3月14日(金)午前2時過ぎ私は用を足すために床を出た。便所のドアノブをつかもうとした時、物凄い揺れを感じた。一瞬「家が潰れるのではないか」という不安が脳裏をよぎった。幸い揺れはすぐに収まったが、気持ちはすこぶる悪かった。
広島県知事が河田惠昭教授を招いて講演してもらった直後に瀬戸内で大きな地震が発生するとは何の因果であろう。まさにグッドタイミングで本日午前中学区の自主防災訓練が行われる。江戸期の干拓地で暮らす住民の参加がかなり増えたと思われる。自治体の防災・減災への取り組みの甘さについては福山維新の会代表の指摘通りである。住民が本気になれば、役所は後からついて来る(笑)
広島県知事が河田惠昭教授を招いて講演してもらった直後に瀬戸内で大きな地震が発生するとは何の因果であろう。まさにグッドタイミングで本日午前中学区の自主防災訓練が行われる。江戸期の干拓地で暮らす住民の参加がかなり増えたと思われる。自治体の防災・減災への取り組みの甘さについては福山維新の会代表の指摘通りである。住民が本気になれば、役所は後からついて来る(笑)

歴史を感じさせる艮神社の美しき社殿。神社沿革については『赤坂村史(昭和四十二年)』が詳しい。
村社艮神社
艮神社は早戸坂神にあり、吉備津彦の荒魂を祀る建暦二年(西暦一六四九)八月再建、福山志料に「社領毛利杉原まであり、福島の時召上らる、福島の臣滝正右衛門領内たるにより五石をよす」とあり、祭礼は陰暦八月十六日なりしが陽暦十月十五日に改む、…
明治六年村社に列格す。
建物
藁葺平屋建木造 本殿 一、建坪 九、〇
瓦葺 〃 幣殿 一、〃 一、五
瓦葺 〃 拝殿 一、〃 六、〇
瓦葺 〃 倉庫 一、〃 一二、〇
山林 五反八畝〇三
境内地 四四二坪五〇
境内地に稲荷神社あり艮神社の末社として奉祀す。


境内社の稲荷神社は社殿後方に位置する。とても小さな社でかわいらしいお狐さんが祀ってあった。稲荷神社のそばに標識が建っており、更に少し山を登っていくと古い宝篋印塔があった。


社殿と向き合う格好で神社境内の東南隅に三つの石碑が並ぶ。左が天照皇大神碑、中央が神武天皇遥拝碑、右が凱旋記念碑である。参考までに上述の文献の解説を引用する。
「神武天皇遥拝碑」早戸艮神社境内に在り。
明治三十五年(一九〇二)九月の建立。
「凱旋記念碑」早戸艮神社境内に在り。
碑文 深津安那沼隈郡長岡田吉顕書。
明治三十五年(一九〇二)九月建之。西南役、日清戦後、北清事変従軍者(早戸村出征者)の氏名銘記す。
「天照皇大神碑」早戸艮神社境内に在り。
自然石にて高さ四・六米大規模の碑なり。
碑文字、済美高等小学校初代校長(相原吉之助氏)筆。
明治四十年参宮連中十六名発起道上組中、同年五月建之。
東征の際、数々の苦境に立たされた神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと ※後の神武天皇)を救った天照大神、日本神話にまつわる石碑が建立されたのは日露戦争勃発前のことであった。
村社艮神社
艮神社は早戸坂神にあり、吉備津彦の荒魂を祀る建暦二年(西暦一六四九)八月再建、福山志料に「社領毛利杉原まであり、福島の時召上らる、福島の臣滝正右衛門領内たるにより五石をよす」とあり、祭礼は陰暦八月十六日なりしが陽暦十月十五日に改む、…
明治六年村社に列格す。
建物
藁葺平屋建木造 本殿 一、建坪 九、〇
瓦葺 〃 幣殿 一、〃 一、五
瓦葺 〃 拝殿 一、〃 六、〇
瓦葺 〃 倉庫 一、〃 一二、〇
山林 五反八畝〇三
境内地 四四二坪五〇
境内地に稲荷神社あり艮神社の末社として奉祀す。


境内社の稲荷神社は社殿後方に位置する。とても小さな社でかわいらしいお狐さんが祀ってあった。稲荷神社のそばに標識が建っており、更に少し山を登っていくと古い宝篋印塔があった。


社殿と向き合う格好で神社境内の東南隅に三つの石碑が並ぶ。左が天照皇大神碑、中央が神武天皇遥拝碑、右が凱旋記念碑である。参考までに上述の文献の解説を引用する。
「神武天皇遥拝碑」早戸艮神社境内に在り。
明治三十五年(一九〇二)九月の建立。
「凱旋記念碑」早戸艮神社境内に在り。
碑文 深津安那沼隈郡長岡田吉顕書。
明治三十五年(一九〇二)九月建之。西南役、日清戦後、北清事変従軍者(早戸村出征者)の氏名銘記す。
「天照皇大神碑」早戸艮神社境内に在り。
自然石にて高さ四・六米大規模の碑なり。
碑文字、済美高等小学校初代校長(相原吉之助氏)筆。
明治四十年参宮連中十六名発起道上組中、同年五月建之。
東征の際、数々の苦境に立たされた神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと ※後の神武天皇)を救った天照大神、日本神話にまつわる石碑が建立されたのは日露戦争勃発前のことであった。

宮ノ池の西側の山に鎮座する艮神社。所在地は福山市赤坂町大字早戸字坂神1778‐1。参道入口の鳥居の斜向かいに見えるのが岡田畳店(大字早戸1598‐2)。



説明板によると相当の歴史を持つ神社(祭神は吉備津彦命)で旧村社でもあった。石段を上ると立派な注連柱が現れる。


裏面に刻まれた井上鉄五郎という人物について『赤坂村史(昭和四十二年)』は次のように紹介している。
井上家先祖は千年村草深(旦那時宝大寺)より早戸村安井に転居(一説に山南村より転居)天保九年(一八三八)井上作三雅馴の長男に生まる。
神辺の菅家と親戚関係にあり、幼少の頃茶山の門に入り勉学す、菅佃仲との親交あり当時の書簡を蔵せりと。二十歳の時父を失う。
明治十二年(一八七九)末早戸村、山北村、加屋村戸長となる(四十二歳)同十六年末まで三村の村治に尽瘁す。…
明治二十二年(一八八九)早戸村赤坂村合併し、同年六月十日初代赤坂村長となる。

境内に入ると本殿・階・幣殿の修復が終わったことを示す記念碑が平成二十四年十月十四日(創祀八百年大祭斎行の日)に建立されていた。



説明板によると相当の歴史を持つ神社(祭神は吉備津彦命)で旧村社でもあった。石段を上ると立派な注連柱が現れる。


裏面に刻まれた井上鉄五郎という人物について『赤坂村史(昭和四十二年)』は次のように紹介している。
井上家先祖は千年村草深(旦那時宝大寺)より早戸村安井に転居(一説に山南村より転居)天保九年(一八三八)井上作三雅馴の長男に生まる。
神辺の菅家と親戚関係にあり、幼少の頃茶山の門に入り勉学す、菅佃仲との親交あり当時の書簡を蔵せりと。二十歳の時父を失う。
明治十二年(一八七九)末早戸村、山北村、加屋村戸長となる(四十二歳)同十六年末まで三村の村治に尽瘁す。…
明治二十二年(一八八九)早戸村赤坂村合併し、同年六月十日初代赤坂村長となる。

境内に入ると本殿・階・幣殿の修復が終わったことを示す記念碑が平成二十四年十月十四日(創祀八百年大祭斎行の日)に建立されていた。

明治天皇惣爪御野立所から少しばかり北へ行った所が惣爪塔跡である。この辺りを治めていた有力豪族が塔を建立したと考えられている。


跡には塔心礎(とうしんそ ※塔の中心柱の礎石)が保存されているが、畑を造るために周りは相当手が加えられたために今となっては伽藍配置を推定することは困難だ。

説明板の隣に建つ「土肥治平君頌徳之碑」。題額は犬養木堂先生で「土肥治平翁ハ弘化四年十二月十五日(※1848年)代五郎ノ長男トシテ生ル…」という文で始まっている。都宇郡会議員に推され地域発展のために尽力した人物とのこと。

碑が出来たのは昭和五年(1930)五月一日で裏には加茂村長の名前などが刻まれている。犬養よりも年上の翁は惣爪塔跡のもともとの状態(平地ではなくかなり盛り上がっていた)を語ることのできる古老として有名であったという。天平時代の瓦なども出土しており考古学ファンならばおさえておきたい観光スポットだ。私は足守川の土手道を北上し標識から次に向かうポイントを決めた。



跡には塔心礎(とうしんそ ※塔の中心柱の礎石)が保存されているが、畑を造るために周りは相当手が加えられたために今となっては伽藍配置を推定することは困難だ。

説明板の隣に建つ「土肥治平君頌徳之碑」。題額は犬養木堂先生で「土肥治平翁ハ弘化四年十二月十五日(※1848年)代五郎ノ長男トシテ生ル…」という文で始まっている。都宇郡会議員に推され地域発展のために尽力した人物とのこと。

碑が出来たのは昭和五年(1930)五月一日で裏には加茂村長の名前などが刻まれている。犬養よりも年上の翁は惣爪塔跡のもともとの状態(平地ではなくかなり盛り上がっていた)を語ることのできる古老として有名であったという。天平時代の瓦なども出土しており考古学ファンならばおさえておきたい観光スポットだ。私は足守川の土手道を北上し標識から次に向かうポイントを決めた。


小高い丘の石碑(裏面)には「明治四十三年十一月…接戦砲火相交…」という文字が見え陸軍大演習の模様について記してあるようだった。私は頂まで行き「龍蹤(りゅうしょう)表彰之碑」を拝んだ。

夏目漱石の『こころ』には主人公の父親が明治天皇崩御の報を聞いて落胆する場面が出て来るが、高度経済成長期に生まれた私(が高校生の時)には理解に苦しむ点が多々あったのも事実だ。『続備後物語 / 村上正名』の第6話の中に「閑話休題 明治天皇崩御 菊かおる明治は終わる」という段落があるので紹介しようと思う。明治の世を生きた人にしか語ることのできない貴重な話だ。
「明治天皇を拝もうと、朝早くから自転車を飛ばして岡山に行ったものです。当時自転車を持っている者は少なく、私のは神戸から買った外車だったので‐中古だったのですが‐。そうだったですね。あれは明治四十一年十一月の中ごろでしたか、岡山県下で陸軍大演習があり、大本営が岡山の後楽園に置かれ、広島の五師団も参加して、福山の四十一連隊や広島十一連隊も軍機を持って吉備平野で実戦そのままの演習が行われました。終わった十七日に岡山練兵場で観兵式があり、それを見に行ったものです。」
明治天皇さんがお通りになるというので、道のほとりに土下座して待ちました。そのときの私らの感じは、陛下が前を馬でお通りになったが、それより前に十一連隊の軍旗が通り、その旗手が家の近所の藤井洋二という人だったので、なつかしく洋さんが通りようるなーと、それをよう見ました。軍旗は弾丸で破れていました。陛下が通られたときは、頭を上げている者は一人もありません。それでゴットゴット馬が通り、しばらくして頭をあげて見ました。いや拝みました。明治天皇さんを拝むのに、わざわざ福山から自転車で飛ばして、夜の明けぬうちから行ったのに、まあそうしたことでした。
今ごろは私も戦後遺族代表で福山へ今上陛下が来られた時に、医師会館でお迎えしましたが、しばらく苦しかろうががまんしてくれるようーというおことばがありまして、前をお通りになるのを顔を上げて見ましたが、明治と昭和では、時代が変わったものですなー
明治生まれの藤井宗市さん(明治二十六年生まれ)の話は続きます。明治生まれの人々のイメージに描かれる明治大帝は神格化の存在で、菊かおる明治節は明治のよき時代を回想するよすがとなっています。
「お百度参りもしました。町内からも夜中参りで、明治天皇の病気平ゆ(癒)を祈ったものです。学校でも氏神様へ生徒を連れていきました」
明治生まれの人々は異口同音に、明治四十五年七月の思い出を語られます。
明治四十五年七月三十日午前零時四十分明治は終わりました。夜が白みかけるころ、号外の鈴は全国津々浦々にこの悲しみを伝えました。
ほとんどの家は門戸を閉ざし、弔旗を掲げ、歌舞音曲は一切停止し、学校も授業をやめ、「自習たりとも黙読すべし」と声をひそめて喪に服したのです。
昔は福山にも確かに愛国者がいたのであるが、今はどうだろうか。嬉しげに自国の悪口ばかり言う(成りすまし以下の)垢が顎を上げている。まことに嘆かわしい限りである。眠巣に期待した連中もこれと同等の屑である。私は高い所から吉備平野を望み弁当を持参しなかったことを後悔したのだった。


夏目漱石の『こころ』には主人公の父親が明治天皇崩御の報を聞いて落胆する場面が出て来るが、高度経済成長期に生まれた私(が高校生の時)には理解に苦しむ点が多々あったのも事実だ。『続備後物語 / 村上正名』の第6話の中に「閑話休題 明治天皇崩御 菊かおる明治は終わる」という段落があるので紹介しようと思う。明治の世を生きた人にしか語ることのできない貴重な話だ。
「明治天皇を拝もうと、朝早くから自転車を飛ばして岡山に行ったものです。当時自転車を持っている者は少なく、私のは神戸から買った外車だったので‐中古だったのですが‐。そうだったですね。あれは明治四十一年十一月の中ごろでしたか、岡山県下で陸軍大演習があり、大本営が岡山の後楽園に置かれ、広島の五師団も参加して、福山の四十一連隊や広島十一連隊も軍機を持って吉備平野で実戦そのままの演習が行われました。終わった十七日に岡山練兵場で観兵式があり、それを見に行ったものです。」
明治天皇さんがお通りになるというので、道のほとりに土下座して待ちました。そのときの私らの感じは、陛下が前を馬でお通りになったが、それより前に十一連隊の軍旗が通り、その旗手が家の近所の藤井洋二という人だったので、なつかしく洋さんが通りようるなーと、それをよう見ました。軍旗は弾丸で破れていました。陛下が通られたときは、頭を上げている者は一人もありません。それでゴットゴット馬が通り、しばらくして頭をあげて見ました。いや拝みました。明治天皇さんを拝むのに、わざわざ福山から自転車で飛ばして、夜の明けぬうちから行ったのに、まあそうしたことでした。
今ごろは私も戦後遺族代表で福山へ今上陛下が来られた時に、医師会館でお迎えしましたが、しばらく苦しかろうががまんしてくれるようーというおことばがありまして、前をお通りになるのを顔を上げて見ましたが、明治と昭和では、時代が変わったものですなー
明治生まれの藤井宗市さん(明治二十六年生まれ)の話は続きます。明治生まれの人々のイメージに描かれる明治大帝は神格化の存在で、菊かおる明治節は明治のよき時代を回想するよすがとなっています。
「お百度参りもしました。町内からも夜中参りで、明治天皇の病気平ゆ(癒)を祈ったものです。学校でも氏神様へ生徒を連れていきました」
明治生まれの人々は異口同音に、明治四十五年七月の思い出を語られます。
明治四十五年七月三十日午前零時四十分明治は終わりました。夜が白みかけるころ、号外の鈴は全国津々浦々にこの悲しみを伝えました。
ほとんどの家は門戸を閉ざし、弔旗を掲げ、歌舞音曲は一切停止し、学校も授業をやめ、「自習たりとも黙読すべし」と声をひそめて喪に服したのです。
昔は福山にも確かに愛国者がいたのであるが、今はどうだろうか。嬉しげに自国の悪口ばかり言う(成りすまし以下の)垢が顎を上げている。まことに嘆かわしい限りである。眠巣に期待した連中もこれと同等の屑である。私は高い所から吉備平野を望み弁当を持参しなかったことを後悔したのだった。


私が熊野神社(愛宕大権現)に寄ったのは『備陽六郡志』に記載された獄門場の跡を辿る目的もあった。神社境内を抜けた背後(食品会社の北側)の道がどうやら該当しそうであった。
獄門塲
愛宕の脇より早戸へ越所に芝原あり、是を獄門塲といふ。福嶋以前より當村に足立庄兵衛とて、福優なるもの有。其弟九郎兵衛、力量人に勝れ、角力を好、醉狂し、親兄を手こめにし、自他の百姓共を打擲し、人を殺害する事、度々に及けれは、止事を不得して訴たり。勝成公被聞召、左様の溢もの捨置へからす、其村において獄門に掛へし、去なから心をあらたむれは却而柔和になるものなり、左あらは助置て角力に可召遣、能々申聞ヨ、納得せさるにおひては刑罸に行へしと被仰付。捕手の者多ク被遣けれとも、輙、捕事不能。漸に召捕、御意之趣申渡しけれハ□て九郎兵衛ほとのものなれとも、命か惜さに今にては猫の様になりたりと噂せられん事、何ほとか口惜かるへし。前々より我かまゝをせよ、角力取に召遣んとの事ならは難有と御請可申上、今より心を改よ、命を助け、めし遣んとの事、片腹いたき事也。所詮はやく刎首られよといひけれは、是非なく此処へ梟首せられしとなり。


とりあえず神社の石鳥居前の道を南へ向かいホテルを過ぎた先で右折し丘越えに入る。地形図福山近傍(大日本帝國陸地測量部・大正五年製版)にある宮ノ峠(みやのたお)と同じかは自信がないが、赤坂町大字早戸へ抜ける道の一つだ。


立派な石組が両側にある坂を上り切った所に山北倶楽部が建っており、すぐ近く(少し奥まった位置)にお堂が見えた。


中を確認すると小さな石仏の類が上段に祀られていた。かつては休憩所として使用されていたのかもしれない。私はお堂の横から太陽家具の方を望み、獄門場は河手川南側(江戸期は芦原だったと思われる)の細い道筋にあったのであろうと目星をつけた。


水野勝成公の時代、藩の御仕置場は城下東西(外れ)に置かれていたが、改心を頑なに拒んだ罪人は芦田川左岸近くの斬罪場(おそらく前地)で刑を執行され、首は出身地の山北村に送られ峠道の途中に晒されたのであろう。歴史書が藩主の慈悲深い一面も伝えている点を見落とすべきではない。私は角さんの得意のポーズをして町境へと急いだ。


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獄門塲
愛宕の脇より早戸へ越所に芝原あり、是を獄門塲といふ。福嶋以前より當村に足立庄兵衛とて、福優なるもの有。其弟九郎兵衛、力量人に勝れ、角力を好、醉狂し、親兄を手こめにし、自他の百姓共を打擲し、人を殺害する事、度々に及けれは、止事を不得して訴たり。勝成公被聞召、左様の溢もの捨置へからす、其村において獄門に掛へし、去なから心をあらたむれは却而柔和になるものなり、左あらは助置て角力に可召遣、能々申聞ヨ、納得せさるにおひては刑罸に行へしと被仰付。捕手の者多ク被遣けれとも、輙、捕事不能。漸に召捕、御意之趣申渡しけれハ□て九郎兵衛ほとのものなれとも、命か惜さに今にては猫の様になりたりと噂せられん事、何ほとか口惜かるへし。前々より我かまゝをせよ、角力取に召遣んとの事ならは難有と御請可申上、今より心を改よ、命を助け、めし遣んとの事、片腹いたき事也。所詮はやく刎首られよといひけれは、是非なく此処へ梟首せられしとなり。


とりあえず神社の石鳥居前の道を南へ向かいホテルを過ぎた先で右折し丘越えに入る。地形図福山近傍(大日本帝國陸地測量部・大正五年製版)にある宮ノ峠(みやのたお)と同じかは自信がないが、赤坂町大字早戸へ抜ける道の一つだ。


立派な石組が両側にある坂を上り切った所に山北倶楽部が建っており、すぐ近く(少し奥まった位置)にお堂が見えた。


中を確認すると小さな石仏の類が上段に祀られていた。かつては休憩所として使用されていたのかもしれない。私はお堂の横から太陽家具の方を望み、獄門場は河手川南側(江戸期は芦原だったと思われる)の細い道筋にあったのであろうと目星をつけた。


水野勝成公の時代、藩の御仕置場は城下東西(外れ)に置かれていたが、改心を頑なに拒んだ罪人は芦田川左岸近くの斬罪場(おそらく前地)で刑を執行され、首は出身地の山北村に送られ峠道の途中に晒されたのであろう。歴史書が藩主の慈悲深い一面も伝えている点を見落とすべきではない。私は角さんの得意のポーズをして町境へと急いだ。


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