寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

どうなる?日本人の“食”

2006年12月03日 | 日記
サンデー・ジャポンで飽食の陰に隠れた食材自給率の低さを報じていた。インタビューでは教養のありそうな50前後の婦人が「(日本人は)足るを知るってことばを忘れている」と自嘲気味に語っていた。耳の痛い話だ、と思った。

番組は次に“もしも輸入がなくなったら…”というテーマに移り、小麦粉・大豆が不足するとめん類・味噌汁も頻繁には口にできなくなくなると予想していた。私は飢えを知らぬ世代であるが、「物を粗末にするな」と祖父から口酸っぱく教えられたものだ。

‥いま、意見は「言う」、「述べる」、「主張する」ものであって、「する」ものではない。言う意見とする意見とでは「意見」そのものの意味するところもかなりちがうが、前者は、ということは、いま一般にいう意見は、多分に公言の色を帯びて言い、後者は特定の個人、相手に対してするという大きなちがいがある。いまの、言う意見はオピニオンである。たった一人の思うところにすぎなくても、それは尊重されている。むかしの、する意見はオピニオンにはちがいないが、ほとんど相手への訓し、戒め、忠告だ‥明治以降、次第にオピニオンが自由になってもなおしばらく、意見は言うものより、するものだった。戦後、アメリカ流の自由と民主主義が移植されるに至って意見は急速にするものではなくなった。年長者や経験者がそれだけの理由で重んじられる世の中でもなくなったから、その傾向に拍車がかかった。少し、それが行き過ぎた観もある。自信あるおとなはもっと意見を「する」べきである‥

これは京須偕充さん(1942年東京神田生まれ)の『とっておきの東京ことば(文春新書)』からの一節である。まともなことを言う人はまだいる。この本が売れている理由はいろいろあると思う(笑)。

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『死顔』吉村昭

2006年12月02日 | 書籍

2006年11月20日発行、新潮社、定価1,300円(税別)

吉村昭さんの遺作短篇集を読了。『二人』『死顔』には、人の死(自然死の場合)は干潮時に訪れる、と書かれてある。私はこの疑問を母にぶつけた。

「そうなの?」
「本当よ。海辺の近くで暮らす人達は経験的に知っとったんじゃね。で、子どもが産まれるのは満潮の時。潮の満ち具合で子どもの未来を予測した、早死にするとか・・・」

非科学的なことを書くと笑われるかもしれないが、この世の中には科学で説明のつかないことが多々ある。科学の限界という虚しさを一番よく知っているのは研究者自身だろう。

つまらぬことを考えている最中にも着実に死に向かって歩いている。死を目前にした時に私は冷静でいられるだろうか。答えは出なかった。

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弾けんばかりの白子 

2006年12月01日 | 食材

無言で白子を食べていると隣から「共食いね」と突っ込みが入った。それほどの好物だ。

タラ、フグ、鯛のそれは文句なしに美味である。冬場は白子ポンを肴に日本酒を飲むのを最高の楽しみにしている。

白子は薄い塩水で洗ってさっと湯通しして冷水にとる。水気をペーパータオルで吸い取り自家製ポン酢をかける。なめらかな舌触りと濃厚な甘味に頬がゆるみっ放しだ。

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