寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市花園町2丁目のJA内に残された歴史的建造物(その3)

2013年01月19日 | 郷土史
戦後復興を遂げた福山市の地図(塔文社発行)から現農協周辺を拡大した。昭和5年発行の地図では衛戍病院だったのが、国立病院と名称が変わっている。

塔文社発行の福山市地図(昭和30年代)

地図に発行年月が記入されていないのが残念だが、町名変更前であることから昭和30年代のものであることは確かだ。自家用車が普及する前の地図は貴重でオークションでもかなりの値がつく。確か売価40円の100倍で購入したと思う。

福山陸軍病院国立福山病院発祥の地碑(表)

歩兵第四十一聯隊跡の石碑からほど近くに福山陸軍病院国立福山病院発祥の地碑があり裏面には次のような文章が記されている。

趣意書
 この敷地は明治四一年四月一日、福山衛戍院が創設された場所…昭和一二年四月福山陸軍病院と名称が変り…
 昭和二〇年八月八日、福山市が空襲を受け旧市内の大半が焼け病院もその大半を失い…終戦…多くの傷病兵と海外から引き上げた患者の治療看護の為引き続き陸軍病院として存続…
 昭和二〇年一二月一日、陸軍病院は約四〇年の歴史を閉じ…同時より厚生省の所管となり一般に開放され国立病院として再出発…
 …昭和三十年ごろには名実ともに福山地方唯一の総合病院として当地域の多大な信頼を得るに至り…
 福山市の人口の増加と都市規模の拡大に伴い病院も拡充に迫られ、昭和四一年七月沖野上町に移転…
 今この地にはその当時のものとして楠の大樹と石の門柱のみが残っています。

碑文が見える側の道路は戦前に整備されたもので、聖園幼稚園(昭和町)・南小学校(明治町)前から南東方向に延び歩兵第四十一聯隊(=営所)に至っていた。

福山陸軍病院国立福山病院発祥の地碑(裏)

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昭和62年度の大学入学者共通第1次学力試験

2013年01月19日 | 学生時代
昭和62年(1987)度の共通1次試験は1月24日(土)と25日(日)に行われている。私は春日町の広大附属福山中・高等学校で受験した。垢汚染危険地域を脱出するためには絶対に突破しなければならない関門であった。

反日キョクサ恫喝団体が露骨に教育に介入してくる異常な高校を離れて名門校の教室に入ることには多少の解放感があったはずだが、鉛筆でマークシートを塗り潰す作業に追われた記憶しかない。2日目は小雪が舞ったので特別に教室内で休憩することを許された。

試験が終わって悪友と東深津町の中華料理屋でラーメンを食って帰宅が遅くなった。母親は試験の出来が悪かったものと早とちりしたようだが、実際はボチボチといったところだった。確かに2次試験でヘマはできない点数だった。

しかし、私は「LED ZEPPELIN」のカセットテープばかり聴いて2次試験の前日まで参考書を開かなかった。命をつなぐ出国ビザが下りたのは3月18日。屑高校と絶縁できた喜びを噛み締めると共に今後も「恫喝には絶対に屈しない」と誓った。私はこうして備後から安芸へ移住したのである。

昭和62年の大学入学者共通第1次学力試験受験票(裏面)

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