(海街電車@名鉄蒲郡線車内)
蒲郡を出た電車は、蒲郡競艇場前駅を出ると東海道線から離れ、三ヶ根山の南側を三河湾に沿って走っていきます。昔は蒲郡競艇への客も蒲郡線の収益を支えてたんですが、東海道線に競艇場前駅と並ぶ形で三河塩津駅が出来てしまって、そこらへんのニーズも吸収されてしまっているそうな。ちなみに「がまごおりきょうていじょうまえ」って読み仮名の長い駅名だよねえ。今は地鉄の富山市内線に「トヨタモビリティ富山Gスクエア五福前(五福末広町)」というアホみたいに長い駅名があって、この程度の長さでは霞んでしまうのだが。子供のころの記憶だと、日本で一番長い駅名は「西線9条旭山公園通(札幌市交通局)」だったなあ。
電車は三河鹿島、形原、西浦と三河湾沿いの漁港町に止まっては、地元客が降りたり乗ったりしてくる。西浦で蒲郡行き電車と交換。沿線の形原温泉や西浦温泉は、以前は三河湾沿いの温泉地としてホテルが立ち並び、それなりの宿泊客を集めた観光地ではありましたが、そこらへんの「昭和な」温泉地の斜陽化も、なんとなく蒲郡線の衰退に拍車をかけているようです。西浦から先、車窓には海が見え、こどもの国に向かって小さなサミットを越えて行きます。山にはミカンの木が植わっていて、この時期オレンジの鮮やかな果実を付けていました。
電車は旧幡豆郡に入って東幡豆・西幡豆とそれぞれかつての中心街の駅に停車。ここらへんでもそれなりの地元客の乗り降り。割と高齢者中心ですが。名鉄蒲郡線の存廃問題は、前述の西浦・形原温泉などの観光衰退、旧幡豆郡の合併消滅による域内流動の減少、工業化しなかった三河湾沿岸の町の農業漁業の斜陽化など複合的な理由がありそうなのだが、岡崎や刈谷など東海道線沿いの内陸へ人口が遷移する中、対名古屋への流動に合わない線形も仇か。この「沿線にはそこそこ人口があってもニーズに合わない感じ」は、長野市内へのアクセスが悪い長電の屋代線に近い印象を受けた。ただ、普通にすれ違う電車にも1列車に30人くらいは乗車してたんで、そこまで存廃問題になるのかな?という雰囲気はあるんだよね。末期の屋代線に比べればウンと乗客多いよ。もっとガラガラなのかと思っていたのでね。
三河鳥羽駅で行先板付きの「にしがま号」と交換。かつての特急車を彷彿とさせる白帯にプレミアム感が。サボの「三河湾」ってのは、かつてパノラマカーで運転されていた蒲郡行きの有料特急「三河湾号」をリバイバルしたもの。逆に名鉄名古屋行きは「名古屋号」という名前で運転されていたそうです。当時の蒲郡線は、一応名古屋から特急が直通するくらいの観光需要があって、春の潮干狩りや夏の海水浴、こどもの国や温泉地も賑わいがあったという事なのでしょう・・・
6000系のハンドルを握る初老の運転士氏。結構ブレーキ音の大きい車両で、右手が左右に動くたびにシュー、プシューとエアー音が盛大に漏れる。マスコンとブレーキハンドル、両手で操るのもいかにも昭和世代の電車という感じがする。計器類にデジタルなものが皆無というのも今となってはポイント高い。6000系は1976年~83年にかけて増備された車両で、ちょうど我々のような団塊ジュニア世代。自分的にも「名鉄顔」って言われるとこの6000系の顔を思い出してしまうので、色々と「刺さる」ポイントの多い車両でもあります。
針を見て 細かく動く 右腕に
誰が継ぐのか 職人の技。
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