tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

春日万燈籠(産経新聞「なら再発見」第108回)

2015年02月28日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版に好評連載中の「なら再発見」、今日紹介するのは「春日大社の万燈籠 一斉にともす幻想的な風景」(1/24付)、執筆されたのはNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の石田一雄さんである。石田さんは本欄の最多執筆者である。春日大社ではこの3月(2015年)から、式年ご造替が本格的にスタートする。
※トップ写真は、灯がともされた回廊の釣燈籠(2014年8月)

古くから、奈良の名物は「奈良墨、奈良筆、 奈良曝(さらし)、春日燈籠、町の早起き」といわれてきた。春日大社には、1万はオーバーとしても、約3千基の燈籠があり、節分とお盆には一斉に火が灯される(春日万燈籠)。では、全文を紹介する。
 
 春日大社では、今年3月から来年11月にかけて第60次式年造替が執行される。20年に一度の社殿の修繕事業だ。
 大社の境内には、石燈籠が約2千基、釣燈籠が約千基、あわせて約3千基もの燈籠があることで知られる。石燈籠では石清水八幡宮(京都府八幡市)の約650基などをしのいで日本一だ。
 燈籠は中国で生まれ、仏教とともに日本に伝わった。仏に灯りを献ずるのが本来の目的で、金堂や塔の前に1基建てられた。その後照明用としても発展し、燈籠自体を供物として献上する風習もでき、数が増えていった。また神社にも建立されるようになった。
 大社の宝物殿(現在は休館中)入り口ロビーに、古く貴重な石燈籠が保管されている。平安時代の柚木(ゆのき)型燈籠と鎌倉時代の御間(おあい)型燈籠(いずれも重要文化財)だ。前者は関白・藤原忠通(ただみち)が寄進したと伝わり、後者は本社と若宮を結ぶ御間道(おあいみち)沿いにあったものだ。
      ※   ※   ※
 毎年2回、節分と中元(8月14日・15日)の「万燈籠」ですべての燈籠に一斉に献灯がともされる幻想的な風景はここでしか味わえない。
 現在では年2回の万燈籠だが、常夜燈と刻まれた石燈籠があるように、江戸時代までは毎日すべての燈籠に灯がともされていた。灯明の油を供給したのが、市内油阪町にあった油座で、一晩で280リットル使ったという。
 この油代の工面を含め燈籠関係の実務を行っていたのが禰宜(ねぎ)という下級神官で、近世からは幕府から灯明田(とうみょうでん)を拝領し、その中からも灯明料を出した。彼らは燈籠の寄進を呼び掛けるなど崇敬者と神社の仲立ちとして「御師(おし)」と呼ばれた。燈籠の寄進者から献納された灯明料の中から油代を払い、代々その家の燈籠を管理し毎晩灯をともした。
 明治維新後、油代の基盤となっていた1650石の灯明田が没収されたため、毎晩灯をともすことができなくなった。このままでは神様に申し訳ないと現在のような万燈籠神事が明治21年の節分から行われることになった。
      ※   ※   ※
 各時代の燈籠寄進者をみていくと、室町時代には地元の郷士からの寄進が多く、安土桃山時代には石田三成(みつなり)の右腕として名をはせた嶋左近(しまさこん)や藤堂高虎(とうどうたかとら)など著名な武将が奉納した。江戸時代には大名や武士に加え、経済力を持った商人や同業者組合からの奉納が大幅に増加した。現在も石燈籠や釣燈籠が毎年数基ずつ奉納されている。


宝物殿入り口ロビーに保管されている柚木型燈籠(右)と御間型燈籠(左)

 境内に立ち並ぶさまざまな型の石燈籠の中には、仏が仮の姿で神として現れたとする考えから生まれた「春日大明神」の名を刻んだものが15基あり、「一晩で3基見つけ出したら長者になれる」との言い伝えがある。
 万燈籠の神事は、本殿前の「瑠璃(るり)燈籠」(復元品)に灯をともし供えることから始まる。釣燈籠では最古とされるこの燈籠の原品は関白・藤原頼通(よりみち)が長暦2(1038)年に寄進したものと伝わるが、現存するものは鎌倉時代以降の遺品だ。木製黒漆塗六角形で、小さな瑠璃玉を銅線で連ね、側面を連子窓(れんじまど)のように形作った非常に珍しいものだ。
 回廊に整然と連なる釣燈籠に一斉に灯がともされると、柔らかな光が朱塗りの柱にも映え幻想的な美しい光景が広がる。今年は、恒例の年2回に加えて、式年造替を記念し、3月29日から31日までの3日間、奉祝万燈籠が行われる。
 当日は、参道のすべての石燈籠にも灯がともされるが、明るい夜に慣れた目にはかなり暗い。懐中電灯を持参して、足元に気をつけながら、ゆっくり境内を巡拝するのがおすすめだ。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)


節分の万燈籠の時期には、興福寺で豆まき(鬼追い式)が行われるので、これとセットで訪ねることができる。お盆(8月14~15日)には高円山の大文字送り火(8月15日)、東大寺の万燈会(8月15日)、なら燈花会も一緒に見物することができる。

さらにご造替の今年は「奉祝特別万燈籠と御本殿特別拝観」(2015年3月29~31日)も行われる。ええ古都なら(南都銀行の観光サイト)によると《御造替を記念して境内にある燈籠約3,000基(石燈籠約2,000基、釣燈籠約1,000基)に浄火が灯されます。朱塗りの社殿が暗闇に浮かび上がり、幻想的な雰囲気に包まれます。また御仮殿の移殿へも参拝いただけます》。今年と来年は、春日大社から目が離せない。

石田さん、興味深い記事を有難うございました。皆さん、ぜひ春日大社をお参りください!
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奈良時代の薬草園がルーツ 薬園八幡神社(産経新聞「なら再発見」第107回)

2015年02月24日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、今回(1/17付)登場するのは、大和郡山市にある古社・薬園(やくおん)八幡神社。タイトルは「薬園八幡神社 屋根、狛犬…“不思議の園”」、執筆されたのはNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」会員の藤村清彦さんである。
※トップ写真は薬園八幡神社の唐破風(からはふ)の付いた幣殿

藤村さんはいつも、私などが想像もつかないマニアックな話を探してこられ、詳しく調べてお書きになる。今回もこの神社にまつわる超マニアックな話である。いきなり本文を読むと面食らうので、予習のため、南都銀行の観光サイト「ええ古都なら」から概要を紹介しておく。

平城京の薬草園に由来する古社
近鉄郡山駅から東へまっすぐに進んだ道沿いに、通称「やこうさん」と呼ばれる「薬園八幡(やくおんはちまん)神社」がある。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平勝宝元(749)年の記録によれば、平城京九条大路の南、梨原に、この宮があったとあり、「八幡」神をこの新宮内の神殿にまつって、「薬園」の名をつけて命名したのが始まりという。

中世には、東大寺領薬園荘の守り神とされ、郡山城築城の際には塩町から現在の場所に移された。春日造りの檜皮葺き(ひわだぶき)の本殿は、ところどころに極彩色が残る。見事な吊り燈篭(つりどうろう)が並ぶ社殿は、江戸時代に再建されたものだが、桃山時代のようすをよく残しており、県の指定文化財になっている。

境内には「薬園」の名にふさわしく、「かりん」などの薬草が植えられ、こじんまりとしたなかに清々しい雰囲気があふれる。入口に立つ石灯篭の文字は、藩主柳澤家にゆかりある家に生まれた、文人であり画家でもある、柳 里恭(りゅう りきょう、1703~1758年)が書いたものといわれている。そのほかにも平安時代の特徴を有する僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)や女神像など、由緒ある品々が伝わる古社である。


つまり「やこうさん」は、もと平城京の南端に祀られ、中世には薬園荘(東大寺領)の守り神となった。のちに現在地に移築。建物は再建されたものだが、往事の特徴をよく残す。灯籠や神像も興味深い…、というものである。では、そろそろ全文を紹介する。

 薬園(やくおん)八幡神社(大和郡山市材木町)は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に由緒が記された古社だ。創建は、大仏鋳造の守護神として、宇佐(うさ)神宮(大分県)から八幡神が勧請(かんじょう)された天平勝宝元(749)年。奈良に入った八幡神は平城京の南、薬草園のあった梨原(なしはら)の宮に建てられた新殿に迎えられ、7日の悔過行(けかぎょう)を経て東大寺に入った。
 このとき八幡神は分霊(ぶんれい)されて梨原で祀られ、後に現在お旅所となっている魚町に移り、延徳3(1491)年に現在の材木町に鎮座することになったと伝わる。
      ※   ※   ※
 薬園八幡神社では歴史の謎を楽しみたい。まず八幡大神が留まった「梨原」の地はどこか。大和川―佐保川を船で上って来たとすれば、羅城門(らじょうもん)に近い「奈良口(ならぐち)」付近で下船し、東へ進んで「神殿(こどの)」あたりから北上して東大寺を目指したのではなかろうか。神殿という地名から梨原の神殿の地が想像される。
 境内で面白いのは建物の配置と様式だ。北側に鳥居と表門がある。その先の中央が通路になった割拝殿(わりはいでん)を抜けて左に90度向きを変えると、祭儀を行う幣殿(へいでん)と本殿が連なる。幣殿と本殿が西を向くのは珍しいが、これは郡山城を護るためか。
 八幡宮の総本宮宇佐神宮は南面で流造(ながれづくり)だが、当社本殿は春日造(かすがづくり)で、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の棟(むね)には十六弁菊花紋が付いている。また幣殿と拝殿の屋根に唐破風(からはふ)がのる。唐破風というのは、中央部を凸形に、両端部を凹形の曲線状にした玄関の屋根の形である。1社に2つも唐破風があるのも珍しい。



安政の大地震の記録が残る石燈籠

 次は燈籠に注目したい。表門外の一対の石燈籠の文字は、池大雅(いけのたいが)に絵を教えたという文人画家柳里恭(りゅうりきょう)(柳沢淇園(やなぎさわきえん))の筆になるものだ。表門を入った左側の石燈籠には、「安政元(1854)年6月14日夜発生した伊賀上野を震源とする大地震(おおじしん)から逃れた大坂と郡山の商人たちが、神恩(しんおん)に感謝して寄進した」旨が刻まれており当時の世情を伝える貴重な記録だ。
 その隣には「高良(こうら)大明神」の石燈籠が立っており境内には高良社が祀られている。これは佐賀県の高良大社の神を表す。なぜ九州の宇佐や高良の神々が大きな力をもつと評価されて奈良へ招かれたのか。興味ある向きには古田武彦(ふるたたけひこ)氏の著作集が参考になる。
 さらに幣殿の西側には珍しい南部鋳物(なんぶいもの)製の燈籠が一基ある。文政4(1821)年のもので、龍が浮き彫りにされている。基礎は石で八角形に組まれている。八角の意匠は寺社ではめったに使われないが、この形は皇室に縁(ゆかり)があるからだろう。この燈籠が先の大戦中の金属供出を免れたのはこのあたりに理由がありそうだ、と平田宮司は推測する。
      ※   ※   ※
 見逃がせないのは、拝殿の入り口にある天明元(1781)年銘のある一対の狛犬(こまいぬ)。わが国で2番目に古いもので、向かって右が雌、左の口を閉じ頭頂に一角を有するのが雄、よく見ると共に雌雄のしるしをつけている極(きわ)めて珍しいものだ。雄の両頬には穴があり、右頬の穴には緑青(ろくしょう)が詰まっている。銅のヒゲが埋め込まれていた痕(あと)のようだ。



左頬にひげの穴がある雄の狛犬

 薬園八幡神社に残された記録や文字、形は現代の私たちに何を伝えようとしているのだろうか。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)

「やこうさん」は、JR郡山駅から徒歩5分、近鉄郡山駅から徒歩10分の場所にある。ぜひ、この「不思議の宮」をお参りしていただきたい。藤村さん、今回もマニアックなお話を有難うございました!

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小泉庚申堂(産経新聞「なら再発見」第106回)

2015年02月07日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、106回目となる今回(1/10付)は、「小泉庚申堂 60日に一度 虫の告げ口防ぐ」、書かれたのはNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の石田一雄さんだ。石田さんは、本欄の最多出稿者である。小泉町(大和郡山市)に、こんな立派な庚申堂があったことは初めて知った。初庚申の日(今年は2月13日)は、境内も賑わうそうだ。まずは全文を紹介する。
※トップ写真は小泉庚申堂

 大和郡山市小泉町に大和を代表する庚申(こうしん)さんがある。正式名は尭然山金輪院(ぎょうねんざんこんりんいん)だが、小泉の庚申さん、小泉庚申堂として親しまれている。JR大和小泉駅から西北へ、富雄川を越えて徒歩で約10分の場所にある。門前に「一國一宇庚申」と刻まれた石標がある。大和国の庚申信仰の総道場という意味だ。
 当寺は江戸時代の初め2代目小泉藩主片桐貞昌(かたぎりさだまさ)(石州(せきしゅう))の時、家老で茶人の藤林宗源(ふじばやしそうげん)が創建し石州が8石を寄進した。その後富雄川の氾濫で流失したが、再建された。西門は小泉陣屋の遺構だ。
      ※   ※   ※
 庚申とは、暦、時間、方位などに使われる十干十二支(干支(かんし))の一つだ。庚申信仰は中国の道教思想に由来する。人間の体内には生まれ落ちたときから「三尸(さんし)の虫」が住んでいる。この虫は、上尸(じょうし)・中尸(ちゅうし)・下尸(げし)の3種類で、それぞれ頭、腹、足にいる。
 この虫は60日に1度の庚申の日の夜、寝ている間に体から抜け出て天帝にその人の悪行を知らせて寿命を縮めるという。それで、その虫が天帝に告げ口しないよう、その夜は眠らずに身を慎む庚申待ちという風習が生まれた。
 これは平安貴族の間で始まり、江戸時代には庶民に広まった。近隣の人々が庚申講をつくり、庚申の日に集まって夜通し眠らず酒宴を行うようになった。本尊の青面金剛(しょうめんこんごう)が、三尸の虫を押さえてくれるという。
 小泉庚申堂本尊の大青面金剛薬叉(やくしゃ)尊絵像は、3目6臂(ぴ)で両足に邪鬼を踏み左右に2童子、4鬼神を配すとされる。寺伝では初代小泉藩主の片桐貞隆(さだたか)が豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍した際、戦場の守護神としてかぶとの中にその絵像を入れていたという。その後小泉陣屋で祀られていたが、明治になって当寺に安置されることとなった。本尊は秘仏で60年ごとの庚申の年に開扉される。次回は2040年の予定だ。
 ご本尊はなかなか拝観できないが、庚申の日に本堂を訪れると青面金剛絵像の軸が何本も飾られている。昔の庚申の日には講の家では絵像を床の間にかけて拝んでいたが、次第に行われなくなった。とはいっても、仏様の絵像を捨てたり焼いたりはできないと当寺に預けられた掛け軸が五十数本あるという。
 また、境内は山門の軒瓦や梵鐘の文様など「猿」があふれている。本尊・青面金剛の命を受けるのが白蛇でその使いとして走るのが猿だ。


庚申堂のくくり猿

 猿は動き回りじっとしていないので、「くくってご猿」または「くくり猿」となった。真っ赤な座布団の四隅を折り曲げて一つにくくり、その間に丸い頭を付けたもので、手足をくくられた猿を表す。本堂内はもちろん、門前や周辺の民家の門口にも梵字がしるされご祈禱(きとう)を受けたお守りの「くくり猿」が下げられている。
      ※   ※   ※
 ふだん訪れると静かな境内だが、戦前の庚申の日には門前市も盛んで、農機具などを販売する出店が並び、大いににぎわったという。戦後は衰退していったが、地元の庚申講(村戸文比古代表)の熱意で、平成17年秋からにぎわいが復活した。庚申の日には法要のあとさまざまなイベントも催されている。
 庚申の日は、初庚申から終庚申(しまいこうしん)まで年6回あり、今年の初庚申は2月13日だ。一番にぎわう初庚申の日に小泉庚申堂を訪れてみてはいかがだろう。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)


2011年の初庚申の様子が、小泉金輪院庚申堂の初庚申参り(ブログ「マネージャーへの休日余暇」)に書かれている。

何十年も前は街道筋がひしめくほどの参拝者が訪れたという大和郡山市小泉町の金輪院庚申堂。年始めの初庚申には門前市のお店がずらりと並んだそうだ。戦後に廃れた庚申参りを復活させた地元の世話人たち。ことし(2011年)で6年目になった。徐々に参拝者も増えつつある。初庚申の日にはとんども燃やされ参拝者を温める。

復活したのはそれだけではなかった。庚申参りにつきものの摩滅豆腐(まめとうふ)だ。垢離(こり)には現役の竈(かま)がある。前日はそこで豆腐汁を作ってもてなす。それには引き替え符が要る。昔から庚申さんに豆腐をお供する意味があったそうだ。一切の災難・不幸等を消して無くす。そしてまめに健康であるようにと願う。それでお下りのお豆腐を食してご加護をいただく。ありがたい豆腐のご利益だという摩滅豆腐(まめとうふ)の引替符だ。

本堂では護摩を焚いて法要が始まった。灯明に火を点けて手を合わせる。堂内には多くの青面金剛の掛け図が吊されている。付近では多くの庚申講があったとされる。それらは代替わりし信仰も薄れていった。不要となった掛け図は預けられお堂に納まった…。


庚申堂は、大和郡山市小泉町834。JR小泉駅からは徒歩10分。慈光院からは西へ徒歩5分ほどの場所だ(地図は、こちら)。今年の初庚申の2月13日(金)は目前だ。ぜひお参りください!

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入鹿の首はどこまで飛んだ?(産経新聞「なら再発見」第105回)

2015年01月11日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、今回(12/27付)の見出しは「入鹿の首伝承 正史の裏にある敗者の一面」、筆者はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」監事の露木基勝さんである。露木さんは以前、明日香村に残る首塚伝承を「入鹿の首塚と茂古森(もうこのもり)」(第34回なら再発見)として紹介された。今回はその続編として、同村以外の場所に残る伝承をお書きになっていて、興味深い。では記事全文を紹介する。
※トップ写真は、蘇我入鹿の首を葬ったとの伝承がある五輪塔=三重県松阪市飯高町舟戸

 学校の授業でもおなじみの乙巳(いっし)の変(大化の改新)は645年、中臣鎌足(なかとみのかまたり)(後の藤原鎌足)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)の2人が中心となり、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で蘇我入鹿(いるか)を殺害した古代の大事件だ。



 多武峯(とうのみね)縁起絵巻には、入鹿の首が見事に切断された姿が描かれている。日本書紀には首を切断したとの記述はないが、各地に入鹿の首の伝承が残っている。
 平成25年6月22日付の『なら再発見』で「入鹿の首塚と茂古森(もうこのもり)」と題して、明日香村にある入鹿の首塚や、茂古森まで飛んでいったとされる伝承を紹介した。今回はその続編で、明日香村以外の場所に残る入鹿の首の伝承を紹介する。
      ※   ※   ※
 1つ目は、明日香村の隣の橿原市曽我(そが)町。蘇我氏の本拠地ともいわれ、村内には宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社がある。昭和8年発行の「大和の伝説」には、「昔、鎌足に打たれた入鹿の首は、現在の曾我の東端“首落橋”の附近にある家のあたりに落ちた。それで、その家を“おつて家”と呼ぶ」と記されている。地元の方の話では、曽我町の伊勢街道沿いに今もある民家の屋号が「おつて屋」で、かつてはその横を小川が流れ、「首落ち橋」と呼ばれた橋があったという。



橿原市小綱町の入鹿神社。写真は入鹿神社のFacebookから拝借

 すぐ隣の小綱(しょうこ)町には、入鹿神社がある。入鹿神社のあたりに幼少時の入鹿の住まいがあったとの伝承があり、昔から入鹿びいきの土地柄である。小綱町の住民が、鎌足を祀(まつ)る談山(たんざん)神社へ行くと腹痛がおこるとの言い伝えが残っている。
      ※   ※   ※
 入鹿の首が飛んだ場所は、県内にとどまらない。奈良県と三重県の県境にある高見山の三重県側の麓、松阪市飯高(いいだか)町舟戸(ふなと)には、入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔がある。一説には、高見山まで飛んできた入鹿の首が力尽きて落ちてきたのを祀ったのが、その五輪塔だという。
 地元には面白い伝承が残っている。高見山に登る時には「鎌足を思い出すから」と鎌を持って登ることは戒められており、もし戒めを破って鎌を持っていくと必ずけがをする―とか。また、「五輪塔に詣(もう)でると頭痛が治る」などといわれたようだ。
 五輪塔の場所から、少し高見山側に登っていくと、能化庵(のうげあん)と書かれた案内板が立っている。入鹿の妻と娘が入鹿を供養し首塚を守るため、尼となって住んでいた寺院跡だという。
 飯高町郷土史は、「この五輪塔が蘇我入鹿の怨霊を鎮めるためのものなのか、あるいは全く無関係なものなのかは不明」としながらも、「“火の気のない所に煙は立たない”のことわざ通り、蘇我氏とは何らかの因縁をもつ土地であったのだろう。怨霊が再び都へ舞い戻らぬためにも、高見山の裏側の舟戸の地へ鎮魂することは考えられなくもない」と記している。
      ※   ※   ※
 歴史の舞台には、多くの悲劇の人物が登場するが、歴史書は往々にして勝者を正当化して英雄としてたたえる。
 近年では、蘇我氏が仏教などの大陸文化の受容に主導的な役割を果たしたことが評価されるようになってきた。また、大化の改新を正当化するため、日本書紀は蘇我蝦夷(えみし)・入鹿親子を逆賊として描写した、という話もしばしば聞く。
 真偽はともかく、敗者とされた者の中には、心ある人たちによってひそかに祀られ、伝承として語り継がれていることも少なくない。
 今回、正史(せいし)の裏に見え隠れする蘇我入鹿の一面を、首伝承という側面から探ってみたが、つくづく歴史は面白いと思う。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 露木基勝)

県下には珍しい地名が多い。「地名は生きた考古学である」と言われる。前回(第34回)の明日香村「茂古森(もうこのもり)」は《乙巳の変で入鹿を殺害した鎌足が、入鹿の首に追われてこの森に逃げ込み「もう来ぬだろう」といったことに由来する》とあったが、今回も「おつ(落)て家」「首落ち橋」という珍しいネーミングが登場する。蘇我氏の本拠地と言われる場所は今も「曽我町」(橿原市)という地名となって残っている。こんな視点から歴史を読み解いていくのも面白いだろう。

露木さん、興味深いお話を有難うございました!

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時の鐘 東大寺、法隆寺、長谷寺…(産経新聞「なら再発見」第104回)

2015年01月04日 | なら再発見(産経新聞)
皆さんはこの大晦日、除夜の鐘をつかれただろうか。産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、第104回(2014.12.20付)は、「時の鐘 古都に響く音色楽しむ」、筆者はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の石田一雄さんだ。古刹の「時の鐘」を丹念に調べてまとめられた。まずは全文を紹介する。
※トップ写真はじゃらんネットから拝借
 
 「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」奈良の秋にふさわしい正岡子規の代表句だ。句には「法隆寺の茶店に憩(いこ)いて」と前書きがある。子規が聞いた鐘は、法隆寺西円堂(さいえんどう)の時の鐘だ。
 峯(みね)の薬師ともいわれる西円堂は五重塔と金堂のある西院伽藍(がらん)から西北の小高い丘にあり、2月の節分の鬼追い式で知られる。その鐘楼では午前8時、10時、正午、午後2時、4時の2時間おきに、時刻の数だけ1日5回鐘がつかれる。以前は午前6時と午後6時にもつかれていたという。



 ところが、子規のこの句は実際に法隆寺で詠まれたのではないとの説がある。本人が書き残したところでは、明治28年10月奈良市の旅館・對山楼(たいざんろう)(現在の料亭・天平倶楽部)に泊まったとき、御所柿(ごしょがき)を食べながら東大寺の鐘の音を聞いた。そこで「秋暮る 奈良の旅籠(はたご)や 柿の味」「長き夜や 初夜(しょや)の鐘撞く 東大寺」と詠んでいる。「柿食えば」の句は、最初「東大寺」と詠み、翌日法隆寺に行って詠み直したのではないか、という説だが、真偽のほどは定かではない。
      ※   ※   ※
 子規が聞いた東大寺の鐘は、いわゆる初夜(午後8時)の鐘で、今も毎日1回同時刻に鳴らされる。打数は18、最初と最後は続けて2打つく。つき手は鐘を守る大鐘家(おおがねや)の川邊(かわべ)家が明治時代から代々奉仕している。
 鐘は奈良時代の創建当初の鋳造で、一般には奈良太郎、南都太郎とも呼ばれ、東大寺では大鐘(おおがね)と呼んでいる。名前のとおり高さ3.9メートル、重さ26.3トンあり、撞木(しゅもく)も大型で長さ4.5メートル、重さ約200キロもある。
 鐘楼は、鎌倉時代に重源(ちょうげん)上人のあとを継いで東大寺の大勧進(だいかんじん)となった栄西(ようさい)が再建した。大仏様(だいぶつよう)といわれる堂々とした建物だ。
      ※   ※   ※
 江戸時代、一般の人たちは時計を持っていなかったので、時を知らせるため寺で鐘をついた。それを「時の鐘」という。  江戸時代の時刻制度は、日のあるうちが昼で、日が暮れれば夜とし、昼夜をそれぞれ6等分、これを一時(いっとき)(一刻、約2時間)とした。農民の多かった江戸時代には、日の出と日の入りを基準とした時刻の方が分かりやすく合理的だった。夜明けの時刻を「明六ツ(あけむつ)」といい、日暮れの時刻を「暮六ツ(くれむつ)」といった。
 ならまちに響く時の鐘は、興福寺南円堂の鐘だ。子院観禅院(かんぜんいん)に伝来した奈良時代の国宝の鐘を複製したもので、午前6時、正午、午後6時と毎日3回、時刻の数だけつかれる。
 西ノ京の薬師寺や唐招提寺では、午前5時、午後5時の1日2回、朝は勤行(ごんぎょう)の開始、午後は閉門の合図として鐘がつかれる。薬師寺は1回5打だが、唐招提寺は1回6打と打数が違う。唐招提寺では今でも明六ツの鐘、暮六ツの鐘と呼び、その名残を残しているためだ。
      ※   ※   ※
 長谷寺(桜井市)の登廊(のぼりろう)を上りきったところに鐘楼がある。この鐘は「尾上(おのえ)の鐘」と呼ばれる。藤原定家(さだいえ)の歌「年を経ぬ 祈る契(ちぎり)は初瀬山(はつせやま) 尾上の鐘の よその夕暮れ」にちなむという。


正午には、鐘と同時に僧侶が吹くほら貝の音が響く=桜井市の長谷寺

 また「未来鐘(みらいがね)」とも呼ばれる。昔ある信心深いがひどく貧しい男が「将来私の願いがかなったら、大きな鐘を奉納しましょう」と告げたところ、まわりから「未来の話か」と笑われた。その後観音様の霊験で出世し、約束通り大鐘を奉納したことから、こう呼ばれるようになったという。
 鐘がつかれるのは毎日2回、午前6時と正午だが、正午の鐘の時は珍しい光景が見られる。鐘と同時に修行中の僧侶によって、ほら貝が吹かれるのだ。江戸時代の本居宣長(もとおりのりなが)は、清少納言も聞いたというこのほら貝の音に驚いた。
 「名も高く はつせの寺の かねてより ききこし音を 今ぞ聞ける」
      ※   ※   ※
 静かな中に響く鐘の音を聞くのも古都奈良の楽しみ方の一つだろう。時の鐘を参詣者がつくことはできないが、除夜(じょや)の鐘なら参加できる寺院は多い。今年の大みそかには、近くの寺院で除夜の鐘をついて新年を迎えてみてはどうだろう。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)

東大寺の鐘は奈良太郎(南都太郎)、高野山金剛峯寺大塔の鐘は高野次郎、世尊寺跡(吉野町吉野山子守)の鐘は吉野三郎、と呼ばれた。覚えておくと便利である。子規の「柿食へば…」の句については、当ブログでも「御所柿を食ひし事」として紹介した。さらに「鐘が鳴るなり東大寺」という記事では、「柿食へば…」の句は、夏目漱石の俳句「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」にヒントを得て作られたのでは、という坪内稔典氏(俳人、文学者)の説も紹介した。

中国の西安に旅行した同僚が「毎朝、鐘の音が市内に響き、情緒たっぷりだった」と言っていた。調べてみると《鐘は毎朝70回撞かれ、鐘を撞き終わってから東西南北にある四つの城門がそれぞれ開けられたと言われている。 今、鐘楼の鐘の音は録音されており、毎朝市民に時刻を告げている》(HP旅情中国)。近鉄奈良駅の周辺にいると、興福寺の鐘の音が聞こえてくる。朝6時、正午、夕方6時の3回だ。興福寺だけでなく、各寺の鐘が同時刻に一斉に響き渡れば、奈良旅の情緒も、いや増すに違いない。

石田さん、詳しいレポートを有難うございました!

コメント (4)
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