『週刊新潮』の「文体」が井上光晴によって作られたのであるならば、『朝日新聞』の「文体」は夏目漱石によって作られたと言っていいと思う。
『漱石と朝日新聞』(山口謠司著 朝日新書 2018.6.30)に興味深い記述があったので引用してみたい。
「明治時代、新聞の記事を書く人たちは、『ブンヤ』と呼ばれた。
ブンヤは、『新聞屋』の略であるが、文章を書いて売って生計とする『売文家』という意味である。
ブンヤは、おもしろい記事を書かなければならない。そうしないと、だれも新聞を買ってくれない。そして原稿料も入ってこない。
当時の新聞は、ただ単に事実を伝えようというより、大げさにおもしろく書いたものも少なくなかった。
明治、大正の新聞は、読んでいると、まったく飽きることがない。
『坊っちゃん』には、『新聞なんて無暗な嘘を吐くもんだ。世の中に何が一番法螺を吹くと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。』と記されている。」(p.146-p.147)
当時でも今でも新聞記者が「新聞屋」であることは変わらないのだから、逆に言うならばいつから新聞はそれほど妄信されるようになったのか不思議ではある。つまり当時の新聞の役割を今の週刊誌が担っているにすぎず、本来の居場所を失った新聞は必然的に持ち上げられているだけなのである。
夏目漱石は朝日新聞のみならず、『こゝろ』一作だけで岩波書店の礎も作っているという意味でも偉大な作家であろう。
ところが肝心の『こゝろ』に関する本作の評がよく分からない。山口は「『心』で、漱石は、小説の世界を完成させた。」(p.189)と、その「言文一致体」を絶賛しているのであるが、評価そのものは阿刀田高の『漱石を知っていますか』に任せてしまっているのである。
『こゝろ』に関しては多くの議論がなされている。例えば、語り手の「私」が先生から受け取った手紙が長すぎるというものがある。『こゝろ』は当初短編にするつもりだったのだが長編になってしまったことによる構成のバランスの悪さが指摘されるのだが、それでも書きたいという衝動が抑えきれなかったのであるならば、『こゝろ』には漱石がどうしても書きたかったテーマがあるはずであろう。しかし『こゝろ』に関しては項を改めていずれ書いてみたい。