寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

歩兵第四十一聯隊練兵場跡地(福山市の天満屋ハピータウンみどり町店)

2013年01月23日 | 郷土史
緑町公園前(歩兵第四十一聯隊兵營跡)から天満屋ハピータウンみどり町店(練兵場跡)を望む。練兵場とは兵士を鍛える場という意味である。

昭和20年(1945)8月8日、米軍の爆撃で福山市街のほとんどが焼き払われた。軍関係施設を目標にしたというのはあくまでも建前で実質は無差別爆撃であった。

兵舎炎上す
中川多計士
当時 船舶砲兵第一連隊連隊長

 当時福山には、船舶砲兵第一連隊(連隊長中川多計士)船舶機関砲連隊(連隊長岩見小四郎)の両部隊が駐屯していました。小生の部隊は旧兵営に、機関砲連隊はその両側で三菱の工場跡にいました。
 空襲当日の夕刻、空襲警報発令があったので、部隊は警戒配置につき、小生は営庭中央に設けられた戦闘指令所にいました。
 暗くなって約一時間程経過した頃、東南方海岸方向より敵機の爆音がきこえ、暫くすると爆音は福山市の上空にさしかかりました。空を仰ぐと機体は暗くて見えないが、遥かに上空に転々と尖光の点滅するのが見え愈々福山市を空襲する気配を感じました。
 やがて芦田川西方の地区をはじめ、福山市の北方や東方の地区に照明弾や焼夷弾が落とされ、山々は無数の火の玉をばらまいたように光り、急に明るくなりました。敵機はこのあかりにより、市街地の位置を確認した模様で、次には市街地めがけて一斉に無数に焼夷弾を落とし、市内は一瞬にして火の海と化しました。
 兵営にも同時に多くの焼夷弾が落下しました。小型焼夷弾は消すことが出来ますが、大型焼夷弾が落下すると破裂と同時に内部の多量の油脂が周囲に離散し一瞬にして附近が火焰に包まれ家の柱や板壁などが同時に燃え出すので手のつけようがありません。
 当時の兵営は木造故兵営内でも五、六ヶ所から同時に火の手があがり、全員が消火につとめましたが、火勢が強く風が生じ延焼の危険を感じましたの、其の後兵員は専ら延焼を防ぐのに全力を尽くしました。
 当時、営庭には大型の池を掘り、防火用水を貯えていましたので、数十名の兵員が二列に並び、バケツリレーで炎上する建物に接した兵舎に散水して延焼を防ぎ、大部分の兵舎を守ることができました。

『福山空襲の記録(昭和五十年)』

福山空襲焼失家屋地図より沖野上町の軍用地周辺を拡大

中川多計士さんの証言の通り福山空襲焼失家屋地図からは陸軍病院、兵營、旧練兵場にかなり焼夷弾が落ちたことがわかる。敗戦から10数年で市内は劇的に復興を遂げた。壊滅した新町遊廓も昭和25年の段階で完全に赤線として復活していたという。再び昭和30年代の地図で兵營及び旧練兵場の跡をご覧に入れよう。

昭和30年代の福山市地図より現在の緑町周辺を拡大

勘が鋭い人は中国紡織の跡に天満屋ハピータウンみどり町店が出来たことにすぐに気付かれたと思う。ここは広い駐車場完備のスーパーの先駆けといった感じで入船町のポートプラザが完成する前は私も時々買い物に来ていた。

福山市の天満屋ハピータウンみどり町店

追記(2014.5.26)
昭和56年開業の天満屋ハピータウンみどり町店は平成26年5月25日(日)の営業を最後に閉店。

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3月に開催されるふくやまマラソン 

2013年01月23日 | 日記
竹ヶ端(たけがはな)運動公園陸上競技場をスタートして芦田川沿いを走るふくやまマラソン。今年で目出度く32回目を迎える。私も若い頃に何度か参加してTシャツを貰った。当時は寒い時期に行われていたが、日程が3月に変更となりコースも増えたのはいいことだ。

タイムにこだわる、景色をのんびりと眺めたい、家族とのふれあいを大切にしたい、など様々な参加目的があるだろうが、しっかり楽しんで欲しい。マラソン大会は中核市(広島県第二の市)の重要なイベントの一つである。

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