(ああ、追憶の名鉄600V@黒野レールパーク)
北陸新幹線の敦賀開業前の話をしていたら、既に年度末が過ぎ、桜の時期になってしまった。今年の桜は例年に比べると咲く直前の天候の悪さで花の進みが遅く、新年度に入ってからようやく咲き始めるという体たらくであった。まあ自然の摂理に「体たらく」も何もないもんだが、この時期は桜の開花に合わせて撮影行動を取るのがカメラ趣味のあるある。ウェザーニュースの予報を眺めながら、「今年は3月22日過ぎに開花からの3月27日~28日満開」と読み、この年度末のクソ忙しい時に後ろ指を指されつつ有給の申請まで出したのに花の気配が全くなく・・・(その後有給は「忙しくって休めないっすよね!」みたいな感じでカジュアルに取り下げてしまった)。改めて仕切り直しの新年度。どこへ行くかは天気と花の咲き具合、狙いと天気を定めて4月6日(土)の丑三つ時に家を出て、新東名を西に西に。春霞の夜明けを迎えたのは岐阜県揖斐郡大野町。2005年に全線が廃止された名鉄の600V路線、旧名鉄揖斐線・谷汲線の黒野駅。現在は「黒野レールパーク」としてその遺構が残されています。
今回の春の桜旅のテーマのひとつは、在りし日の岐阜県に名鉄600V区間の遺構を訪ねる・・・というもの。「名鉄600V区間ってなんですのん?」というそこまでテツではないお客さまに簡単にご説明すると、名鉄が岐阜市内中心部に走らせていた路面電車(岐阜市内線)と、岐阜駅前から関・美濃市方面へ向かっていた美濃町線、そして岐阜市内線を北に走り、長良川を渡って忠節から美濃北方~黒野~本揖斐に向かっていた揖斐線、そして東国の名刹・谷汲山華厳寺への参詣路線としてこの黒野から分かれて北へ向かった谷汲線の4路線こと。岐阜市内を中心に、周囲に広がる全長約70kmの路線網が各方面から軌道線の岐阜市内線に乗り入れてくるため、軌道線と郊外線の特徴を持ったステップ付きのクラシカルな名車が西美濃のローカルな風景とアーバンな岐阜市内の光景の中を行き交うという鉄道ファンにはつとに有名な魅力ある路線でした。しかしながら、狭い道路を電車が占有することが市内の交通渋滞の原因と目されたこと。また、市内線の通る道幅の狭さから軌道内の車両通行を警察が許諾したこと。そのせいで鉄道がクルマの渋滞に巻き込まれ定時性が確保されないこと。特に岐阜市内線では道路の真ん中にある安全地帯もない未改良の電停が多く、乗車には車通りの多い場所での道路横断が伴い危険なこと。そしてなにより名鉄本体による投資がなかなか後回しになっていて、大正時代に製造された冷房もない古い電車が走り続けていたこと。岐阜市のクルマ優先の交通政策と、そもそもの岐阜中心部の経済の落ち込み(繊維産業の衰退とか)や、もろもろの理由による乗客離れによる累積赤字はいかんともしがたく、名鉄が撤退を表明。2001年(平成13年)の谷汲線全線、揖斐線・美濃町線の末端区間廃止を端緒に、2005年(平成17年)に600V区間は根こそぎ全廃されてしまいました。
揖斐線と谷汲線が分岐していた黒野駅は、そんな名鉄600V区間の北の要衝。残されたホームから、揖斐・谷汲方面を望む。黒野駅は、岐阜県揖斐郡大野町の中心部にあり、当時は揖斐・谷汲線系統を走る車両を一手に管理する黒野検車区を擁する主幹駅でした。保存されたのは島式の旧2番・3番ホームのみですが、当時はもう1本南側(この写真で言うと左側奥)に片面の1番ホームがあり、ここから揖斐行きの電車が発着していました。廃線を控えた末期は、岐阜駅前~黒野と黒野~本揖斐・谷汲で系統が分断されており、2番線は岐阜からの電車の折り返しに使用され、1番線から黒野~揖斐間の折り返しローカルと、3番線から谷汲線の電車が出発していたそうです。名鉄揖斐線が廃線となって鉄道のなくなった大野町ですが、現在では岐阜駅前から毎時一本の岐阜バス(大野忠節線)が大野町のバスセンターまで運行されており、またJRの穂積駅からもバスが出ていて、公共交通はある程度維持されているようです。
鉄道が廃止され、ホームとかつての駅舎を中心に整備された黒野駅周辺は再整備され、広い構内を活かした公園となっています。駅舎はミュージアムになっているのだけど、朝早過ぎて開いてなかったのは仕方なし。廃止されてからの植樹と思われる桜並木が、春の朝に七分咲き程度の花を咲かせていましたが、吊るされた桃色のぼんぼり、夜になったら灯りがつくのかな・・・それにしても、黒野レールパーク、折角ホームと上屋と上下のレールを残したのだから、ここに保存する車両の1両でもあってもよさそうなものだが。手作り感満載のモ512だけじゃ寂しくないかい。
在りし日の黒野駅とモ512の案内板。現在は長良川鉄道の美濃市駅前にある旧名鉄美濃駅の保存館で静態保存されている車両ですが、平成27年に、揖斐線の全線廃止10周年のイベント企画として1年間だけここで展示されていたことがあったようだ。いまさら揖斐線・谷汲線を走ったツリカケ旧型車両の新しい展示などはなかなか難しいのだろうから、揖斐線の末期を飾った名鉄の770系が福井鉄道での役目を終えたら、ここへ迎え入れて静かに余生を過ごさせてあげればいいのではないか・・・と思う。2月に乗って来たけど、あっちではまだバリバリの現役だから、ちょっとここに来るには時間がかかりそうだけど。そうそう、モ513が岐阜市内の公園から岐阜駅前に移設されて保存されてるけど、こっちに持ってくるという話はなかったんかね。岐阜市の持ち物?っぽいから、大野町に移設というわけにもいかなかったのかな。
谷汲線の発着番線に残されていた行灯式の注意表示。谷汲線は、終点の谷汲までの交換設備は途中の北野畑駅の一つだけでした。この行燈式の表示灯は、そんな谷汲線の運転取り扱いの確認のために使われていたもので、 北野畑での交換があれば左側が光り、黒野~北野畑では「△」、北野畑~谷汲では「□」のスタフ(通票)を設定。北野畑でそれぞれの列車がスタフを交換するという「基本」の閉塞で2列車の運用。北野畑での交換がなければ右側が光り、北野畑を境とする前後2つの閉塞区間を「併合」して黒野~谷汲を1閉塞とみなし、谷汲線には「□」のスタフを持つ1列車しか入れませんよ、ということにしていたのだと思われる。末期はおよそ1時間に1本の閑散スジで、日中は単行のモ750形がひたすらに往復するダイヤだったそうですから、「併合」の□スタフが常用になっていたということかな。
ただ、谷汲山の初詣や例大祭などの多客時は増発を実施して日中も北野畑交換を行っていたようで、 「基本」の「△スタフ」を出して30分ヘッドにダイヤを詰めていたようだ。
黒野に残る行灯に、北辺の600Vへの思いを馳せる。
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