御陀仏解散に打って出た「アクセル全開が口癖」の与党代表が今や葬儀委員長を務めている。嘘吐きの最期とはいつの時代も憐れなものだ。久し振りに先の総選挙後に書いた文章を読み返してみた。自分の目に「ほぼ」狂いは無かったが、3年もの長きに亘って無政府状態が続くとは思ってもみなかった。無慈悲にも遠方で見捨てられた、あまたの同胞はこの記念すべき日を祝うことができなかった。私はまことに気の毒な彼らを供養するために一心不乱に念仏を唱えた。
「コンプレックスの塊り(真正の売国奴)を国政に送り出してはならない」ことを学んだ人々が「よりマシな時代」に戻ろうとするのはごく自然な流れだ。己の失敗を反省することなく他人の批判を続けてきた輩がついに獄門にかけられる。もうじき誕生する保守政権には真っ先に被災地で苦しむ民の救済にあたり隠蔽された事実を可能な限り公開して欲しい。国の大掃除(垢取り)は民も手伝えるのだから。
「コンプレックスの塊り(真正の売国奴)を国政に送り出してはならない」ことを学んだ人々が「よりマシな時代」に戻ろうとするのはごく自然な流れだ。己の失敗を反省することなく他人の批判を続けてきた輩がついに獄門にかけられる。もうじき誕生する保守政権には真っ先に被災地で苦しむ民の救済にあたり隠蔽された事実を可能な限り公開して欲しい。国の大掃除(垢取り)は民も手伝えるのだから。
今から数年前に専故寺絡みの石造物が深津高地にあることを私は長尾寺(ちょうびじ)の住職から聞いた。文化年間に三吉村に移り境内に首塚が祀られていたこと、福山空襲で寺が焼け落ち再興されなかったこと、残った石塔が深津高地に戻されたことを知る人は殆どいない。なぜなら郷土史研究家がタブーとしてあえて言及を避けてきたからである。
私は歴史書を読み解くのと同時に複数の人間から聞き取りを行った。そして元々寺があった場所は現西深津町(蓮池川より東方)であることを悟った。
攝手(取)山、專故寺 淨土宗、智恩院末寺
開基、專故和尚。延寳、天和の比迄は小地の庵にして地中に火葬屋ありし町人の火葬塲なりとぞ。洞林寺湛譽和尚の時、水野勝種君の御母堂、月悤院の願ひによりて寺となりしとなり。其先庵もなき中は斬罪塲なりしを、斬罪塲を榎木嶝へ移し、其跡に小庵を營みしと云。
『西備名區』
淨土宗 攝手山 普益院 專故寺 京都智恩院末寺
開山 順譽上人、專故和尚
無縁常念仏の寺なり。當時火屋の所は斬罪塲にて、今本尊のおはします須彌壇の下ハ千人壺といひて死罪のものゝ骸、倒れもの、乞食なとの死しけるを捨る所なり。斬罪塲千人壺ともに榎木峠へ替られて後、專故和尚、庵を結て念佛を行せられけるか、專故和尚遷化のゝち、延寳、天和の比、口稱坊と云もの隔屋念佛を修行し、福山洞林寺世湛譽上人を中興開山とす。其比水野勝種公の御實母、月窓院殿。御祖母、清春院。洞林寺の檀那にておはしけるゆへ、勝種公の御聞に達し、程なく寺となりぬ。其以前ハ專故庵といひける故、寳永、正德の比迄も深津の庵といひけるなり。
『備陽六郡志』
福山藩の御仕置場跡地は私が調査しただけでも5,6ヶ所あるのだが、それらに共通する点は主要な街道沿い(または近く)に設置されていたということだ。罪人の亡骸を領民や通行人に見せること(獄門台)は犯罪の抑止力になったと思われる。
卒塔婆と光明真言曼荼羅碑(地図の赤い丸)の先(北側)で道は蛸の足のように放射状に広がる。水色の矢印の方向へ進み坂を下り始めると民家の前に小さな祠(地図の橙色の丸)が見える。
祠の中に祀られているのはお地蔵さんではなく仏頭だ。角さんのポーズをして佇んでいると坂下から眼光の鋭い老婆が現れた。気まずい状態を解消しなければ、と思い口を開いた。
「この仏頭は一体何なんですか」
婆さんは「道路を整備した時に土の中から出てきたのをこうして祀っとる」と言った。「専故寺絡みですな」と返したくなるのを堪えてただ頷いておいた。長居は無用と判断して祠から離れたが、途中で振り返ると老婆はイタチのように消え失せていた。
私は歴史書を読み解くのと同時に複数の人間から聞き取りを行った。そして元々寺があった場所は現西深津町(蓮池川より東方)であることを悟った。
攝手(取)山、專故寺 淨土宗、智恩院末寺
開基、專故和尚。延寳、天和の比迄は小地の庵にして地中に火葬屋ありし町人の火葬塲なりとぞ。洞林寺湛譽和尚の時、水野勝種君の御母堂、月悤院の願ひによりて寺となりしとなり。其先庵もなき中は斬罪塲なりしを、斬罪塲を榎木嶝へ移し、其跡に小庵を營みしと云。
『西備名區』
淨土宗 攝手山 普益院 專故寺 京都智恩院末寺
開山 順譽上人、專故和尚
無縁常念仏の寺なり。當時火屋の所は斬罪塲にて、今本尊のおはします須彌壇の下ハ千人壺といひて死罪のものゝ骸、倒れもの、乞食なとの死しけるを捨る所なり。斬罪塲千人壺ともに榎木峠へ替られて後、專故和尚、庵を結て念佛を行せられけるか、專故和尚遷化のゝち、延寳、天和の比、口稱坊と云もの隔屋念佛を修行し、福山洞林寺世湛譽上人を中興開山とす。其比水野勝種公の御實母、月窓院殿。御祖母、清春院。洞林寺の檀那にておはしけるゆへ、勝種公の御聞に達し、程なく寺となりぬ。其以前ハ專故庵といひける故、寳永、正德の比迄も深津の庵といひけるなり。
『備陽六郡志』
福山藩の御仕置場跡地は私が調査しただけでも5,6ヶ所あるのだが、それらに共通する点は主要な街道沿い(または近く)に設置されていたということだ。罪人の亡骸を領民や通行人に見せること(獄門台)は犯罪の抑止力になったと思われる。
卒塔婆と光明真言曼荼羅碑(地図の赤い丸)の先(北側)で道は蛸の足のように放射状に広がる。水色の矢印の方向へ進み坂を下り始めると民家の前に小さな祠(地図の橙色の丸)が見える。
祠の中に祀られているのはお地蔵さんではなく仏頭だ。角さんのポーズをして佇んでいると坂下から眼光の鋭い老婆が現れた。気まずい状態を解消しなければ、と思い口を開いた。
「この仏頭は一体何なんですか」
婆さんは「道路を整備した時に土の中から出てきたのをこうして祀っとる」と言った。「専故寺絡みですな」と返したくなるのを堪えてただ頷いておいた。長居は無用と判断して祠から離れたが、途中で振り返ると老婆はイタチのように消え失せていた。
JR福山駅南口からほど近くにある三之丸町、昔は賑やかな界隈だった。私が小学校に通っていた頃、オオクボ(表記は自信がない)という精肉チェーンが市内にたくさんあり、安さゆえに庶民に人気があった。その跡地は現在「田吾(同町2-6)」となっている。
またミスタードーナツ(それより前はドムドムだったか?)があった場所は「お食事処さち(同町3-8)」に変わった。久しぶりに裏通りを歩いて店舗の入れ替わりが激しいことを知る。
サーパスシティ福山駅前(同町8-7)はダイエー福山店西館を取り壊して建てられたが、東館の方は一時期フタバ図書として利用されるなどしぶとく生き残っている。私は東西両館を4階で結んでいた渡り廊下のことを時々思い出す。昭和40年代後半から50年代初頭にかけてダイエーは向かう所敵無しだった。大晦日の芋の子を洗うような賑わい(当時スーパーはどこも元旦は休みだった)は今や伝説となった。
またミスタードーナツ(それより前はドムドムだったか?)があった場所は「お食事処さち(同町3-8)」に変わった。久しぶりに裏通りを歩いて店舗の入れ替わりが激しいことを知る。
サーパスシティ福山駅前(同町8-7)はダイエー福山店西館を取り壊して建てられたが、東館の方は一時期フタバ図書として利用されるなどしぶとく生き残っている。私は東西両館を4階で結んでいた渡り廊下のことを時々思い出す。昭和40年代後半から50年代初頭にかけてダイエーは向かう所敵無しだった。大晦日の芋の子を洗うような賑わい(当時スーパーはどこも元旦は休みだった)は今や伝説となった。
深津高地に到着した私は道なりに北北西に進んだ。畑の先には大山共用墓地が広がる。墓地の住所は東深津町6丁目1で西深津町3丁目と接している。
西深津町という区分が出来たのは昭和の後期で、それ以前は東深津町の一部であった。だから町名変更となるまでの東深津町は非常に広かったのだ。
戦前深津高地は福山陸軍練兵場になっており、敗戦後まもなくして私立の女子中学校、および高校が建設された。その後宅地造成が着々と行われ巨大な市営住宅群が完成したのである。大山共用墓地の北部と西部が軍用地だったことを知る者は年々少なくなっている。
参考までに戦前の深津高地の地図(※黄色い線が辻の坂)を載せておく。現墓地の下(南側の農地)辺りに隔離病舎(避病院)があったことが分かる。おそらく火葬場も近くにあったものと考えられる。
私は墓地の北端で足を止め草むらに埋没しそうになっている石造物に目を向けた。卒塔婆と光明真言曼荼羅碑は廃寺となった専故寺のものである。
西深津町という区分が出来たのは昭和の後期で、それ以前は東深津町の一部であった。だから町名変更となるまでの東深津町は非常に広かったのだ。
戦前深津高地は福山陸軍練兵場になっており、敗戦後まもなくして私立の女子中学校、および高校が建設された。その後宅地造成が着々と行われ巨大な市営住宅群が完成したのである。大山共用墓地の北部と西部が軍用地だったことを知る者は年々少なくなっている。
参考までに戦前の深津高地の地図(※黄色い線が辻の坂)を載せておく。現墓地の下(南側の農地)辺りに隔離病舎(避病院)があったことが分かる。おそらく火葬場も近くにあったものと考えられる。
私は墓地の北端で足を止め草むらに埋没しそうになっている石造物に目を向けた。卒塔婆と光明真言曼荼羅碑は廃寺となった専故寺のものである。
丁字路交差点から辻の坂を望む。右側(東)の大きな建物がアイムス福山壱番館(東深津町6丁目10‐30)である。私が立つ位置からは山を人力で削り緩やかな坂に変えたことがはっきりと確認できる。「昔辻の坂はバス通りで大型車とかち合った時には冷や汗が出たわ」と母は昭和30年代後半頃の話をしてくれた。当時はもっと道幅が狭かったという。
辻の坂
明治のおわりごろまでの辻の坂は、急勾配の上、幅は大八車がやっと通れるほどのせまさで、曲折もあり、ここを通る人々は困っていた。夜道をとおると「おいはぎ」がでるといううわさもたっていたほどである。
旧山陽線の踏切附近からすぐ坂道となり、頂上にある金比羅さんの横をとおって深津保育所前の曲部へおりていた。深安郡福山町の人村田虎吉は通行人の苦しみをみるにつけこの峠をほりさげて平たくしようと考えていた。ちょうどそのころ福山城の東堀端をうめて両備鉄道の駅舎にするという話がもちあがっていた。
明治維新以降、城はあれ放題で堀の南部分は明治二十年すぎに埋められ、山陽本線が二十四年九月から営業をはじめていたが、明治四十四年八月福山・府中間の軽便鉄道敷設免許がおり、十一月には資本金四十五万円の両備鉄道株式会社が設立され、河合三郎が社長に就任している。会社設立と同時に敷設工事にかかり、まず城の東から奈良津をとおって横尾をぬける線路工事を急いだのである。
駅舎をつくるには堀をうめる必要があり、それにはかなりの土砂がいる。村田虎吉は深津高地の土を運搬すれば一挙両得であると判断、まず深津村長に相談して賛同を得、快く援助を約束してもらった。両備鉄道の河合社長も村田の意見をとり入れ、大正二年四月八日に起工、虎吉自ら監督に当たり、一年一か月の間、寒暑の中も休まず、鶴はしで土をほりさげ、大八車に土をつんで全く人力で二キロの道を運搬したのである。そして、大正三年五月には東堀が完全に埋められ、新しい駅舎が建ち、七月には両備鉄道が開通した。土砂をとりのぞいた辻の坂は、前にくらべて勾配もゆるやかとなり、道幅も倍以上にひろがり、人馬の往来は急にふえてきた。この作業はほとんど人力で堀さげ運搬したのだから、当時の人たちにとっては大へんな労働であったといえる。
村田が完成させた道路は、深津平野へぬける要衝として一躍クローズアップし、多くの馬車が通るようになったが、まだまだ難所で東西のふもとで小休しなければこえられなかった。ときに疲労で馬がたおれたのをみたという人もおり、人力の荷車なら荷物が少なくても三人位が後おしをしなければのぼれなかったといわれる。
…現在の辻之坂は石碑に刻んでいる村田虎吉の第一期工事にはじまり、大正末期ごろの第二期、昭和二十六年度の第三期と大きくは三回の堀りさげをしたことになる。昭和三十年代になると、自動車の大型化で道幅があまりにも狭いので、南手城町をとおる国道の新設が行なわれ、昭和三十六年には国道としての役割を解除されることになった。
福山文化財シリーズ№10 福山の碑より引用
『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』
坂を上り始めてまもなく左手に開鑿記念碑、遭難供養地蔵尊が見える。更に進むと小さな祠が崖下にへばりつくように建っている。
祠の中の無縁法界地蔵尊(左)と大乗妙典六十六部供養塔(右)に向けてシャッターを切る私を小学生が怪訝そうに眺めていた。詳しいことを知らぬ子供が「何が面白いのだろう」という表情を浮かべるのは自然だ。目が合った児童に親指を立てると笑みを返してくれた。
笠岡街道は、薬師寺の門前で深津島山の丘陵に突き当たり、左に折れて辻の坂を越えます。辻の坂もかつては人馬も難渋する急峻な坂道で7・8月には湯茶の接待があったほどでした。
それを見かねた村田虎吉によって明治の終わりに切り下げられ、現在のように勾配がゆるくなりました。坂の頂上にはその功績をたたえた記念碑が建っています。傍らの地蔵さんは、ここの難所の守り仏で、1746年(延享3年)の年号が刻まれています。
『広報ふくやま』歴史散歩 1997年7月号に掲載
「いつの日か彼らの中の数人でも辻の坂の開鑿に携わった人々の苦労と情熱を偲ぶようになってくれるといいが」と私は淡い期待を寄せた。
辻の坂
明治のおわりごろまでの辻の坂は、急勾配の上、幅は大八車がやっと通れるほどのせまさで、曲折もあり、ここを通る人々は困っていた。夜道をとおると「おいはぎ」がでるといううわさもたっていたほどである。
旧山陽線の踏切附近からすぐ坂道となり、頂上にある金比羅さんの横をとおって深津保育所前の曲部へおりていた。深安郡福山町の人村田虎吉は通行人の苦しみをみるにつけこの峠をほりさげて平たくしようと考えていた。ちょうどそのころ福山城の東堀端をうめて両備鉄道の駅舎にするという話がもちあがっていた。
明治維新以降、城はあれ放題で堀の南部分は明治二十年すぎに埋められ、山陽本線が二十四年九月から営業をはじめていたが、明治四十四年八月福山・府中間の軽便鉄道敷設免許がおり、十一月には資本金四十五万円の両備鉄道株式会社が設立され、河合三郎が社長に就任している。会社設立と同時に敷設工事にかかり、まず城の東から奈良津をとおって横尾をぬける線路工事を急いだのである。
駅舎をつくるには堀をうめる必要があり、それにはかなりの土砂がいる。村田虎吉は深津高地の土を運搬すれば一挙両得であると判断、まず深津村長に相談して賛同を得、快く援助を約束してもらった。両備鉄道の河合社長も村田の意見をとり入れ、大正二年四月八日に起工、虎吉自ら監督に当たり、一年一か月の間、寒暑の中も休まず、鶴はしで土をほりさげ、大八車に土をつんで全く人力で二キロの道を運搬したのである。そして、大正三年五月には東堀が完全に埋められ、新しい駅舎が建ち、七月には両備鉄道が開通した。土砂をとりのぞいた辻の坂は、前にくらべて勾配もゆるやかとなり、道幅も倍以上にひろがり、人馬の往来は急にふえてきた。この作業はほとんど人力で堀さげ運搬したのだから、当時の人たちにとっては大へんな労働であったといえる。
村田が完成させた道路は、深津平野へぬける要衝として一躍クローズアップし、多くの馬車が通るようになったが、まだまだ難所で東西のふもとで小休しなければこえられなかった。ときに疲労で馬がたおれたのをみたという人もおり、人力の荷車なら荷物が少なくても三人位が後おしをしなければのぼれなかったといわれる。
…現在の辻之坂は石碑に刻んでいる村田虎吉の第一期工事にはじまり、大正末期ごろの第二期、昭和二十六年度の第三期と大きくは三回の堀りさげをしたことになる。昭和三十年代になると、自動車の大型化で道幅があまりにも狭いので、南手城町をとおる国道の新設が行なわれ、昭和三十六年には国道としての役割を解除されることになった。
福山文化財シリーズ№10 福山の碑より引用
『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』
坂を上り始めてまもなく左手に開鑿記念碑、遭難供養地蔵尊が見える。更に進むと小さな祠が崖下にへばりつくように建っている。
祠の中の無縁法界地蔵尊(左)と大乗妙典六十六部供養塔(右)に向けてシャッターを切る私を小学生が怪訝そうに眺めていた。詳しいことを知らぬ子供が「何が面白いのだろう」という表情を浮かべるのは自然だ。目が合った児童に親指を立てると笑みを返してくれた。
笠岡街道は、薬師寺の門前で深津島山の丘陵に突き当たり、左に折れて辻の坂を越えます。辻の坂もかつては人馬も難渋する急峻な坂道で7・8月には湯茶の接待があったほどでした。
それを見かねた村田虎吉によって明治の終わりに切り下げられ、現在のように勾配がゆるくなりました。坂の頂上にはその功績をたたえた記念碑が建っています。傍らの地蔵さんは、ここの難所の守り仏で、1746年(延享3年)の年号が刻まれています。
『広報ふくやま』歴史散歩 1997年7月号に掲載
「いつの日か彼らの中の数人でも辻の坂の開鑿に携わった人々の苦労と情熱を偲ぶようになってくれるといいが」と私は淡い期待を寄せた。