地獄('60)
1960年/日本
『女死刑囚の脱獄』と『地獄』の関連性
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
本作のタイトルバックに流される映像は実に奇妙なもので、妖艶な恰好をした女性たちが次々と映される中で「ようい、スタート」という監督の声が聞こえてくるのであるが、このタイトルバックは本作の内容と関係するところがなく、寧ろ前作『女死刑囚の脱獄』の方を想起させるイメージであり、『女死刑囚の脱獄』において潔白の主人公である京子をメインに撮られたことを勘案するならば、『地獄』においては対照的に罪を犯した主人公の大学生の清水四郎の成れの果てを描いたものだと言えるだろう。‘脱’から‘地’への‘獄’というイメージである。
本作の冒頭に特筆すべきシーンがある。大学の講堂の椅子に座っていた四郎が、暗転後に矢島教授の家のリビングに座っているシーンを何とワンシーン・ワンショットで撮っているのである。あまりにも自然に撮られているので気がつかれないのであるが、これはメインの地獄以上に驚くべき演出である(地獄の描写そのものは1999年公開の石井輝男監督の『地獄』の方がパンチが効いていると思う)。
結局、清水四郎と関わる人物は全員死んで地獄に行き、その中には四郎の婚約者だった矢島幸子が身ごもっていた水子も含まれており、これは『女死刑囚の脱獄』の主人公の京子の死別した子供を連想させる。
地獄の中で周回しながらさまよう人々を掻き分けて四郎は自分の赤ん坊が乗っている大車輪に乗って救おうとするのであるが、大車輪は回転するだけで四郎の手は赤ん坊に届くことはない。‘回転’はそのまま矢島幸子と谷口サチ子が持つ傘に受け継がれて本作は終わるのであるが、「輪廻」と捉えてもかまわないように思う。
最後に『女死刑囚の脱獄』のレビューで書いた時計の話をしておきたい。9時から10時直前の間に真犯人が分かり、京子の無実が実証されたのであるが、『地獄』の壁時計はどれも9時を指したままで動くことはない。四郎を初め、地獄に落ちた人々は‘苦時’を耐えなければならないのである。
豪州戦、不可解判定多い…サッカー協会が意見書(読売新聞) - goo ニュース
本当にわけの分からない判定が多かった。オーストラリアのオジェック監督でさえ、後半の
内田のファウルは、後でモニターで確認しても、そういうふうには見えなかったと語っている
くらいだから誤審は明らかだと思うが、ホームのオーストラリアのミリガンをイエローカード
2枚で退場させてしまった後、周囲を囲んでいるオーストラリア人たちの“圧”にビビってしまい
急遽内田をスケープゴートにしてオーストラリアに1点を“プレゼント”することで、試合の
終了後、襲われないように保身をはかったように見えなくもない。特に海外のフーリガンが
何をするのか素人の私などには計り知れないものがあるのだろうから。