ニーチェの馬
2011年/ハンガリー=フランス=スイス=ドイツ
30カットの奇跡
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
1889年にトリノにおけるニーチェと鞭打たれ疲弊した馬車馬の邂逅のエピソードが字幕で説明された後に、その当の馬車馬らしい馬が初老の男を辻馬車に乗せて画面の右から左に走る長回しのシーンが流れるところからただならぬ気配を感じさせる本作は、154分の上映時間の内、字幕タイトルを除くと30カットで構成されている。
長回しという撮影方法はカットを少なくすることで経費削減目的で使われる手法と見なされ、得てして画面が弛緩しがちであり、実際に長回しを多用したほとんどの作品が緩慢としたものになっているのであるが、驚くべきことに本作のカットは長回しであるにも関わらず、画面の緊張感が全く途切れることがない。新人の映画監督ならば誰もが撮りたいと思う画面をベテラン監督のタル・ベーラが引退の置き土産として撮ってしまうことが粋である。
「彼は現代では稀な徹底した形式主義者なのだ。『ニーチェの馬』(二0一一)のタル・ベーラより遥かに創造的なこの映画の形式性への執着を真摯に受けとめないかぎり、ウェス・アンダーソンの作品世界に触れることなどとてもできはしまい。」とは映画批評家の蓮實重彦氏の『ムーンライズ・キングダム』に対する時評の一部であるが(『群像』2013年3月号 映画時評51 P.344-346)、30カットで撮られた『ニーチェの馬』とそれより遥かに多いカットで撮られた『ムーンライズ・キングダム』と比較して形式性の優劣を競わせることは余りにもタル・ベーラ監督が気の毒であろう。この時評のタイトルである「この監督に撮りたいものを撮らせた合衆国の高度な文化的水準に、ちょっと嫉妬を覚えた」というように、彼らの形式に対するこだわり度合いは、「作家主義」ではなくアメリカ合衆国とハンガリーの文化的水準に帰せられるべきであろう。
何故邦題が原題の「トリノの馬」ではなくて「ニーチェの馬」なのか考えるならば、ヨーロッパにおいては「トリノの馬」だけでニーチェのエピソードが連想できる素養が共有されているからであり、そのような教養の下地がない日本においては「ニーチェの馬」という邦題は適切であり、本作に実存主義としてのニーチェの思想を見出すかどうかは観客の見方次第であろうし、まさかいないとは思うがもしも万が一「ニーチェの馬」という邦題を改悪と見なすような人がいるとするならば、ハリウッドの大作映画とは違い予算の限られたマイナーな作品をプロモーションすることの大変さを理解出来ない能天気な者に限られるであろう。
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体罰小学校教諭、校長指導後も頭突き…発覚(読売新聞) - goo ニュース
大阪市立桜宮高校の男子バスケットボール部主将だった2年の男子生徒が47歳の
男性顧問による体罰を苦に自殺したことが明らかになったばかりであるが、大阪市の
都島区の市立小の39歳の男性教諭も授業中などに、複数の児童の頭を平手やスリッパで
たたいたり、尻を蹴ったりする体罰を繰り返し、ここでは校長が教諭の体罰を把握し、その
都度、指導していたようであるが、態度を改めるどころか児童に頭突きをしていること目撃
され、寧ろ体罰をエスカレートさせている始末だった。漫才でツッコミというものがあるが、
関西人は人を叩くことにそれほど抵抗がないのかもしれない。