寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

歩兵第四十一聯隊練兵場跡地(三菱電機福山製作所) 

2013年01月24日 | 郷土史
平成20年代の市街地図(ポレスター緑町公園の広告)より兵営・練兵場跡地を拡大してみた。サンピア跡に複合商業施設のココローズ(エブリイ・ユーホー・ミスタードーナツなどがある)がオープンしたのは先に述べた通りだ。

沖野上町の練兵場が戦前深津高地に移転し、その後三菱電機ができた経緯は『風雪に耐えて』に詳しく書かれている。

東深津高地軍用地となる
 昭和十五年当時、東深津町(現在の暁の星学園のあたりの丘陵地)に陸軍作業場があって、陣地が構築され、交通壕が四方にのびていて、周囲に陸軍用地の石柱(一〇センチメートル角)があった。
その作業場を演習用地として大拡張することとなった。東深津町一帯の田五〇、〇〇〇坪、畑七〇、〇〇〇坪合計一二〇、〇〇〇坪(約三九・六ヘクタール)を市が買収し(買収価格三九〇、〇〇〇円)陸軍用地として提供することとなった。
その代り練兵場(現在の三菱電機工場のところ)三九、〇〇〇坪(一二・九ヘクタール)と現金七〇、〇〇〇円を市がもらうこととなり、昭和十五年十一月六日の市議会で全会一致で決定されている。
一二〇、〇〇〇坪の用地買収は大事業であるが、当時は国家のためという意識と軍の命令ということで、だれも異議をさしはさむ者もなく、第一回目の地主の会合で趣旨を説明し、第二回目の会合では買収契約書に調印し即日代金の支払が行われ、いとも簡単に買収が行われている。
市が代替地として軍からもらった練兵場三九、〇〇〇坪は、売却して換金しないと財政的に破たんを来す状況であったが、たまたま、寺田銀助氏(北海道旭川で成功財をなす)の好意により、昭和十六年七月同氏に売却して事なきを得た。
この土地は後三菱電機の用地となり、東深津の陸軍用地は、戦後一部は地主に返還され、一部は住宅団地となっている。
市議会会議録 瀧宮脩市氏談 上田政雄氏談(当時の買収担当者) 

『風雪に耐えて(福山市制六十周年記念誌 昭和五十二年三月三十日発行)』

福山市緑町の三菱電機株式会社福山製作所

さて三菱電機(第三工場・沖野上町・昭和20年当時)の空襲被害はどうだったのだろうか。現場で働いていた女性が克明な証言を残しているので、その一部を掲載しておく。

無惨の死者達(聞き書き)
宇井みや子
当時 三菱電機勤務 二十九才

 あの頃、私は霞町へ住み、三菱第三工場…へ勤務し爆弾投下器のスイッチをつくっていました。父母と私の三人住まいです。
 八月八日の晩、私は警戒警報が鳴るや、父母に瀬戸へ避難するよう告げ、直ちに会社へかけつけました。会社の門をくぐり、壕へ入って出勤の名前をかき、表へ出ると、すぐゴーという爆音が聞こえ、黒い機体のB29が、編隊をくんで、川口方面から次々とやってきました。それは実に見事なもので、私たちは防空壕にも入らず、バケツをもったまましばしみとれているほどでした。
 やがて、どっちを見ても、真黒いなんともいえないものが落ち、それが中間ぐらいでパッと散り、同時に、ヒラヒラと木の葉のようにゆれながら落ちたと思うのもつかの間、焼夷弾がまるで花火のようにシュー、シューとあちこちに投下されました。
 三菱へは、まず表門に三発落ち、たちまち青白い炎をあげたものの、すぐさま、守衛さんが消し止めました。その頃、現場では、担当区域をきめて護りについていましたが、私の担当区域の棟では、友長伍長さんの机の上に、焼夷弾が屋根を突きやぶって落ちました。しかし、何分にも周囲は全部金属類で、燃える物がなく助かったのです。
 間もなく、隣の兵舎が燃えはじめ、豚や、山羊や、鶏などのかな切り声がしきりに聞こえていました。燃える兵舎にはかまわず、高射砲で応戦していたものか青い火・赤い火がピイピイと飛んでいき、確かにあたったように見えるのですが、B29はいぜんとして編隊をくずさずに、来襲した方向へ、ゆうゆうとひきあげていきました。
 やれゝようやくおさまったと思いながら北方を見ると、お城が真赤になって燃え上がっているのです。すぐ、私たちの監督の清瀬中尉に知らせました。天守閣が、お城の姿そのままの格好で、紅蓮の炎につつまれながら、天をもこがすが如く燃え上がり同時に、火の粉が落花の如く舞い降りてくるのです。もう二人とも、ただしばしぼうぜんとみとれているだけでした。やがて、遂にむなしくくずれ落ちるときには、ドォーという轟然たる地響きを感じました。その状況たるや、とうてい、筆舌につくせぬ有様でした。

 …翌日からしばらくの間、瀬戸から通勤しました。その通勤の往復の二~三日の間に、兵営などから工業学校の救護所へ、大八車などで手当を受けにいく人をいろゝみかけました。
 …結局、三菱第一工場(現・天満屋)、三菱第二工場(郵便局、本局付近)及び社宅(紅葉町付近)はまる焼けとなり、工員さんもなくなられた人があるよう聞いていますが、第三工場は無事だったのです。このため、戦後しばらくは、工場の焼け跡の跡片づけと復興に努力しました。なお、第三工場付近には兵舎の訓練場があり、これは、船舶機関砲連隊がいたようです。

『福山空襲の記録(昭和五十年)』

敗戦から既に67年が過ぎ、街の様子は一変したかのように見える。しかし、現存する物だけで街を判断し文化について語るのは危険かつ傲慢である。過去と現在をつなぐ出来事(真の歴史)を独力で丹念に調べ上げることで街の輪郭はよりはっきりする。郷土史研究とは本来(個人的な感情を極力抑えて)現実を直視するものだと私は思う。一部の特定の人間が負の歴史として意図的に隠蔽することを続ければ「福山には何もない」と恥ずかしげもなく語る輩が増えるだけだ。無知・無関心はある意味罪と言える。

福山市緑町の航空写真

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先送りはやはりダメ

2013年01月24日 | 日記
去年の秋にアンチウイルスソフトを最新版にするつもりだったが、ズルズルと先送りを続けた結果年が明けてしまった。

PCへの負荷を軽減するための「最善策」と判断して漸くヴァージョンアップさせた。すると昨日までの調子が嘘のように改善した。別に煩わしい作業であるわけでもなく早く済ませておけばよかったのである。

「今日できることを明日に回すな」と中学の恩師が話していたことを思い出し大いに反省した。

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