青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

狭いし、サバイシ、鯖石。

2024年07月11日 21時00分00秒 | 弘南鉄道

(リンゴ畑にひっそりと@鯖石駅)

津軽は、この日の朝も梅雨とは思えないような強い陽射しの天気であった。国道7号線からわき道にそれ、りんご畑に隠れたような鯖石駅。薄く掠れた書き文字とともに、ローカル私鉄の雰囲気が溢れていて好ましいですね。【弘南大鰐行き・中央弘前行き】というホームの行先表示板がどちらにもついていて、交換がなければ定位で奥の直線側のホームを使う「一線スルー」の構造っぽいのだが、現在は中央弘前行きが手前側、大鰐行きが奥側を使っています。右側通行なんですね。これは推測なんだけど、かつて大鰐線が快速運転をしていた時に、通過する快速電車は奥の直線側を使って、交換する電車が分岐側の手前のホームに入っていたのではないかと思うのです。鯖石駅は弘前電気鉄道開業時からの駅ですが、快速運転を開始する際に大鰐駅側に100m移動して交換設備を新設したとあるので、この時に通過電車対応のための一線スルー構造に改良したのでしょう。

鯖石駅と言えば、この矢印型の細長いトタンの待合室。狭いホームに建てられているせいで、中は驚くほど薄っぺらい。雨をしのぐというよりは、冬場の吹雪の時期などに吹きっ晒しのホームに立たされてはたまらないだろうから、そういう風よけの意味合いもあるかもしれない。中の細長い木製のベンチに腰掛けてみたが、ただひたすらに蒸し暑いだけであった。鯖石駅、海も何も近くない場所に「鯖」なんて地名があるのは少し不思議な感じなのだが、津軽平野を流れている平川がこの辺りから秋田県境へ向かう山々に囲まれて狭くなっていくあたり・・・狭い=せま=セバ=鯖、と変化して行ったのではないかと想像したのだが、よくよく調べると「鯖石」というものは溶岩が冷えて固まった溶結凝灰岩のことを言うそうだ。冷え固まった石の模様があたかも鯖の背中の模様のように見えるから、ということらしい。そして、八甲田山から流れ出た溶岩流が、この辺りで「サバ石」となって見つかったという記録もあって、サバ石は切り出されて建材なんかにも使われていたらしい。どうやら由来的にはそっちが正しいのでしょう。

現在の大鰐線は、基本的に終日1時間ヘッド。交換も津軽大沢で行われるパターンダイヤで、その他の交換駅はその設備を持て余している。ここ鯖石駅では、平日の朝の7時台に1回だけ交換が設定されているのだが、この日は土曜日なので交換相手の電車は運休。ただでさえ少ない列車はさらに間引かれてしまっていて、少々寂しくもあり。大鰐線、通勤というよりは沿線の学校向けの通学需要が中心ですから、学校休みの土曜日はニーズがさらに落ちてしまうのでしょう。鯖石駅にゆっくり入線して来た中央弘前行きは、始発電車で大鰐に下った7040F。大鰐線、弘南線と比べて原形顔の東急7000系が主力で残っているのがいいですよね。弘南線は中間車改造ののっぺりした顔が中心ですのでねえ・・・

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早起きは、朝湯朝市農作業。

2024年07月09日 17時00分00秒 | 弘南鉄道

(北国の朝は早い@弘前市旧市街の某旅館にて)

夜の大鰐線を一往復した後は、中央弘前の駅から宿に戻り、ビールをひと缶呑んで寝てしまう。朝4時にトイレに起きた際に、もう外はほの明るく。ただでさえ北国の朝というのは夜明けが早いものだが、夏至の時期の朝はなおのこと早い。部屋の障子を開けたら、濡れ縁の向こうから既に6月の津軽の朝日は昇り始めていて・・・暫くテーブルの上に放り投げてあった飲みさしのお茶のペットボトルをカラにして、朝5時のNHKニュースをぼんやりと眺める。折しも、継続支援で合意がなされた弘南鉄道の大鰐線のニュースが流れていた。テレビだけ見ていると東京には伝わってこないニュースだが、地元では一定の関心を持って受け止められているらしい。

すっかり目も覚めてしまい、ニュースを見ながら身支度を整えて朝5時半、帳場の隅に部屋のカギをお返しして宿を出る。すっかり灯りの消えた朝の土手町繁華街には、昨夜の夜の香りがそこはかとなく残っていた。秘密のケンミンショー調べであるが、日本一の早起き県民は青森の人であるらしい。自分も土休日限定だけどこのくらいの時間には起きてしまうので、青森県民になる素質はあるんだよな。そして、それが旅先だとなおさら。宿でゆっくり朝ごはん・・・という思考にはなかなかならないの、いつも宿泊費がやや勿体ない泊まり方になってしまう。ただ寝るだけならカプセルホテルだってサウナだっていいわけなんだけども。

朝の中央弘前駅には、昨夜の最終列車で大鰐から戻って来た「りんごねぷた列車」がそのまま留置されていた。土淵川のほとりの駅は、いつ眺めても派手な風景はなくとも心に沁みてくるような味わいがあって、改めて愛着が出てしまう。中央弘前の始発電車は朝6:50と少々遅め。まだまだ電車の動く時間ではないので、折角レンタカーを借りていることもあるし、とりあえず朝の顔洗い的なお湯に行きます。津軽来て朝風呂しない理由がないのよ。青森県民の「三大早起きしてやること」と言えば「朝湯・朝市・農作業」なのでね(笑)。青森の温泉銭湯の朝の早さというものは、あなたたちいつ寝てるんですか?と聞きたくなるような早さで稼働していて、朝5時からオープンの温泉銭湯に朝5時に行ったらもう開いていて、浴室で4~5人のオッサンたちがお湯をザバザバ使っているのである。営業時間の概念って。

弘前市街から大鰐線に沿ってリンゴ畑の中を走る事30分、大鰐の温泉街に来ました。かつての津軽の奥座敷、温泉とスキーで栄えた街の面影は褪せつつありますが、今でもいくつかの雰囲気ある老舗宿と共同浴場が湯の街を守り続けています。お邪魔したのは「公衆浴場・青柳会館」。大鰐温泉の三つある共同浴場の一つ。200円で入れる街の共同浴場は、朝6時からのオープン。番台に座っていた気のいいおばちゃんが「どちらからいらしたの」なんて声をかけて来る。広いタイル張りの浴室に、なみなみと湯を湛えた大きな浴槽が一つ。無色透明にして清澄、温泉らしい温泉のビジュアルはピリッと44℃くらいの熱めで目が覚めます。肌触りにとろみがあっていいお湯ですね。

「お気をつけてネ」なんて送り出された大鰐温泉を後に、湯上りの体をクルマのエアコンをガンガンに効かせて宥める。今日も梅雨晴れのムワッとした暑さだ。津軽大沢の駅近く、大鰐線をオーバークロスする県道の上に陣取った。りんご畑の中に、農薬を噴霧する作業車が次々と入って行く。既に靄に霞んだような岩木山を見晴るかすストレートの遠くに、見えてからなっかなか近付いてこない大鰐線の始発電車の姿があった。気付いてくれたのか四種があるのか、電車は短いタイフォンを鳴らして足元を通り過ぎる。いやはや、こういう何の気ない地方私鉄の朝の一コマには、アタマの中の澱みたいなものを浄化する力があります。こういう風景が、どこかの誰かの「行ってみたいな」に繋がればいいなと思うのだけど。

朝7時。少し遅めの始発電車を、リンゴ畑で捕まえた。

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ゆらゆらり リンゴ召しませ、蜜の味。

2024年07月07日 10時00分00秒 | 弘南鉄道

(ねぷた絵・華やか@中央弘前駅)

青森と言えば、東北夏の三大祭りの一つである「ねぶた祭」がつとに有名。東北三大祭りと言えば「仙台七夕・青森ねぶた・秋田竿灯」ですが、そんな青森のねぶた祭は、「夏の昼間に突然襲ってくる眠気=邪気を払うための祭り」として中国から伝わったものらしい。ネムテ(眠てぇ)→ネムタ→ネブタ。夏は暑いから夜は寝不足になるし、昼間に突然眠気が襲ってきても不思議じゃないんでしょうが、それを「邪気」としていた昔の人の感覚はなんか面白いよな。ちなみに、青森は「ねぶた」、弘前は「ねぷた」、五所川原は「立佞武多」で、祭囃子の掛け声も青森は「ラッセーラ」、弘前は「ヤーヤードー」、五所川原は「ソーレソレ」とそれぞれに異なる。ねぶたの山車の形も、青森は横に大きく、弘前は優美な扇形、そして五所川原は縦に長い(高い)。五所川原の立佞武多、最大級のものはビルの7階建てに相当する大きさだそうで、専用の建物に格納されているそうなのだが、それってもはやガンダムである。ちなみに五所川原の立佞武多が出撃(?)する瞬間は、Googleマップにて見られますのでお好きな方はどうぞ。

そんな弘前の街の片隅から出て行く弘南鉄道の大鰐線。終電一本前の電車に乗って、缶チューハイ片手に大鰐までふらりとほろ酔いの旅は、都合よく「りんごねぷた列車」の運用に当たりました。これも大鰐線の活性化策のひとつ。車内にリンゴの形をした電飾を吊るして並べてライトアップ。電力は、車内に持ち込まれたポータブルバッテリーという手作り感満載の設え。しかも金・土・日限定で夜は車内灯を落とし、りんごねぷたの灯りだけで運行する特別運行です。薄暗い車内に灯るりんごねぷたのオレンジの優しい灯りが、東急7000系の、今となってはレトロな車内の雰囲気にマッチして非常に幻想的な空間に仕上がっています。梅雨の湿った車内の空気を、年代物の扇風機がゆっくりとかき回していて、吊り革には「東横のれん街」の文字が躍る。津軽弘南大鰐線、ゆらり揺られて、黄金の蜜に輝く夜を味わう。

中央弘前の駅を出た「りんごねぷた列車」は、弘高下、弘前学院前、聖愛中高前、千年、小栗山と、弘前市街の駅を細かく小さく停車して行く。ただでさえ少ない乗客は、千年辺りまでであらかた降りてしまった。乗客の姿がほぼ消えた車内から、小栗山、松木平、津軽大沢と暗闇の中で駅が過ぎ去るのを眺めているだけ・・・大鰐線のレール、なかなかの保線状況で、ねぷたのぼんぼりが風流に揺れている。飲み終わったチューハイの缶を片手に、ほろ酔い気分で暗闇のリンゴ畑の中を往く電車にゆるゆると揺られていると、視界も気持ちもリンゴの蜜のようにトロリとしてきて、陶然とする。このまま黄泉の国でも行ってしまいそうだ。弘南大鰐線の夜旅、土手町で一杯やってから大鰐まで一往復とか、いいと思うんだけどなぁ。弘前観光の一つとしてお勧めしたいよね・・・。「りんごねぷた列車」は6月までで、7月からは「金魚ねぷた列車」に代わるらしい。この「ねぷた列車シリーズ」は毎年やってるそうだが。

中央弘前から30分、終点の大鰐に到着。ホームに置かれた津軽こけしの灯りに照らされて浮かび上がるコルゲート、東急の初期型ステンレス車輛らしい伝統のスタイルだ。この列車が折り返すのが、中央弘前行きの最終列車。ホームの行灯は、けなげに中央弘前行きがどちらのホームから出るのかを表示しているけど、もうそんな設備は必要ないくらい本数は少ない。存廃に揺れる大鰐線、応援してはいるけれど、正直前途の厳しい話しか聞こえては来ません。沿線自治体である弘前市と大鰐町が支援を投げ出さないことが何よりの朗報なのだが、少子高齢化と過疎化で痛む地方都市の財政、果たして赤字の改善の見通しも立ちにくい公共交通に、どこまでの支援のコンセンサスが取れるのであろうか。

個人的には、赤字の改善が見込まれなくても、「それでも残すんだよ!」という地元の覚悟が決まっているのであれば、それは一つの結論として尊重すべきであるし、外野がやいやい言うことでもない。奇しくも6月に示された弘前市と大鰐町の判断は「利用状況の急激な改善は見込まれないまでも、路線を維持するだけの蓋然性はある」&「赤字額もひっくるめて腹をくくる」という地元の覚悟たるソレではないかと思ったりもする。ただし、去年の脱線事故みたいに、次に大きな設備更新が必要になった場合はどうするんでしょうね。さすがに容認出来ない金額が出てきたら、覚悟を決めなければならない時が来ると思うのだが・・・それが少しでも遠い未来の話になるように願うしかないんだけど。

大鰐線の「りんごねぷた列車」の車内映像を撮影してみました。
好きだけでは前に進まないけれど、ファン目線で出来ることの原動力って「好きだからこそ」の進める道なんだよねえ。
そして、レールさえあれば、好きの道を走ることが出来る。
素敵な路線、素敵な列車であることに疑いはなくて、そうなると出来ることと言えば、やっぱり乗って魅力を伝えることなんじゃないかと・・・

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ネオン街、夜の優しい駅灯り。

2024年07月05日 23時00分00秒 | 弘南鉄道

(土手町慕情@中央弘前駅)

この日の宿は、中央弘前駅付近の「土手町」と言われる旧市街に取った。大手のチェーン系ビジネスホテルを選ぶなら、圧倒的に弘前駅周辺だったのだが。荷物を置いて部屋付きのお茶セットで一息ついてから、夜の町に繰り出す。弘前市街でも随一の歓楽街である土手町付近、地方都市といえども金曜の夜は路地に建ち並ぶ飲食店やスナック、バーや夜職の方々のきらびやかなお店に明かりがともり、ボーイさんは建物の前で道行く人を誘い込んでいる。そんな弘前の夜を横目に、土手町から鍛冶町へ続く坂道を歩きつつ土淵川のほとりに出ると、中央弘前の駅が見えてくる。いかにも「郊外電車」の始発駅として、ひときわ風情ある佇まいを今に残すこの駅が好きだ。金曜の夜、華やかなネオン街を一歩外れた片隅で、津軽の優しさと温かみを閉じ込めたようなオレンジの電飾が輝く。

弘南鉄道大鰐線・中央弘前駅。昭和27年、弘前電気鉄道が開通した際に設けられたターミナル駅である。弘前電気鉄道は、弘前の有力な財界人と三菱電機がタッグを組んで設立された鉄道会社で、大鰐から奥羽本線の西側をバイパス的に通過し、弘前城を中心としたかつての弘前の旧市街にアクセスするルートで敷設されました。将来的には、五能線の板柳や、弘前で西方へ分岐して西目屋村方面を目指す計画もありましたが、当初より三菱電機のデモンストレーション的な路線だったようで、地上設備や車両は常にギリギリの間に合わせの状態でした。結局、一次開業であった大鰐~中央弘前間の開通以降は具体的な延伸計画に着手できず、弘前駅の西方1.3kmの位置にあるこの中央弘前駅をターミナルに弘前市街西部の交通を担いますが、国鉄線に接続しないという線形が致命的となって利用者は低迷。昭和45年に経営危機から弘南鉄道に吸収され、弘前電気鉄道は解散してしまいました。

午後8時、中央弘前駅の、人っ子一人いない待合室。コンビニで買った缶チューハイをちびり。あまりお行儀が良いとは言えぬ所業だが、金曜日の夜だし赦してほしい。弘前電気鉄道として20年も営業出来ず、そして弘南鉄道大鰐線となってから半世紀。昭和から平成にかけてのバブル期は、団塊の世代の通勤通学需要もあって乗客数を増やしましたが、兵どもが夢の跡。2013年(平成25年)に弘南鉄道の社長自らが大鰐線の存廃に言及、その後は沿線自治体の必死の支援で何とか生きながらえている状態にあります。中央弘前駅周辺の完全な旧市街化、頼みの綱の大鰐町はバブル期のリゾート開発に失敗し財政破綻状態で頼れる状態になく、そもそも一度経営難で立ち行かなくなった路線ですから、なかなか活性化策も出てきません。収益面の悪化が設備投資を細らせるのか、昨年は8月の大鰐駅構内での脱線事故をきっかけにした全線の路盤調査で、多くの軌道変異や不具合が発覚。弘南線・大鰐線双方の運行を取りやめ、設備点検のため半年近くに亘る長期間の運休を余儀なくされていました。

当然、半年も電車を動かさなければ全く収益が上がりませんので、2024年3月の弘南鉄道自体の決算は会社全体で2億3000万円の経常損失を計上しました。赤字額は弘南線が9662万円、大鰐線が1億3068万円で、さすがにサイフの底が抜けるレベルの赤字幅でございます。2020年(令和2年)に「弘南鉄道活性化基本方針」として打ち出された施策は、「2020年からの10カ年の支援を前提としつつも、2023年度末までの収益状況によっては存廃を判断する」という内容になっていまして、正直、これがあったから「弘南線はともかく、ワニ線はここまでかぁ・・・」って内心思ってたんですよね。そしたら、私が津軽を訪れたその日に弘前市長と大鰐町長が何やらゴニョゴニョと話し合いを行った結果、「新型コロナによる乗客減や脱線事故の運休など、基本方針を立てた時とは前提条件が違い過ぎる」「大鰐線を廃止しても、全国的なドライバー不足で代替バスの確保は容易ではない」とう理由で、あっさりと両市町長はゴールポストを移動。やや問題を先送りした感のある(?)支援の継続を決めてしまったのでありました。

夜の中央弘前に佇む大鰐行きの7000系。真っ暗な土淵川と、川沿いの赤提灯が郷愁をそそる。おそらく、大鰐線を含めた弘南鉄道の次のターニングポイントは、「2020年からの10カ年計画」が折り返しを迎える2025年度末あたりになるのではないか・・・?という私の見立てなのですが。現状の大鰐線、輸送密度が400人/日ということで、国鉄末期の赤字ローカル線の存廃は「輸送密度が4,000人/日以下」が条件であったこと考えると、とんでもない輸送密度の低さである。勿論、輸送密度が4,000人切ってる路線なんて現在はいっぱいありますからそれが全てではございませんが、本数を減らし駅員を減らし設備投資も控えて極限まで合理化した大鰐線でも、いまの乗客が2倍になってようやく収支均衡になるかならないか、という状況なんだそうで・・・

現在は赤字の約8割を弘前市が負担する補助金で運行していますので、ここで津軽の中核都市である弘前市が「支援する」と言ったからには今しばらくレールは続くのでしょう。以前は「代替交通を走らせるに足る道路整備が出来ていない」というのが赤字ローカル線の廃止の除外要件だったのですけど、昨今は「バス転換しようにもドライバーの確保のメドが立たない」というのがローカル線廃止の除外要件に加わっているように思う。消極的な廃線回避というか、弘前市としては公共交通を委ねる先のないまま(おそらく投げるにしろ系列の弘南バスなんでしょうが・・・)、さりとて大鰐線は抜本的な改善策がないまま、存続と活性化の道をもう少し探って行く事になります。

終電一本前の大鰐行きに乗り込む乗客は10人程度。
お酒が絡めば電車を使うか、と言えばそうでもなく、土手町の路地には酔客相手の代行の軽自動車が目立つばかり。
終車も21時30分では、一次会で終わったお客さんくらいで、さすがに早過ぎますかねえ・・・

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太陽の、一番長い一日に。

2024年07月03日 17時00分00秒 | 弘南鉄道

(初夏のサンセットステージ@弘南鉄道・柏農高校前駅)

津軽鉄道にお邪魔した後は、温泉休憩を経つつ大きく場面を転換して弘南線の柏農高校前の駅にやって来ました。岩木山を見晴るかす田園地帯に、簡素なホームが長く続く柏高前の駅。春から夏にかけてのこの時期、岩木山越しに夕陽が沈んでいく風景を撮る事が出来ます。奇しくもこの日は夏至で、一年で一番昼間が長い日。太陽は西に傾き始めてはいますが、まだまだお岩木山の上の高い場所にあって、夕暮れまでは少し遠そう。手元のスマホで日没時間を調べると、津軽平野でも19時ごろ。弘南線、コロナ前は日中でも30分に1本の運行頻度を維持していたのですが、現在弘南線は日中1時間ごとに間引かれ、朝夕のみが30~35分ごとというダイヤ。そこで、本数が多くなる夕方の時間帯を見計らって、沿線に繰り出したのでありました。

夕方5時を過ぎても、まだまだ岩木山の上に太陽は燦然と輝いて、紫外線の強そうな初夏の日差しを柏農高校前の駅に降り注いでいました。黒石行きから、家路を急ぐ高校生が降りて来る。前回この駅を訪れた時は、2月の上旬のこと。一面の雪景色の中を、紅い太陽が秋田県境方面・・・おそらく矢立峠の方向に沈んで行ったのを覚えている。あれからもう5年が過ぎた。時の流れは速いものなのだが、あの時の冬の津軽の鮮烈な思い出がなんとも忘れられず、またここに来てしまった。季節は真逆だが、四つの季節を過ごしてこその地方私鉄かなと思うところもあり。遠くてなかなか来れないけれども。

太陽さん、流石に一番昼間の長い日に、空の上でまだまだ元気。それでも、時計が進んで行けば徐々に光線は赤味を帯びて、初夏の津軽を黄金色に染めて行く。この時間帯は、柏農高校前から津軽尾上を挟んで尾上高校前までの区間をロケハンしながら移動していた。若苗がすくすく伸びる尾上高架橋。浅瀬石川から引き込まれた灌漑用水と田園地帯を渡って行くコンクリートモルタルの高架橋は全長344m、車窓に大きく広がる津軽富士の姿、高度を下げて行くにつれて、そのシルエットが濃くなっていく。遠く尾上高校前の駅の踏切が鳴って、黒石行きの電車が右へ、そして弘前行きの電車が左へ、軽やかなジョイント音を奏でながら走り去って行く。津軽の初夏、地元の人にとってみたら何のことはない景色なのだろうけど、日本の美しい農村風景の中に列車を置く喜びと、そしてそこを切り取る喜びというものが確実にある。

再びに舞台を移して柏農高前。午後7時を前に、ようやっと観念したように夏至の陽が落ちて行く。 初夏の津軽平野、太陽の一番長い日。 岩木山の山裾に、とうとう太陽が沈むか沈まぬかのタイミングで、ホームに滑り込んできた黒石行き。 太陽は、窓越しの高校生と一緒に、電車に乗って行ってしまいました。

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