JR福塩線の二股の2踏切を渡り東へ向かう。北本庄の真栄山円照寺に寄る。参道入口脇に建つ黒っぽい馬頭観世音菩薩像。
坂道を歩いて行くと立派な楼門が見える。伝道掲示板の文句はお四国参りの際に私も何度か唱えたことがある。
『いとしき故郷‐本庄・木之庄・北吉津‐ / 鎌田 一』には「当寺はもと沼隈郡山田村(熊野)にあったが、宥海上人のとき、本庄下山手橋付近の中島に移った。寛文十三年(一六七三)大洪水にあい、過去帳も建物もすべて流された。延宝二年(一六七四)十一月宥海によって堂坂に移され、明治七年(一八七四)、澄寂によって本堂改築が行われた。」 という記述がある。
「奉為弘法大師千百年御忌倍造法楽」と刻まれた長い石塔の隣の仏さんの表情がいかにも不貞腐れたような感じで思わず笑ってしまった。
坂道を歩いて行くと立派な楼門が見える。伝道掲示板の文句はお四国参りの際に私も何度か唱えたことがある。
『いとしき故郷‐本庄・木之庄・北吉津‐ / 鎌田 一』には「当寺はもと沼隈郡山田村(熊野)にあったが、宥海上人のとき、本庄下山手橋付近の中島に移った。寛文十三年(一六七三)大洪水にあい、過去帳も建物もすべて流された。延宝二年(一六七四)十一月宥海によって堂坂に移され、明治七年(一八七四)、澄寂によって本堂改築が行われた。」 という記述がある。
「奉為弘法大師千百年御忌倍造法楽」と刻まれた長い石塔の隣の仏さんの表情がいかにも不貞腐れたような感じで思わず笑ってしまった。
片岡山と呼ばれる小高い丘の上にある楯築弥生墳丘墓。遺跡名は吉備津彦命が温羅一族を攻める際に片岡山に矢を防ぐための石の楯を造ったという伝説に因む。弥生時代後期の墳墓としては最大級ということだが、団地造成によって破壊され北東への突出部分の一部のみが復原されている。ストーンサークル(5つの立石からなる)を見るために遠方から足を運ぶ人も多いと聞く。
立石の傍に楯築神社跡地を示す石柱が建っている。片岡多計留(かたおかのたける)を祭神とする神社は明治42年(1909)に矢部の鯉喰神社に合祀され社殿は解体されたということである。大正に入って御神体とされる弧帯石(亀石)が当地に戻された。
埋葬者の棺からは膨大な量の水銀朱(大変貴重なもの)が見つかり強大な権力を持っていたことが推測される。墓の頂上では神事が執り行われていたと研究者は考える。楯築神社の氏子の間ではここが「神の宿る場所」として伝承されてきた。
現在弧帯石はストーンサークルの南側に位置する収蔵庫に保管されている。以前某テレビ番組で石の独特の文様を見た記憶がある。丘の上から吉備の中山の形状を瞼に焼き付けた私は一旦下山することにした。
立石の傍に楯築神社跡地を示す石柱が建っている。片岡多計留(かたおかのたける)を祭神とする神社は明治42年(1909)に矢部の鯉喰神社に合祀され社殿は解体されたということである。大正に入って御神体とされる弧帯石(亀石)が当地に戻された。
埋葬者の棺からは膨大な量の水銀朱(大変貴重なもの)が見つかり強大な権力を持っていたことが推測される。墓の頂上では神事が執り行われていたと研究者は考える。楯築神社の氏子の間ではここが「神の宿る場所」として伝承されてきた。
現在弧帯石はストーンサークルの南側に位置する収蔵庫に保管されている。以前某テレビ番組で石の独特の文様を見た記憶がある。丘の上から吉備の中山の形状を瞼に焼き付けた私は一旦下山することにした。
福山本庄郵便局から北西へ進み二股橋(下井手川)東詰で大きな常夜灯を見つけた。もともとは本庄町中3丁目21にあったらしい(『いとしき故郷‐本庄・木之庄・北吉津‐ / 鎌田 一』)。
つまり本庄北第2公園を挟んだ向う側ということである。芦田川に橋が架かる前は山手方面へ行くには渡し船を利用するしかなかった。確か江戸期に二股辺りからは渡しが出ていたはずである。
JR備後本庄駅の開業は昭和15年(1940)。いわゆる福塩線の付け替え(以前は胡町・吉津町を経由して横尾に入っていた)によって誕生した駅だが、地区住民の喜びは相当大きかったものと思われる。駅改札入口手前の植え込みに「本庄驛設置寄附芳名碑」がひっそりと建っている。
つまり本庄北第2公園を挟んだ向う側ということである。芦田川に橋が架かる前は山手方面へ行くには渡し船を利用するしかなかった。確か江戸期に二股辺りからは渡しが出ていたはずである。
JR備後本庄駅の開業は昭和15年(1940)。いわゆる福塩線の付け替え(以前は胡町・吉津町を経由して横尾に入っていた)によって誕生した駅だが、地区住民の喜びは相当大きかったものと思われる。駅改札入口手前の植え込みに「本庄驛設置寄附芳名碑」がひっそりと建っている。
足守川右岸に位置する日畑(実際には左岸にも少しある)地区。この辺りは江戸時代幕府領であった。土手道を下りて山へ向かう。私は先ず鷲林山浄安寺を訪れた。
伝道掲示板に日蓮宗の文字を認めた。本堂は予想した以上に新しい。境内に建立された石碑の文面を見て納得した。
本堂再建の経緯
当山浄安寺は約三百数年前、藩主戸川公の勧めにより天台宗より、日蓮宗に改宗され、爾来、檀信徒の信仰護持により今日に至った。
永年の歳月を経て本堂の老朽化が著しく、日蓮宗立教開宗七百五十年を機に本堂再建の話が檀信徒より持ち上がった。平成十二…年九月地鎮祭を行い、同年十一月上棟し、そして平成十四年三月ここに竣工した。…
寺を出てから細い山道をしばらく歩き弥生時代の遺跡跡に到着した。住所は倉敷市日畑から再び矢部に変わった。
伝道掲示板に日蓮宗の文字を認めた。本堂は予想した以上に新しい。境内に建立された石碑の文面を見て納得した。
本堂再建の経緯
当山浄安寺は約三百数年前、藩主戸川公の勧めにより天台宗より、日蓮宗に改宗され、爾来、檀信徒の信仰護持により今日に至った。
永年の歳月を経て本堂の老朽化が著しく、日蓮宗立教開宗七百五十年を機に本堂再建の話が檀信徒より持ち上がった。平成十二…年九月地鎮祭を行い、同年十一月上棟し、そして平成十四年三月ここに竣工した。…
寺を出てから細い山道をしばらく歩き弥生時代の遺跡跡に到着した。住所は倉敷市日畑から再び矢部に変わった。
福山市本庄町中4丁目のアトリエマツイ前を通りJR宿舎(旧国鉄宿舎)の方へ向かう。アパートが出来る前は山十製紙株式会社福山工場(昭和8年頃の火災で全焼した)があったという(『いとしき故郷 / 鎌田一)』)。
首つなぎ地蔵(五條往還の折地蔵ではないか?)の脇を通り細い道を行く。この道はかなり昔から利用されていたものである。
JAを過ぎると福塩線の能満の4踏切が見える。JR福塩線の備後本庄駅(昭和15年開業)は踏切の北西約400mに位置している。
踏切を渡り芦田川左岸土手下の住宅地に移動する。今では家が密集しているが、昭和30年頃は一面田んぼであった。私は残り少なくなった農地の角から郵便局の方をマジマジと眺めた。
郵便局の裏手(南側)にかつて「と場」が存在したことを知る人は少なくなった。処理施設が御幸町大字中津原に移転したのは設備の老朽化が主要因で処理能力・環境問題(排水)を同時に解決する目的もあったと思われる。跡地の約半分は公園として整備され地区の住民が利用している。
首つなぎ地蔵(五條往還の折地蔵ではないか?)の脇を通り細い道を行く。この道はかなり昔から利用されていたものである。
JAを過ぎると福塩線の能満の4踏切が見える。JR福塩線の備後本庄駅(昭和15年開業)は踏切の北西約400mに位置している。
踏切を渡り芦田川左岸土手下の住宅地に移動する。今では家が密集しているが、昭和30年頃は一面田んぼであった。私は残り少なくなった農地の角から郵便局の方をマジマジと眺めた。
郵便局の裏手(南側)にかつて「と場」が存在したことを知る人は少なくなった。処理施設が御幸町大字中津原に移転したのは設備の老朽化が主要因で処理能力・環境問題(排水)を同時に解決する目的もあったと思われる。跡地の約半分は公園として整備され地区の住民が利用している。
かつて早戸峠の頂は赤坂村と金江村の村境線であった(※頂から南側を藁江峠という)。現在は赤坂町早戸と金江町藁江を分けている。峠道(農免道路)の北側には石碑が3つ並ぶ。
右が茶摂待碑移転記念碑、中央と左が永代茶接待碑(大正と文政)、農免道路が完成して景観や道幅などが大きく変わったことは『福山市金江町誌(平成四年)』に詳しく書かれている。
藁江峠の永代茶摂待碑
昭和四三年着工、四七年に完成した藁江峠を越える農免道路沿いに建っている。工事により藁江峠を五m近く掘り下げるため現在地に移転された。茶摂待碑移転記念碑に記されている。
裏 福山市制施行六十周年記念竜王総合開発工事のため茶摂待碑休石をこの地に移転す。昭和五十一年三月吉日 世話人 村上昌三
江戸時代後半、沼隈半島西部に住む人々は、福山城下へ通う最短距離として、藁江峠の往来を主要道路としていた。長い坂道を歩いて旅する人々は、夏は苦痛の季節で、汗をかきながら峠を越えて行く人々の姿を見かねた藤江村の富豪山路氏は、文化十四年(一八一七)より、旧暦六・七月に限り、ここで茶の接待をはじめた。
休み石の後ろに建つ碑には、次のように記されている。
表 文政一四丁丑年初
永代六月七月茶摂待
当村辻堂下田壱畝壱歩 高壱斗三升四合
砂下田 壱畝十弐歩 高九升八合
畑 五畝十三歩 高四斗三升五合
台石 発願主 藤江村 岡本内松兵衛
…前記の土地の収入を茶の接待碑にあて、接待労務には小作人が当たっていたようである。明治の中頃より岡本山路家は没落の運命をたどり、経費の支出が不可能になった。茶接待にあてていた田は松兵衛の子孫や、小作人の土地となり、茶も出されなくなった。
一時途絶えていた茶接待を復活しようと考えた前田両蔵は、松永町山本国次郎に交渉し、国庫債券五百円の利息をもって必要経費に充当することになった。この石碑(債券利子時代の茶接待)には次のように刻んである。
表 永代茶摂待
寄附者 松永町 山本国次郎
横 大正十二年七月十日金江村之建
国庫債券 五百円也
世話人 金江村下河内 前田両蔵
この接待により昭和三年まで、田中の一老人が茶接待に当たっていたが、その後青年団員が毎日一人宛交代で接待に出ていた。
…接待時間は朝八時過ぎから夕方四時頃までで、一日数十人位に接待していたが、時に演習や訓練で兵隊が二百人も通って湯・水が不足するようなこともあった。当番は茶わかし日誌を記入した。
茶の接待は第二次大戦中に一時中止したが、戦後また復活し、昭和三〇年頃まで地元青年団・少年団の労働奉仕が続いた。素朴で心あたたまる習慣に今も郷愁をもつ者が多い。著者もその一人である。道の幅員も広がり若者達の車が次々と走っていくのを見ると、時代の波がひしひしと感じられる。
私は持参したペットボトルの茶をグビグビと飲み干した。難所越えの充実感をしばし味わい峠道の南側へ移動する。斜向かいの斜面にお堂があることに気付いたのだ。
お堂の奥に祀られていたのは大きな石だった(御神体?)。お堂の名前はなかったが、平成二十三年六月吉日と刻まれた碑が入口付近に建っている。
お堂の裏手に位置する福山市西部斎場(金江町藁江字茶臼山604‐2)まで足を延ばす。火葬が粛々と執り行われているようで駐車場にはかなりの数の車があった。握り飯を頬張りながら農免道路に向かう私は黒いスーツを着た複数の運転手とすれ違った。
右が茶摂待碑移転記念碑、中央と左が永代茶接待碑(大正と文政)、農免道路が完成して景観や道幅などが大きく変わったことは『福山市金江町誌(平成四年)』に詳しく書かれている。
藁江峠の永代茶摂待碑
昭和四三年着工、四七年に完成した藁江峠を越える農免道路沿いに建っている。工事により藁江峠を五m近く掘り下げるため現在地に移転された。茶摂待碑移転記念碑に記されている。
裏 福山市制施行六十周年記念竜王総合開発工事のため茶摂待碑休石をこの地に移転す。昭和五十一年三月吉日 世話人 村上昌三
江戸時代後半、沼隈半島西部に住む人々は、福山城下へ通う最短距離として、藁江峠の往来を主要道路としていた。長い坂道を歩いて旅する人々は、夏は苦痛の季節で、汗をかきながら峠を越えて行く人々の姿を見かねた藤江村の富豪山路氏は、文化十四年(一八一七)より、旧暦六・七月に限り、ここで茶の接待をはじめた。
休み石の後ろに建つ碑には、次のように記されている。
表 文政一四丁丑年初
永代六月七月茶摂待
当村辻堂下田壱畝壱歩 高壱斗三升四合
砂下田 壱畝十弐歩 高九升八合
畑 五畝十三歩 高四斗三升五合
台石 発願主 藤江村 岡本内松兵衛
…前記の土地の収入を茶の接待碑にあて、接待労務には小作人が当たっていたようである。明治の中頃より岡本山路家は没落の運命をたどり、経費の支出が不可能になった。茶接待にあてていた田は松兵衛の子孫や、小作人の土地となり、茶も出されなくなった。
一時途絶えていた茶接待を復活しようと考えた前田両蔵は、松永町山本国次郎に交渉し、国庫債券五百円の利息をもって必要経費に充当することになった。この石碑(債券利子時代の茶接待)には次のように刻んである。
表 永代茶摂待
寄附者 松永町 山本国次郎
横 大正十二年七月十日金江村之建
国庫債券 五百円也
世話人 金江村下河内 前田両蔵
この接待により昭和三年まで、田中の一老人が茶接待に当たっていたが、その後青年団員が毎日一人宛交代で接待に出ていた。
…接待時間は朝八時過ぎから夕方四時頃までで、一日数十人位に接待していたが、時に演習や訓練で兵隊が二百人も通って湯・水が不足するようなこともあった。当番は茶わかし日誌を記入した。
茶の接待は第二次大戦中に一時中止したが、戦後また復活し、昭和三〇年頃まで地元青年団・少年団の労働奉仕が続いた。素朴で心あたたまる習慣に今も郷愁をもつ者が多い。著者もその一人である。道の幅員も広がり若者達の車が次々と走っていくのを見ると、時代の波がひしひしと感じられる。
私は持参したペットボトルの茶をグビグビと飲み干した。難所越えの充実感をしばし味わい峠道の南側へ移動する。斜向かいの斜面にお堂があることに気付いたのだ。
お堂の奥に祀られていたのは大きな石だった(御神体?)。お堂の名前はなかったが、平成二十三年六月吉日と刻まれた碑が入口付近に建っている。
お堂の裏手に位置する福山市西部斎場(金江町藁江字茶臼山604‐2)まで足を延ばす。火葬が粛々と執り行われているようで駐車場にはかなりの数の車があった。握り飯を頬張りながら農免道路に向かう私は黒いスーツを着た複数の運転手とすれ違った。
『赤坂村史』の廣島県沼隈郡赤坂村畧圖(昭和廿六年六月調整)を用いて早戸峠(旧道)を赤色に塗った。鳥居のマークが早戸の艮神社、卍のマークが浄土真宗本願寺派・西明寺(赤坂町大字早戸438)である。
現在は早戸から金江町大字藁江方面に延びる農免(のうめん)道路を利用する人が殆どであると思う。農免道路は旧道よりも若干西側を走る、ほぼ直線のバス路線である。
「早戸峠」早戸より藁江、金見、藤江、浦崎村地方に通じる、山路に在り、頂上村境線にて藁江峠とも言う、昔時より交通人馬多く…
『赤坂村史(昭和四十二年)』
艮神社を発った私は旧道を経由して農免道路に出て西明寺前から南へ向かった。トモテツの道上(どうじょう)バス停からはずっと上り坂である。
傾斜はそれほどでもないが、とにかく長いのだ。変速機のない自転車のペダルをこぐうちに脚がつりそうになる。「膝が笑う」という表現がぴったりだ。道上下池、道上中池を過ぎた辺りで我慢できなくなり自転車を押した。
広島トランスポート福山営業所(同町早戸988‐14)の手前からは峠の頂がぼんやりと確認できた。私の額からは汗がダラダラと流れていた。
現在は早戸から金江町大字藁江方面に延びる農免(のうめん)道路を利用する人が殆どであると思う。農免道路は旧道よりも若干西側を走る、ほぼ直線のバス路線である。
「早戸峠」早戸より藁江、金見、藤江、浦崎村地方に通じる、山路に在り、頂上村境線にて藁江峠とも言う、昔時より交通人馬多く…
『赤坂村史(昭和四十二年)』
艮神社を発った私は旧道を経由して農免道路に出て西明寺前から南へ向かった。トモテツの道上(どうじょう)バス停からはずっと上り坂である。
傾斜はそれほどでもないが、とにかく長いのだ。変速機のない自転車のペダルをこぐうちに脚がつりそうになる。「膝が笑う」という表現がぴったりだ。道上下池、道上中池を過ぎた辺りで我慢できなくなり自転車を押した。
広島トランスポート福山営業所(同町早戸988‐14)の手前からは峠の頂がぼんやりと確認できた。私の額からは汗がダラダラと流れていた。