った豆腐職人・栄吉。
同じ長屋に住むふみと夫婦になる。
ふみは、栄吉の豆腐が売れるようにと願掛けをする。
このあたりは、微笑ましい。
しかし、これは伏線に過ぎなかった。
この作品のテーマは「家族」。
今も昔も変わらないテーマである。
第一部、第二部と親子二代にわたって物語が進行する。
家族は求心力を失い、崩壊していく。
いったい、どう収斂するのか?
ハラハラしながら読んだ。
エンディングは(ちょっと力技だけど)見事な着地。
カタルシスも得られる。
PS
結果として、ふみの願掛けに家族中が振り回されたことになる。
思い込みの激しい女性である。(このタイプけっこう多いかも)
ちなみに、第126回直木賞受賞作品。
【ネット上の紹介】
希望を胸に身一つで上方から江戸へ下った豆腐職人の永吉。己の技量一筋に生きる永吉を支えるおふみ。やがて夫婦となった二人は、京と江戸との味覚の違いに悩みながらもやっと表通りに店を構える。彼らを引き継いだ三人の子らの有為転変を、親子二代にわたって描いた第126回直木賞受賞の傑作人情時代小説。