たのしい知識
1969年/フランス
たのしい映画の知識
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
おそらくテレビ局のスタジオと思われる場所に現れる人物はジャン=ピエール・レオが演じるエミール・ルソーとジュリエット・ベルトが演じるパトリシア・ルムンバだけである。最初にパトリシアが持っていた傘に関して2人が語り始めた後は、様々なイメージを交錯させながら労働争議や大学闘争などの演説と共にジャン=リュック・ゴダール監督のナレーションが流れる。
資本主義によって退廃した映像を、毛沢東思想による新たなマルクス主義の可能性を探りながら‘真実’の映像に甦らせようと2人は試みるのであるが、とりあえずは写真やコミックなども引用して昨今の映像のあり方をトレースする。例えば、「ウイ」という返事には言い方によって無数の意味が成り立つという実践に伴い、エミールが語る通りに、彼の前に立つパトリシアが‘口パク’をすることで(そして立場を変えることで)イメージと音のズレを明らかにしたり、お互いの肩に頭を乗せ、視線を合わせないまま語り合ったり、バットマンと超人ハルクとスパイダーマンのイメージが描かれた壁の前でパトリシアが意味不明の言葉で物語ることで、それを観ている観客が勝手に作り出すストーリーを観客自身に考察させ、それはさらには演説が流れている最中にパトリシアが眠ってしまい何度もエミールに起こされるのであるが、正に本作を観ている観客の様子を映し出すことで、映像の受容の仕方にまで及ぶのである。
思想家こそがプロレタリアートを擁護しなければならないという使命のもとに、フロイトとマルクスの思想を頼りに「アジビラ映画」などのジャンルを提案した後にエミールは方法(メソッド)と感情(サンチモン)を合わせた造語である「メソドモン」こそが新しい映像の可能性だと結論づけるが、パトリシアは「いままでに無く、今後もありえないもの」こそが新しい映像の可能性であるとする。
ゴダールは生真面目なナレーションに努めてはいるが、それはしばしば早回しされることでテープによる録音という‘フェイク’さを絶えず観客に意識させ、長々と黒画面にナレーションを被せたり、あるいは逆に無音のまま同じ画面を映し続けたりと、画面そのものは貧相であるにも関わらず、本作には全ての映画が必ず通らなければならないアプローチが全て揃っている、おどろくべき作品である。
イギリスのBBCなどと並べられて語られるものが日本の場合、NHKではなくて「東京の松竹」であるところが面白い。
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どうやら問題とされる箇所は「一生に一度は百点を」というタイトルで、ドラえもんから
与えられた「コンピューターペンシル」を使ってのび太が難問をすらすらと解く場面らしく、
電流に関する問題をドイツ語で回答しているのであるが、問題が「交流回路で消費される
“精力”」、「“交尾”回路で消費される電力」、「負荷が“コンドームー”の時」という部分が
不適切と見做されたようである。確かにコンドームはドイツ語だから間違ってはいない
のであるが、そもそものギャグがお寒いといわざるを得ないレベルで、いたずら書きでは
あってもせめてクスリと笑わせてくれるものでなければ、ただの不適切発言と取られても
仕方が無い。しかし世の中には番組を細かくチェックしている人がいるものだ。