ハロー!プロジェクトのアイドルグループであるアンジュルムの元メンバーで初代リーダーの和田彩花が2014年4月1日に刊行した本書は、西洋美術やクラシック音楽の案内書にありがちな堅苦しさがなく、「初心者」の視線をベースにした分かりやすい良書だと思う。
しかし本書に名画に紛れて挿入されている和田本人の3葉のスナップショットは東京の三菱一号館美術館で撮影されたものであるが、あまりにも芸が無さすぎると思う。せめて森村泰昌の「セルフ・ポートレート」のように取り上げた作品を自ら被写体になって「コピー」してみる試みがあってもよかったように思うのだが、予算がなかったのだろうか?
ところで和田がキュレーターとして出演し、日曜日の早朝に放送されている『キャラダチミュージアム~MoCA~』は名画と共に様々な映像が流されているが、結局一番の見所は和田本人の美しさだと思う。
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https://news.goo.ne.jp/article/dwango/entertainment/dwango-59360
筒井康隆の『着想の技術』(新潮文庫 平成元年九月二十五日)を読んでいたら驚くべきことが書かれていた。「藝術新潮」の昭和五十五年八月号に掲載された「鵞鳥番の少女(La Gardeuse d'oies)」というエッセイで筒井がこのジャン=フランソワ・ミレーの作品を購入したというのである。
「貯金はすべておろし、ロマジン(Mikhail Romadin ロシアの画家)も手離した。勿論それでも足りないから残りは月賦だが、それとて並たいていではない。出版社二社から前借りもした。払い終ったのは一年と数ヵ月後である。ぼくは数キロ痩せた。」(p.203)
ということで筒井は「鵞鳥番の少女」を応接室に飾っていたのであるが、これで話は終わらない。『笑犬樓の逆襲』(新潮文庫 平成十九年八月一日)を読んでいたら「噂の真相」の2001年8月号に掲載された「ミレー『鵞鳥番の少女』を手放した」というエッセイが書かれていたのである。断筆宣言をした上に書物が売れなくなってきて、それでも税金は払わなければならない状況に追い込まれている。
「そうこうしているうちに、以前からの生活を改める気など毛頭ないものだから、貯金が底をつきはじめた。わしは税金の支払いと収入の、バランスすれすれの綱渡りが面白くなくもなかったのだが、家人が不安に駆られ、なんとかしろと言い出した。考えてみればわしも六十六歳になる。今まで通りに仕事ができると思っているのは自分だけで、一般にはいつ急死してもおかしくない歳である。少しでも家計を楽にしておいた方がいいかもしれぬと思い、しかたなく、ついに家宝として所持していた、ミレー後期の傑作とされる『鵞鳥番の少女』を手放した。さいわい買ったときの金額とさほど変わらぬ値段で売れたのだが、これも銀行に返すべき金の半分以下に過ぎない。」(p.193)
ということで現在『鵞鳥番の少女』は東京富士美術館に所蔵されている。
原題:『Miji Rembrandt』 英題:『My Rembrandt』
監督:ウケ・ホーヘンダイク
脚本:ウケ・ホーヘンダイク
撮影:サンダー・スヌープ/グレゴール・メールマン
出演:ヤン・シックス/エルンスト・ファン・デ・ウェテリンク/トーマス・カプラン
2019年/オランダ
レンブラントという「呪縛」について
本作はドキュメンタリー映画なのだが、事後ではなく撮影中にこのようなスリリングなストーリーが展開するのは、監督が『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』(2008年)や『みんなのアムステルダム国立美術館へ』(2014年)などずっとアムステルダム国立美術館へ張り付いていた賜物なのかもしれない。
主人公はヤン・シックスという画商で、先祖はレンブラントとも親交があったパトロンのヤン・シックス一世でヤンはその末裔で、幼少の頃からレンブラントの作品に囲まれていたヤンはレンブラント作品に対する目は肥えている自信があった。
そんな時にヤンはクリスティーズ競売目録に載っている『若い紳士の肖像画(Portrait of a Young Gentleman)』がレンブラントの作品だと直感し、153000ユーロという安値で落札したのである。自分の所有物にできれば作品の真贋を検証することができるからである。その際、レンブラントを専門とする美術史家のエルンスト・ファン・デ・ウェテリンク教授に協力を求め、教授は確証が無いまま認める形になり、その研究成果をまとめてヤンは本を出版し、44年振りのレンブラントの作品の発見ということで一躍時の人となるのであるが、共同購入しようと約束した美術作品のコレクター夫妻が、画商であるヤンが夫妻や他のディーラーと共同購入するという約束を反故にしたという噂をネットで目にする。
同じ頃、フランスの富豪のロスチャイルド家が何世代にもわたり所有してきたレンブラントの2枚1組の絵画「マールテン・ソールマンとオープイェ・コピットの肖像(The Pendant Portraits of Marten Soolmans and Oopjen Coppit)」の購買をオランダのアムステルダム国立美術館が手を挙げたのだが、1憶6000万ユーロという高額だったためにフランスのルーブル美術館に共同購入を提案する。しかしレンブラントの作品が「金になる」ということを知った美術に関しては門外漢の政治家たちが2枚1組の作品がバラバラにならないようにと駆け引きした結果、ルーブル美術館が所有し、アムステルダム国立美術館に貸し出すという案でまとまるのである。
このようにレンブラントの作品に関しては、どうしても「色眼鏡」から抜けられず冷静な判断ができないのであるが、そんな2つのエピソードに挟まれているのがレンブラントの『読書する女性(Old Woman Reading)』を個人で所有しているスコットランドのバックルー公爵で、バックル―公爵はレンブラントの作品というよりも「読書する女性」が好きなのだと思う。
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原題:『Le maître est l’enfant』 英題:『Let The Child Be The Guide』
監督:アレクサンドル・ムロ
撮影:アレクサンドル・ムロ
2017年/フランス
優良な教育が成り立つ理由について
イタリアの最初の女性医師でもあるマリア・モンテッソーリが編み出した教育メソッドは本作で説明されているように子供の自立心を芽生えさせることを目的としており、いちいち最もだと感心させられ、文句のつけようがないのであるが、105分の上映時間も終わろうとする時に観客は気がつくことになる。「白人しかいない」と。
つまりこのような教育が成り立つ要因はそもそも子供たちが良家の子女たちばかりで素直な子供たちしかいないからこそであって、もしもある子供が「不良」と見なされたのならば、退学させられているのではないかと思われても仕方がないと思う。
因みにポスターに写っている「ジロー(Géraud)」君は優秀なバーテンダーになれると思う。
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原題:『Vivarium』
監督:ロルカン・フィネガン
脚本:ギャレット・シャンリー
撮影:マクレガー
出演:イモ―ジェン・プーツ/ジェシー・アイゼンバーグ/ジョナサン・アリス
2019年/ベルギー・デンマーク・アイルランド
托卵を映像化する意義について
本作の冒頭のシーンはカッコウの托卵である。托卵とは鳥が他種の鳥の巣に卵を産み、他の種類の鳥に自分の雛を育てさせる習性のことである。
この習性を本作の物語に即して考えてみるならば、主人公で便利屋のトムと彼のフィアンセで小学校の先生であるジェマが不動産屋のマーティンの案内で訪れたヨンダーの9番地の家に残されたまま出られなくなり、間もなくして「この子を育てたら解放される」というメモと共に赤ん坊が送られてくるのだが、つまりトムとジェマは「托卵」されたのである。
赤ん坊はあっという間に少年になり青年になるのだが、トムとジェマが解放される様子はなく、同時にストーリーそのものがそれ以上展開する様子もない。何故ならばトムとジェマをヨンダーに拉致し赤ん坊を育てさせている「黒幕」が現れないからである。ここまで仕組むのにかなりの費用がかかっているはずなのだが、そこまでする動機が全く不明なのである。確かにそもそも托卵をする理由もはっきりとは分かっていないようなのだが、「仮説」として何かを見せてもらわなければ本作を撮った意味が無いように思う。
ラストのオチを書いてしまうが、青年になった赤ん坊はトムとジェマの死体を9番地の家の庭に埋めた後に、マーティンが営む不動産屋へ訪れるとそこには老いて死にかけているマーティンが座っており、そのままマーティンが老衰で亡くなると青年がマーティンのネームタッグを胸に付けて来客を迎えるのである。つまり本作は托卵を人間に置き換えて映像化したのであるが、その映像の不気味さは評価できるもののストーリーに深みがないために面白みに欠けるのである。
しかしエンディングテーマにXTCの「コンプリケイテッド・ゲーム」を選んでいるセンスは買いたい。以下、和訳。
「Complicated Game」 XTC 日本語訳
僕は自分自身に問いかける
僕は左に指さすべきか
あるいは右に指さすべきか
僕がどっちに指さそうが大した問題ではない
他の誰かが同じように行動すれば
いつだって同じことになるのだから
これはほんの複雑なゲームだ
これは多少込み入ったゲームだ
少女が僕に訊ねてきた
「私は髪を左分けにするべきなの、
それとも右分けにするべきなの?」
「君が髪をどちらに分けようが大した問題ではない」と僕は言った
他の誰かが同じように行動すれば
いつだって同じことになるのだから
これはほんの複雑なゲームだ
これは多少込み入ったゲームだ
少年が僕に訊ねてきた
彼は左派に投票するべきなのか
それとも右派に投票するべきなのか
僕は君がどちらに投票しようが大した問題ではないと答える
だって他の誰かが同じように行動すれば
いつだって同じことになるのだから
これはほんの複雑なゲームだ
これは多少込み入ったゲームだ
着飾らせてショーに出演させるために
誰もが「トム」や「ジョー」を欲しがった
2人とも悪質な目的のための「鉄砲玉」だった
これは多少込み入ったゲームだ
神が僕に訊ねてきた
彼は世界を左に動かすべきなのか
それとも右に動かすべきなのか
僕はあなたが世界をどこへ動かそうと大した問題ではないと言った
他の誰かが同じように行動すれば
いつだって同じことになるのだから
これは多少込み入ったゲームだ
これはほんの複雑なゲームだ
これは多少込み入ったゲームだ
これはほんの複雑なゲームだ
これは多少込み入ったゲームだ
Vivarium XTC - Complicated Game
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原題:『Stage Mother』
監督:トム・フィッツジェラルド
脚本:ブラッド・ヘンニク
撮影:トーマス・M・ハーティング
出演:ジャッキー・ウィ―ヴァー/ルーシー・リュ―/エイドリアン・グレニア/マイアー・テイラー
2020年/カナダ
「口パク」から「生歌」という「本物の変換」について
「ステージ・マザー」というタイトルだが、主人公のメイベリン・メトカーフが息子のリッキーが経営するゲイバーに関してマネージャーのように献身するのはリッキーの死後である。教会のコーラス隊のリーダーを務めるほど敬虔なキリスト教徒でありテキサス州という保守的な地域では息子といえども同性愛者であることを受け入れることができず、その後実家を出てサンフランシスコで生活していたリッキーとは音信不通のままで後悔したメイベリンはせめてリッキーがオーナーだったゲイバーを再建しようと奮闘するのである。
田舎から出てきたメイベリンはサンフランシスコでは見るもの聞くものすべて刺激的なのであるが、同居しているシングルマザーのシエナが自宅に連れ込んだ男に暴力を振るわれている場面で鞄から拳銃を取り出して男を追い払うところはさすが「テキサス女」といったところか。
ストーリーは平凡の域を出ないが、口パクだったドラァグクイーンたちに生で歌わせ、最後に共演で披露される「愛のかげり(Total Eclipse of The Heart)」は感動的ではある。
Bonnie Tyler - Total Eclipse of the Heart [Top Of The Pops 1984]
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原題:『NO CALL NO LIFE』
監督:井樫彩
脚本:井樫彩
撮影:早坂伸
出演:優希美青/井上祐貴/犬飼貴丈/小西桜子/山田愛奈/駒木根葵汰/諏訪太朗/桜井ユキ
2021年/日本
興行面で惨敗を強いられる傑作について
最初に主人公の佐倉有海が見知らぬ番号の電話で対応したのは同級生で子供の時の春日真洋である。子供の真洋は有海に自分が実の母親の連れてきた男に暴力を受けていることを告げ、有海は同居しているいとこの航佑と電話の発信元に向かいアパートの一室にたどり着くものの、そこは空き部屋になっていた。
話は一気に飛ぶが、後半になって有海は幼い頃の自分と電話で話すことができるのだが、その時、自分が父親に性的虐待を受けていたことを思い出し、自分と真洋が同じ境遇だったことに気が付くのである。
そもそも2人の仲を取り持ったのは航佑で、先輩である航佑は後輩の真洋と距離を取るようになり、有海の友人である日野由希奈が航佑の恋人になったために必然的に2人の距離は縮まるのであるが、既に前半で花火を巡り有海の不手際で真洋が右手を火傷し、後半で、真洋が持っていたナイフで有海は左頬に軽い傷を負い、右手を負傷している。つまりここで「同類」により傷つけあう対照性が示されるのである。
ここで注目されるのが井樫彩監督の演出方法で、映し出す対象物を小津安二郎ばりに必ず画面の中央に置いており、このこだわりこそ映画の醍醐味のはずで、もはやストーリーなど関係なく映像だけを目で追うだけで「映画」を十分に堪能できるのだが、一見すると同じように見える『花束みたいな恋をした』(土井裕泰監督 2021年)や『ライアー×ライアー』(耶雲哉治監督 2021年)のような「反映画」に対して興行面では足元にも及ばないのである。
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原題:『今は、進め。』
監督:矢口鉄太郎
撮影:柴田晃宏/中邑圭汰/中井敦
出演:涼邑芹/森下舞桜/木下友里
2020年/日本
アイドルグループのファンの期待の仕方について
アイドルグループ「仮面女子」に関しては猪狩ともかくらいしか知らないし、「仮面女子」の出世頭といえば桜雪こと橋本侑樹くらいだから本作もファン以外に観られることはないと思うのだが、だからこそ疑問に感じた演出を指摘しておきたい。
本作は新ユニット「kiraboshi(きらぼし)」のプロジェクトが2020年8月14日から始まってから新曲「星の降る夜」を披露するまでの活動が記録されているのだが、最初のパフォーマンスは不本意に終わったものの、2度目のパフォーマンスは上手く行ったようで、フルサイズで流れるのだが、どうもこのパフォーマンスが生歌のように聞こえなかったのである。これがライブでは生歌だったが、そのパフォーマンスが酷かったために映像では録音したものに差し替えたのであるならば、それはこの作品を観ているファンに対して誠実な対応と言えるのだろうか?
何度も言うが本作はファンしか観ないのだから、ありのままを見せるべきで彼女たちのパフォーマンスが下手であったとしても誰も文句は言わないと思うのである。
同時上映の『忘れられた神様』(矢口鉄太郎監督 2020年)という短編は今どきの作品とは思えないほど画像の粗さしか思い出せない。
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Françoise Hardy "Il n'y a pas d'amour heureux" de Georges Brassens (live officiel) | Archive INA
『幸せな愛などない』はフランスの詩人であるルイ・アラゴンが1943年1月に書き
翌年に出版した詩集『フランスの起床ラッパ(La Diane française)』に収録された後、
1953年にフランスの歌手のジョルジュ・ブラッサンス(Georges Brassens)によって
メロディーが加えられ、その後多少歌詞を変えながら様々な歌手によってカヴァーされるに
至った。ここではフランソワーズ・アルディー(Françoise Hardy)のヴァージョンを
和訳してみる。
「Il n'y a pas d'amour heureux」 Françoise Hardy 日本語訳
人間が獲得し得たものなどなにもない
自分の強さも弱さも心でさえ
自分では両腕を広げたはずなのに
その影はまるで十字架のようで
自分では幸せを掴まえたかったのに
潰してしまうのである
人生とは奇妙なもので無惨に引き裂かれている
幸せな愛などない
人生とは武器を持たない兵士たちに似ている
本来とは違う運命のために彼らは制服を着せられていた
朝に起床することが何の役に立つというの?
夜になると武装解除され立場があやふやになるというのに
我が人生よ
この言葉を唱えて涙を堪えよう
「幸せな愛などない」と
我が美しき愛、我が大切な愛、我が裂傷よ
私はあなたを傷ついた鳥のように胸に抱く
私が編み出した言葉を私の後に復唱しながら
気付かずに彼らは私たちが通りすぎるのを眺めていて
あなたの大きな目に見つめられた途端に死んでしまう
幸せな愛などない
生きることを学ぶには
時既に遅きに失し
戦慄を押し付けられるために後悔しなければならず
くだらない歌のために不幸にならなければならず
フォークソングのために嗚咽しなければならず
だから夜になると私たちの心は一斉に泣く
幸せな愛などないのだから
しかし元々はフランスの詩人のフランシス・ジャム(Francis Jammes)の、「木の葉をまとった教会
(L'Église habillée de feuilles)」という詩に「祈り(La Prière)」というタイトルを付けていた曲に
アラゴンの詩も上手く当てはまったということで作られたという経緯がある。和訳はしないけど、
「祈り」から「幸せな愛などない」という振り幅が凄いと思う。何があった?
Georges Brassens - La prière
原題:『Forbidden Planet』
監督:フレッド・M・ウィルコックス
脚本:シリル・ヒューム
撮影:ジョージ・J・フォルシー
出演:ウォルター・ピジョン/アン・フランシス/レスリー・ニールセン/ウォーレン・スティーヴンス
1956年/アメリカ
叛乱する機械に必要な知性について
人類に対する「機械」による叛乱は『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督 1968年)の「人工知能HAL(ハル)」以前に既に本作で描かれている。
本作の舞台となるアルタイ第4惑星にはかつてクレール人と呼ばれる先住民がいたものの、突然滅亡した原因は、彼らの高すぎる知性が彼らの潜在意識を現実化してしまい、お互いの憎しみが殺し合うことになったのである。
20年前に地球から移住してきた地球人たちがエドワード・モービアス博士と娘のアルティラを残して絶滅した原因もエドワードの突出したIQの高さによりクレール人と同じことが起こったからである。
『ウエストワールド』(マイケル・クライトン監督 1973年)に足りないものとはこのような「機械の動機」であり、動機とは得てして高度な知性の暴走にある。それでもアンドロイドのユル・ブリンナーには狂気を感じるものの、作品全体の印象がバグレベルを超えていないと思う。