年が変わってから「イブ」もクソもないのだろうけど、これを消化しないと先に進めないのでとっとと書いておくことにします。時間もあるし。つか、どこまで書いたっけかw
●新津の夜
駅でバルブ撮影を終えた後はホテルの部屋へ。メシでも食いに行こうかと思ったけど、めぼしい店はなさそう&面倒くさいので駅前のヤマザキデイリーで調達。ビジホの薄暗い部屋で一人食うコンビニメシ。貧しいw
寝る前に明日の食料を調達するついでに駅に入って急行きたぐに・大阪行を追加。過去は寝台特急ゆうづる・はくつる・なは・彗星などで東北・九州地区で運用に入っていた583系が定期運用で入る最後の列車。「急行・寝台列車・583系」と言ういつ廃止になってもおかしくないコンボですね…
寝しなに、「ピョウ!」と言う甲高い汽笛。時刻を調べると、寝台特急日本海の発車時刻。それを消灯の合図にして、寝る事にしましょう。
●新津(7:39発)~五泉(7:56着・8:34発)~新津(8:53着)
翌朝は7時過ぎに目が覚めたが、昨晩から下越地方は雨になっているようだ。SLの出発時刻は新津10:14なのだが、何にもないビジホの部屋でウダウダしててもしょうがないので、駅に行ってみる。ちょうど磐越西線2226D列車・馬下行が入線したので、これに乗車。窓の水滴越しに雨にけぶる新津の市街を眺め、越後の穀倉地帯を行く列車。左手の五頭連峰に雲が低く垂れ込めている。
途中の五泉駅で下車。別に何の用があるわけでもないが、ここ五泉からは以前蒲原鉄道と言う私鉄が信越本線の加茂まで伸びていた。最後に廃止された五泉~村松間の遺構は、今でも五泉駅の跨線橋から見る事が出来る。こんな鉄道が現在もあったら絶対乗ってたと思うのだが、それはもう叶わぬ夢。蒲原鉄道に関しては詳しいHPを見付けたのでこちらを。五泉からは馬下で折り返して来た磐越西線2229D列車・新潟行で新津へ。
●工場見学
それでもまだ新津で1時間程度の空き時間があるので、駅の南西にあるJR東日本新津車両製作所を見学に行ってみる事にする。元々は国鉄の車両の保守点検・整備を目的に作られた工場だが、1994年より東急車輛の技術供与を受け、製造部門がスタート。現在は首都圏の通勤型車両の製造を中心に、相鉄や小田急など大手私鉄の車両の一部の製造も手がけている。後発の利を生かし、場内は最新鋭の工作機械が揃っているハイテク工場だそうな。
新津工場を南側の陸橋から俯瞰。信越本線から右へ引込み線が伸びて、ここから新造車両が出場するようだ。引込み線の踏切から場内を。入口は特に用事がなければ門が閉ざされているようですが、架線は張られているので車両は自力で走行出来るみたいですね。
見学、とは言え場内に入らせて貰える訳でもないので、工場の外周に沿ってグルッと見学。電車の車両を製造している工場だけに建物は非常に大きいのだが、その中を覗う事は出来ず(当たり前)。ただのだだっ広い工場を見ても正直つまんねえな、と思いつつ歩いて行くと、工場の一番外側の側線に今まさに新造中のE233系が留置されていた。さすが出来立てホヤホヤだけにピカピカの車体で、床下なんかはまだ作りかけかな、と言う部分もある。後部車両の銘板には「平成20年製」と言う刻印が打たれ、おそらくこれは新春早々には落成の編成なんだろうね。
長い事中央線は201系の天下だったけど、今はE233系への置き換えが始まっており、新津では現在このタイプを一生懸命製造しているみたいです。既に「八トタ」の文字が刻まれ、八王子の豊田車両センター所属を表しておりますが、ぜひグモに遭わないように走っていただきたいものです(笑)。
●SL登場
ようやく車両工場らしい姿を見れたので満足し、新津駅に戻る。駅に戻る途中で雨が強くなりずぶ濡れになってしまった。SLの到着する新津駅1番線ホームは、「SLの町・新津」を存分にアピールする看板と、主役のお出ましを待つ子供連れと壮年のSLファンが目立つ。名物の駅弁売りも今日はサンタ仕様。カメラを向けたらポーズまでしてくれたので、御礼に(笑)駅弁を購入する事にする。会津若松まで約3時間の長旅だ。
さて、ホームには列車の到着を知らせる案内が流れ、新潟方面からゆっくりとした速度でいよいよ磐越西線8226列車・ばんえつクリスマストレイン会津若松行が到着。到着と同時にホームは特に先頭車両のC57-180を中心に蜂の巣をつついたような大騒ぎになって、老若男女がヤマダ電器も裸足で逃げ出す品揃えのデジタル機器で被写体にアタックする訳であります。ちなみに若いヲタより、壮年のSLファンが人は押すわ画角に入るわでタチが悪いw
●C57-180号って?
さて、平成11年より「復活蒸気」として磐越路の四季を彩るC57-180号機。運転室下部の銘板にあるように、生まれは戦後間もない1946年(昭和21年)、広島県は三菱重工三原製作所にて製造。引退まで新潟機関区に一貫して配属され、現役時代は東北から北陸までの日本海縦貫線の運用に充当されていましたが、昭和44年、羽越本線からの蒸気撤退により同機も引退。そんな中「鉄道の町・新津に蒸気を残したい」と言う新津機関区の職員の申し出を当時の新津市長が快諾。新津駅南東にある新津第一小学校の校庭へ磐越西線の線路から引込み線を敷くと言う荒業で移設し、保存される事になったそうです。
時は流れて平成。上越新幹線のルートからも外され、鉄道の要衝として栄えた「鉄都・新津」の復権のために同機の復活を求める市民運動が活発化。再度走行するための修繕費用2億円のうち、市民がオレンジカードなどのJRの商品を購入する事で1億円をかき集めると言う盛り上がりの末、とうとう大宮工場で同機は復活する事になる。なんともドラマチックな話だ。実際は学校の校庭で保存会の人々の手により丁寧に保存されていたため、費用は半分くらいしか掛からなかったらしいけどね。
C57-180号機を保存しようと思った事。
引退後30年が経過しているにも関わらずきれいに保存されていた事。
復活させようと市民が動き復活費用の1億円が集まった事。
それは、幸運もあったかもしれないが、やっぱり新津が「鉄道の町」だから。
現在同機は機関区のなくなった新津運輸区に籍を置いている唯一の機関車でもあり、同機を担当する機関士や機関助士もこの新津運輸区に所属しているそうだ。
そう思えば、この1台の蒸気機関車は、単なる観光用の一つのイベントツールなんかじゃなくて、鉄道に従事する職員や、旧・新津市民の鉄道に対する憧れ、執念、プライドの塊なんだろう。
この辺りのエピソードは新潟市秋葉区のHP「C57-180の保存と復活」に詳しいのだが、他のコンテンツも非常に専門的な知識とデータが紹介されていて、単なる新潟市内の区のHPにこれだけ鉄道の事が盛り込まれていると言うのがある意味凄いと思います(笑)。市の郊外に鉄道資料館もあるんだけど、日程の都合上行けなかったのが惜しまれる。駅から遠いのよ。
「ガッシャン」と言う客車列車特有の連結器の衝撃を受けて、列車はそぼ降る雨の新津を出発。
物語は続く。
●新津の夜
駅でバルブ撮影を終えた後はホテルの部屋へ。メシでも食いに行こうかと思ったけど、めぼしい店はなさそう&面倒くさいので駅前のヤマザキデイリーで調達。ビジホの薄暗い部屋で一人食うコンビニメシ。貧しいw
寝る前に明日の食料を調達するついでに駅に入って急行きたぐに・大阪行を追加。過去は寝台特急ゆうづる・はくつる・なは・彗星などで東北・九州地区で運用に入っていた583系が定期運用で入る最後の列車。「急行・寝台列車・583系」と言ういつ廃止になってもおかしくないコンボですね…
寝しなに、「ピョウ!」と言う甲高い汽笛。時刻を調べると、寝台特急日本海の発車時刻。それを消灯の合図にして、寝る事にしましょう。
●新津(7:39発)~五泉(7:56着・8:34発)~新津(8:53着)
翌朝は7時過ぎに目が覚めたが、昨晩から下越地方は雨になっているようだ。SLの出発時刻は新津10:14なのだが、何にもないビジホの部屋でウダウダしててもしょうがないので、駅に行ってみる。ちょうど磐越西線2226D列車・馬下行が入線したので、これに乗車。窓の水滴越しに雨にけぶる新津の市街を眺め、越後の穀倉地帯を行く列車。左手の五頭連峰に雲が低く垂れ込めている。
途中の五泉駅で下車。別に何の用があるわけでもないが、ここ五泉からは以前蒲原鉄道と言う私鉄が信越本線の加茂まで伸びていた。最後に廃止された五泉~村松間の遺構は、今でも五泉駅の跨線橋から見る事が出来る。こんな鉄道が現在もあったら絶対乗ってたと思うのだが、それはもう叶わぬ夢。蒲原鉄道に関しては詳しいHPを見付けたのでこちらを。五泉からは馬下で折り返して来た磐越西線2229D列車・新潟行で新津へ。
●工場見学
それでもまだ新津で1時間程度の空き時間があるので、駅の南西にあるJR東日本新津車両製作所を見学に行ってみる事にする。元々は国鉄の車両の保守点検・整備を目的に作られた工場だが、1994年より東急車輛の技術供与を受け、製造部門がスタート。現在は首都圏の通勤型車両の製造を中心に、相鉄や小田急など大手私鉄の車両の一部の製造も手がけている。後発の利を生かし、場内は最新鋭の工作機械が揃っているハイテク工場だそうな。
新津工場を南側の陸橋から俯瞰。信越本線から右へ引込み線が伸びて、ここから新造車両が出場するようだ。引込み線の踏切から場内を。入口は特に用事がなければ門が閉ざされているようですが、架線は張られているので車両は自力で走行出来るみたいですね。
見学、とは言え場内に入らせて貰える訳でもないので、工場の外周に沿ってグルッと見学。電車の車両を製造している工場だけに建物は非常に大きいのだが、その中を覗う事は出来ず(当たり前)。ただのだだっ広い工場を見ても正直つまんねえな、と思いつつ歩いて行くと、工場の一番外側の側線に今まさに新造中のE233系が留置されていた。さすが出来立てホヤホヤだけにピカピカの車体で、床下なんかはまだ作りかけかな、と言う部分もある。後部車両の銘板には「平成20年製」と言う刻印が打たれ、おそらくこれは新春早々には落成の編成なんだろうね。
長い事中央線は201系の天下だったけど、今はE233系への置き換えが始まっており、新津では現在このタイプを一生懸命製造しているみたいです。既に「八トタ」の文字が刻まれ、八王子の豊田車両センター所属を表しておりますが、ぜひグモに遭わないように走っていただきたいものです(笑)。
●SL登場
ようやく車両工場らしい姿を見れたので満足し、新津駅に戻る。駅に戻る途中で雨が強くなりずぶ濡れになってしまった。SLの到着する新津駅1番線ホームは、「SLの町・新津」を存分にアピールする看板と、主役のお出ましを待つ子供連れと壮年のSLファンが目立つ。名物の駅弁売りも今日はサンタ仕様。カメラを向けたらポーズまでしてくれたので、御礼に(笑)駅弁を購入する事にする。会津若松まで約3時間の長旅だ。
さて、ホームには列車の到着を知らせる案内が流れ、新潟方面からゆっくりとした速度でいよいよ磐越西線8226列車・ばんえつクリスマストレイン会津若松行が到着。到着と同時にホームは特に先頭車両のC57-180を中心に蜂の巣をつついたような大騒ぎになって、老若男女がヤマダ電器も裸足で逃げ出す品揃えのデジタル機器で被写体にアタックする訳であります。ちなみに若いヲタより、壮年のSLファンが人は押すわ画角に入るわでタチが悪いw
●C57-180号って?
さて、平成11年より「復活蒸気」として磐越路の四季を彩るC57-180号機。運転室下部の銘板にあるように、生まれは戦後間もない1946年(昭和21年)、広島県は三菱重工三原製作所にて製造。引退まで新潟機関区に一貫して配属され、現役時代は東北から北陸までの日本海縦貫線の運用に充当されていましたが、昭和44年、羽越本線からの蒸気撤退により同機も引退。そんな中「鉄道の町・新津に蒸気を残したい」と言う新津機関区の職員の申し出を当時の新津市長が快諾。新津駅南東にある新津第一小学校の校庭へ磐越西線の線路から引込み線を敷くと言う荒業で移設し、保存される事になったそうです。
時は流れて平成。上越新幹線のルートからも外され、鉄道の要衝として栄えた「鉄都・新津」の復権のために同機の復活を求める市民運動が活発化。再度走行するための修繕費用2億円のうち、市民がオレンジカードなどのJRの商品を購入する事で1億円をかき集めると言う盛り上がりの末、とうとう大宮工場で同機は復活する事になる。なんともドラマチックな話だ。実際は学校の校庭で保存会の人々の手により丁寧に保存されていたため、費用は半分くらいしか掛からなかったらしいけどね。
C57-180号機を保存しようと思った事。
引退後30年が経過しているにも関わらずきれいに保存されていた事。
復活させようと市民が動き復活費用の1億円が集まった事。
それは、幸運もあったかもしれないが、やっぱり新津が「鉄道の町」だから。
現在同機は機関区のなくなった新津運輸区に籍を置いている唯一の機関車でもあり、同機を担当する機関士や機関助士もこの新津運輸区に所属しているそうだ。
そう思えば、この1台の蒸気機関車は、単なる観光用の一つのイベントツールなんかじゃなくて、鉄道に従事する職員や、旧・新津市民の鉄道に対する憧れ、執念、プライドの塊なんだろう。
この辺りのエピソードは新潟市秋葉区のHP「C57-180の保存と復活」に詳しいのだが、他のコンテンツも非常に専門的な知識とデータが紹介されていて、単なる新潟市内の区のHPにこれだけ鉄道の事が盛り込まれていると言うのがある意味凄いと思います(笑)。市の郊外に鉄道資料館もあるんだけど、日程の都合上行けなかったのが惜しまれる。駅から遠いのよ。
「ガッシャン」と言う客車列車特有の連結器の衝撃を受けて、列車はそぼ降る雨の新津を出発。
物語は続く。
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