tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

榊莫山が讃えた3つの石の書(産経新聞「なら再発見」第103回)

2014年12月31日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、今回(12/13付)の見出しは《良助親王墓石標 莫山さん絶賛「透明な楷書」》、筆者はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」会員 藤村清彦さんである。ここでは書家の故榊莫山が讃えた3つの「石の書」を紹介された。1つはバス停「多武峰」近くにある尊円法親王(伏見天皇の皇子)の「下乗」と彫られた巨石。2つめはその近くに建つ摩尼輪塔の梵字。3つめは、冬野集落にある良助(りょうじょ)親王(亀山天皇の皇子)の墓石標だ。藤村さん一流のマニアックな話の数々…。では、全文を紹介する。
※トップ写真は良助親王冬野墓(桜井市)。藤村さんの撮影
 
 書家の故榊莫山(さかきばくざん)さんは、大和路を愛し、路傍の石に彫られた文字の美しさを多くの著作で紹介している。その中から談山(たんざん)神社周辺の良助(りょうじょ)親王墓石標をはじめ3つの「石の書」を訪ねてみよう。
 談山神社は明治元(1868)年の「神仏判然令」により神社として独立するまでは、藤原鎌足を祀る神仏混交の天台宗妙楽寺であった。紹介する三つの書は消滅した妙楽寺ゆかりのものだ。
 良助親王(1268~1318年)は鎌倉時代の第90代亀山天皇の皇子であるが仏門に入って法親王(ほっしんのう)となり、31歳で比叡山延暦寺100世天台座主(てんだいざす)に就き、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)を経て妙楽寺に移りこの地に葬られた。天台座主とは、天台宗総本山の比叡山延暦寺の住職で諸末寺を総監する役職である。
      ※   ※   ※
 まずはバス停「多武峰(とうのみね)」で下車。屋根のある珍しい屋形橋を渡り、東大門をくぐると「下乗」と彫られた巨大な石が目に入る。第92代伏見天皇の皇子尊円(そんえん)法親王(1298~1356年)の文字だ。



尊円法親王による「下乗」の文字。この写真はブログ「地域・夢案内人」から拝借

 尊円法親王は四度(よたび)天台座主に就き、青蓮院流書道の始祖となった方で、書の世界において後世に多大な影響を与えた。莫山さんは『野の書』で「その雄勁(ゆうけい)な文字の表情が、いまはかえってわびしい」と格式を誇った妙楽寺の栄華をしのぶ。
      ※   ※   ※
 さらに杉並木の参道を登ると左手に円の中に胎蔵界(たいぞうかい)大日如来(だいにちにょらい)を表す梵字(ぼんじ)を彫った石の摩尼輪塔(まにりんとう)が立っている。文字の底をV字型にさらえた薬研(やげん)彫りがさえる。梵字の下には、青蓮院流で「乾元(けんげん)二年」(1303年)と建立の文字が刻まれている。良助親王と同時代のものだ。



摩尼輪塔=桜井市多武峰(この写真は藤村さんの撮影)

 『続 書のこころ』では、「太陽の塔の先祖」「この円盤のモダンアートは、まさしく鎌倉の女王(クイーン)の風姿をただよわせて暖かい」と莫山さんの評価は高い。


摩尼輪塔の梵字のアップ。この写真は橿原市のHPから拝借

      ※   ※   ※
 目指す良助親王墓へは西大門跡から冬野の集落に向けて徒歩30分強の登りだ。冬野集落は標高650メートル程度の高地。ここは世界遺産に指定された熊野古道小辺路(こへち)の途中にあって「天空の郷」と呼ばれる果無(はてなし)集落(十津川村)よりもさらに高い。
 冬野からは竜在(りゅうざい)峠への道と分かれて石舞台方面への道をとるとすぐに親王墓が鎮まっている。宮内庁によって美しく管理されていてすがすがしい。石段を上ったところの石標に「良助親王冬野墓」の文字が読み取れる。


良助親王冬野墓。この写真はHP「万葉集入門 明日香村へ行こう」から拝借

 『大和千年の路』では、「ものほしげさはみじんもなく、鋭い目をして淡々と、爽快このうえない気分を宿しているのだ。気韻清浄(きいんせいじょう)。この山に棲(す)む苔むした字に魅(ひ)かれる。明日香の野を歩いても、これほど透明な楷書(かいしょ)の字はみあたらない」と絶賛。
      ※   ※   ※
 もう一つ興味がそそられるのは、良助親王の墓が何故このような高所に造られたのかということだ。地図で確かめると、この冬野墓と親王ゆかりの比叡山延暦寺の位置がほぼ同経度線上にあることと、墓が妙楽寺の南西、陰陽道(おんみょうどう)で言う裏鬼門に当たることが分かる。秘められた意図がありそうだ。
 帰りは自動車道の途中から杉林の地道に入り、奧飛鳥の栢森(かやのもり)に下りる道が楽しい。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)


うーん、意外なところに意外な「石の書」があるのだ。私は多武峰の「下乗」だけは拝見したことがあるが、ほかの2つは初耳だった。知れば知るほど、奈良は面白い。藤村さん、興味深いお話を有難うございました!


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中ツ道を歩く(産経新聞「なら再発見」第102回)

2014年12月24日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、第102回(12/6付)は「中ツ道(なかつみち) 壬申の乱の戦場 伝える」、筆者はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」のガイド名人、田原敏明さんである。田原さんは先日の天理ツアーでも、名人ぶりを遺憾なく発揮されていた。
※トップ写真は山辺御県坐(やまべみあがたにます)神社拝殿。お祭りの日に私が撮影(2012.10.14)

今回のテーマである中ツ道は、橿原市の藤原京付近と奈良市の平城京付近を結んだ官道で、壬申の乱の舞台となった。田原さんは、桜井市西之宮(近鉄耳成駅のあたり)→橿原市東竹田町(運転免許センターの東)→田原本町・村屋坐弥富都比売神社(大和川の近く)→天理市・山辺御県坐神社(イオンタウン天理の西方向)まで歩いてレポートされた。では、全文を紹介する。



 古代には大和平野を南北に走る3つの古道があった。東から「上(かみ)ツ道」「中ツ道」「下(しも)ツ道」。中ツ道は藤原京の東四坊大路と平城京の東四坊大路をほぼ一直線に結び、各郷村の境界線になっていた。
 平城京の衰退とともに廃(すた)れたが、中世には橘街道として継承された。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたる事も 無しと思えば」と詠った絶頂期の関白・藤原道長が、吉野山参詣時に通った道でもある。
 大和の原風景が拡がる中ツ道跡沿いに、日本書紀が語る「壬申の乱」の一コマを伝え残す村屋坐弥富都比売(むらやにますみふつひめ)神社(田原本町蔵堂)周辺を訪ね歩いた。
      ※   ※   ※
 桜井市西之宮の三輪神社西南隅は藤原京北東角にあたり、当所で中ツ道と東西に走る横大路が交差する。中ツ道跡の小路を挟んで、東側は桜井市民、お向かいさんは橿原市民だ。「中津道(桜井市)」の町名は「中ツ道」に由来するのだろう。東に三輪山、西に二上山、振り返ると大和三山、その後方に多武峰や金剛山を眺めながら、一般道を避けて収穫が始まった田んぼのあぜ道を北上する。


村屋坐弥富都比売神社本殿(左)と村屋神社(右)=田原本町蔵堂

 橿原市東竹田町は、大伴氏の荘園だった「竹田の原」の故地だ。町を流れる寺川の竹田大橋から周囲を見渡すと、平城京にいる娘を思いやる母の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)が詠んだ「うち渡す 竹田の原に 鳴く鶴(たづ)の 間(ま)なく時なし 我が恋ふらくは」の情景が浮かぶ。                           ※   ※   ※
 田原本町に入り、農作業中の老人に村屋坐弥富都比売神社の所在を尋ねた。村屋神社はまだ先と前方の森を指差す。村人は村屋神社、と通称名で呼ぶようだ。鳥居前へ延びる道は中ツ道だ。村屋神社が中ツ道にあり、壬申の乱の戦場となったことを日本書紀は記す。
 672年、大海人(おおあま)皇子(天武天皇)軍と大友皇子(弘文天皇)軍が各地で骨肉の争いを繰り広げ、この村屋の地でも両軍が対峙(たいじ)した。「今吾(わ)が社(やしろ)の中道(なかのみち)より、群衆(いくさびとども)至らむ。故(かれ)、社の中道を塞(た)ふべし」。急ぎ敵襲より中ツ道を防げとの託宣が、大海人皇子軍を勝利に導いた。この功績により天皇から位が授けられ、これが神階(しんかい)の始まりとされる。


山辺御県坐神社拝殿(右)と観音堂(左奥)=天理市西井戸堂町

 境内を抜けて大和川沿いの道に出た。道にはめ込んだ「大和・山の辺探訪物語 水の辺 田原本町」のプレートに描かれた舟が、「仏教伝来」の往時の水運をしのばせる。
 主祭神の縁結びの神、弥富都比売神を祀る本殿近くに摂社村屋神社がある。武甕槌神(たけみかづちのかみ)や室屋大連(むろやのおおむらじ)などを拝祀(はいし)する。戦場ではやはり姫神よりは武神だろうと、遠い日の歴史の残像に浸りながら考える。
      ※   ※   ※
 大川橋を渡り北上し天理市へ向かう。県道51号線は中ツ道と重層して走る。中ツ道東側溝跡が最近発掘されている。


山辺御県坐神社本殿。2012年10月14日に私が撮影(下の写真も)

 51号線横の農道を歩くこと1時間少々で山辺御県坐(やまべみあがたにます)神社(天理市西井戸堂町)に着く。藤原道長が吉野山参詣時に当地で参籠した観音堂も敷地内にある。
 境内に「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去(い)なば 君があたりは 見えずかもあらむ」の万葉歌碑がある。和銅3(710)年、元明天皇は藤原京から平城京へ移る途中で御輿(みこし)を降りて、夫の草壁皇子や息子の文武天皇が眠る飛鳥を振り返り詠んだ歌だ。



万葉歌碑「飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば 君があたりは見えずかもあらむ」

 過ぎ去りし日々に惜別、自ら遷都の詔(みことのり)を発した新京への決意と不安、民衆の歓喜の声に応えながら入京する女帝の心情を思いながら、中ツ道を歩き続けた。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 田原敏明)

中ツ道は、おおむね県道51号と重なるというが、あまり痕跡は残っていない。田原さんは、さまざまな古代の出来事をこの道に重ねて歩かれたのだ。時候が良くなれば、ぜひ私も歩いてみたいと思う。

田原さん、興味深い記事を有難うございました!

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近鉄奈良線は、開業100年!(産経新聞「なら再発見」第101回)

2014年12月12日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、今回(11/29)の見出しは「近鉄奈良線 開業100年 地域とともに走る」、執筆されたのはNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の石田一雄さん(奈良市在住)だ。石田さんは当欄の最多出稿者である。近鉄100年の歴史をコンパクトにまとめて紹介されている。では全文を以下に掲載する。
※トップ写真は、近鉄奈良線100周年記念「ヒストリートレイン」。近鉄のFacebookから拝借

 奈良市で育った私にとって、近畿日本鉄道(近鉄)奈良線は思い出の多い路線だ。小学生だった約50年前、大阪へ出かけるのは楽しい小旅行だった。学園前の住宅地が開発され始めた頃で、あやめ池から生駒までの間には、雑木林の丘陵地があちこちに残っており、町らしいのは西大寺、生駒の駅周辺だけだった。
 今年は近鉄奈良線開業から100周年で、様々な記念イベントが行われた。大正3年4月30日、近鉄の前身・大阪電気軌道株式会社(大軌)が大阪上本町―奈良間の路線を開業した。所要時間は55分、奈良県側は生駒、富雄、西大寺、奈良の4駅だった。当初の奈良駅は高天町の仮駅で7月に現在地まで延伸して全通した。その際設置された奈良駅前駅は、現在のJR奈良駅への乗換駅で、後に油阪(あぶらさか)駅と改称された。
その長い歴史の跡をたどってまず旧生駒トンネルを訪ねた。
      ※   ※   ※
 大阪・石切側には線路敷きや旧孔舎衛坂(くさえざか)駅のプラットホームが残り、重厚な石積みアーチの入り口を通ってレンガ積みのトンネル内部に入る。許可がないと入れないが、最近は見学会などが時折催されている。


旧生駒トンネルの石切側入り口

 当時大阪―奈良間には、鉄道院(現在のJR)の関西本線と片町線があり、それぞれ生駒山地を迂回(うかい)して南端と北端を通っていた。当初はケーブルカーで山越えする構想もあったが、最短経路をめざし生駒山地をトンネルで貫く計画となった。
 路線建設の最大の難関がトンネルだった。明治44年に着工したが、地質の変化や湧水で予想以上の難工事となり、工事費用が見込みを上回って資金繰りも逼迫(ひっぱく)。大正3年、全長3388メートルと複線標準軌では当時日本最長のトンネルがようやく開通した。
 工事中の大正2年の落盤事故は大規模なもので、約150人が生き埋めとなり、19人の犠牲者が出た。朝鮮半島からの出稼ぎ労働者も犠牲となった。
 その供養碑がある。生駒駅から旧生駒トンネルの北側坂道を登っていくと、西教寺墓地(生駒市元町)があり、その中に落盤事故犠牲者の墓石と供養碑が立つ。供養碑の真下に今も列車が走るトンネルがある。宝山寺参道に近い宝徳寺(生駒市本町)境内には、「韓國人犠牲者無縁佛慰霊碑」が立つ。
 このトンネルは、その後の沿線の宅地開発と人口増加に伴う乗客増加に対応するため、大型車両が通れる新生駒トンネルが開削されたので、昭和39年に路線用としての役目は終えた。ただ今も現役で、新生駒トンネルでの災害発生時の避難路や保線作業に使われ、生駒側の一部がけいはんな線の路線として再利用されている。
      ※   ※   ※
 大軌創業時代の施設として最古の現存建物が、旧富雄変電所だ。富雄駅のすぐ北にあり、駅のホームからも良く見えるレンガ造りの建物だ。大正3年奈良線開業時に配電用・電鉄用変電所として建造されたうち唯一残っている歴史的建造物だ。東西の側壁上部には変電所として使用されたことを示す配線孔跡が残っている。



旧冨雄変電所=奈良市

 建物は昭和44年変電所としての役目を終えた後、ホームセンターや飲食店に利用されてきたが、今後の再活用が待たれる。
      ※   ※   ※
 奈良市内の路面を電車が走っていたというと驚かれるかもしれない。
 以前、大和西大寺駅を出た奈良行きの列車は地上の関西本線を高架橋でまたぎ、高架上の「油阪駅」に到着した。駅を出ると地上を走り、大宮通との併用軌道を通って地上の奈良駅に入った。
 奈良駅が地下化されたのは、大阪万博前の昭和44年12月。油阪駅は同時に廃止され、代わりに新大宮駅が開業した。「油阪」は交差点名やバス停名(油阪船橋商店街前)に名残をとどめている。
 奈良線は、近鉄の創業路線であり、その中心的な路線であった。阪神電鉄との相互乗り入れも実現し、今後も観光や通勤通学の足として重要な中核路線であり続けるだろう。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)


いつもの難解な歴史物ではなく、近鉄の話だったので、スッと頭に入った。南海高野線沿線(最寄り駅は九度山駅)で育った私にとっては、電車といえば南海、バスは南海パス、デパートといえば難波の高島屋だったが、奈良生まれの人は、近鉄、奈良交通に近鉄百貨店とすべてが近鉄系なので、この会社には思い入れがことのほか深いのだろう。

石田さん、興味深いお話を有難うございました!

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剣豪・荒木又衛門は郡山藩剣術指南役だった!(産経新聞「なら再発見」第99回)

2014年11月28日 | なら再発見(産経新聞)
掲載する順序が逆になってしまった。産経新聞(11/15付)の第99回「なら再発見」のタイトルは「郡山藩士 荒木又衛門 仇討36人斬り 剣豪中の剣豪」、執筆されたのはNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」副理事長の鈴木浩(すずき・ゆたか)さんである。

又兵衛の父は郡山城主に仕えていたことがあり、又兵衛自身も「剣術指南役」として招かれ、郡山城の南の「箕山(みのやま)」に住んでいた。城主の柳沢吉里の父・吉保は、三大仇討のもう1つ、忠臣蔵に登場する。生類憐みの令を将軍・綱吉に進言した護持院隆光も、郡山藩ゆかりの人物である。郡山藩は大した藩だったのだ。では、全文を紹介する。

 江戸時代の剣豪・荒木又右衛門(あらきまたえもん)。講談や浪曲などで昔から語り継がれ、映画では、三船敏郎や長谷川一夫が演じた時代劇のヒーローだ。
 元禄忠臣蔵・曾我兄弟の仇討と併せて日本三大仇討(あだうち)のひとつと言われる鍵屋の辻の決闘で助太刀(すけだち)をし、36人斬りの活躍をして見事仇討を遂げさせたという、剣豪(けんごう)中の剣豪。奈良とは深い縁のある武芸者だ。
 荒木又右衛門は、慶長4(1599)年に伊賀国服部郷(はっとりごう)荒木村で生まれた。父は、大和郡山城主筒井定次(つついさだつぐ)に仕えた後、備前岡山藩池田忠雄(ただかつ)に仕官した下級武士だった。又右衛門は幼少時から柳生道場に通い、柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)の剣術を磨いた。



荒木又右衛門が切ったと伝わる首切地蔵=奈良市白毫寺町

 父に付き従った岡山では、藩主次男の武芸相手役を仰せ付(つか)り、ここで出合った宮本武蔵からは武道の心得も教わったという。やがて武芸者として身を立て、奈良の白毫寺(びゃくごうじ)南で近在の若者を集め道場を開いた。
 奈良から柳生に向かう滝坂道(たきさかのみち)の春日奥山には、首切(くびきり)地蔵と呼ばれる首の所に割れ目がある高さ2メートル位の石仏がある。又右衛門が試し切りしたものと言われている。
 剣名の高い彼には果し合いの申し出が多く、戦いが行われる合図に、この地蔵の首に赤い紐(ひも)が結ばれたとの話が、後年脚色されたようだ。                   ※   ※   ※
 戦国の余韻が残っていたこの時代、将軍徳川家光は江戸城内に諸国の著名な武芸者を一堂に集め、武芸を競わせた。これが世に言う寛永御前試合(かんえいごぜんしあい)だ。又右衛門も出場し、武蔵の子・宮本伊織(いおり)と闘い、勝負は引き分けとなった。
 当時の奈良では郡山藩士と奈良町を治める奈良奉行衆とは抗争が絶えなかった。些細(ささい)なことから刃傷沙汰(にんじょうざた)が頻発、とかく刀に掛けて物を言う風潮があった。
 この寛永時代に郡山藩主松平忠明(ただあき)に250石取りの剣術指南(しなん)役として招かれ、郡山城の南方の箕山(みのやま)に住んだ。県道城廻り線の矢田筋の路地を東に入った風格のある屋敷の玄関前に、「荒木又右衛門屋敷跡」の石製標柱が立っている。


郡山藩剣術指南役当時の荒木又右衛門屋敷跡=大和郡山市城南町

 さて、仇討の動機となる事件が勃発する。寛永7(1630)年、又右衛門の義弟で、岡山藩家臣の渡辺源太夫(げんたゆう)が同僚の川合又五郎に殺された。又右衛門は義弟の源太夫の兄渡辺数馬(かずま)と仇討のため又五郎の行方を追う。又五郎は郡山藩家臣の叔父を頼り奈良に潜伏し、転害門や法華寺辺りの隠れ屋を移り住んだ。

 時に、寛永11(1634)年11月の朝、奈良を出奔(しゅっぽん)し、江戸潜入を図る又五郎を発見。遂に伊賀上野の鍵屋の辻で、大勢の助っ人を従えた又五郎と数馬・又右衛門は決闘と相成った。ここで、又右衛門が36人斬りの離れ業を披露し、数馬は又五郎と5時間に及ぶ死闘で見事本懐を遂げる。
 そして、又右衛門の名声は天下に轟(とどろ)くこととなったが、実際は2人斬殺(ざんさつ)し、残りは負傷や敵前逃亡者ばかりだったというのが史実のようだ。
      ※   ※   ※
 三大仇討のもう一つ元禄忠臣蔵に登場する将軍綱吉の側用人(そばようにん)・柳沢吉保(よしやす)の嫡男吉里が郡山城主となる。また、同将軍に「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」を進言した護持院隆光(ごじいんりゅうこう)もまた郡山藩ゆかりの人物だ。
 かつての郡山藩の出来事は、はるか遠い過去のもとなったが、郡山城内にある郡山高校は文武両道の精神を今に受け継いでいる。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会副理事長 鈴木浩)


奈良県は古代史にはよく登場するが、江戸時代にも、こんな話があったのだ。鈴木さん、興味深いお話、有難うございました!

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うどんのルーツは奈良にあり!(産経新聞「なら再発見」第100回)

2014年11月22日 | なら再発見(産経新聞)
おかげさまで産経新聞の「なら再発見」は、今回で100回目を迎えた。100回目の今日(11/22)は私が書いた原稿で、ちょうど私の誕生日の掲載となった。ご配慮いただいた広報グループさん(NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」)には、厚く御礼申し上げる。
※トップ写真は、春日はくたくうどん。撮影は、NPO法人「奈良の食文化研究会」さん

今日のタイトルは《春日はくたくうどん 「うどんの元祖」奈良名物に》。最近の調べで、平安時代の貴族の日記に記された「餺飥(はくたく)」が切り麺としてのうどんの元祖であることが分かった。これが当時、春日大社で天皇の一行に振る舞われた。それを現代風に再現したのが「春日はくたくうどん」で、今、人気を集めている、という話だ。そもそも日本の麺類のルーツは、奈良時代に中国から奈良に伝わったそうめんである。これで、そうめんもうどんも奈良に起源があったことになる。これらは奈良のお土産物として活かせそうだ。では、全文を紹介する。

 9月13日、奈良公園登大路園地で、食のイベント「索餅(さくべい)まつり」(奈良グルメフェア実行委員会主催)が開催された。
 索餅は古代中国由来の食品で、奈良時代に仏教の広がりとともに日本に伝わった。索麺(さくめん)、麦縄(むぎなわ)とも呼ばれ、手延べそうめんの原形であり、日本の麺類のルーツとされる。それが三輪郷(桜井市)で作られ、そこから揖東郡(いっとうぐん)神岡郷(兵庫県たつの市神岡町)や、小豆島をはじめ全国に伝播(でんぱ)し、揖保の糸や小豆島そうめんなどになったようだ。
      ※   ※   ※
 イベントでは油で素揚げした唐菓子「麦縄」(索餅)が振る舞われ、そうめん流し大会が行われたほか、「第1回ならB級グルメ決定戦」でグランプリに輝いた「大和焼きそうめん」も登場し、人気を集めた。これは手延べそうめんを鶏ガラベースのスープで炒め、具には大和肉鶏(にくどり)や地場産野菜をたっぷり使った逸品だ。
 イベントのもう1つの目玉は「春日はくたくうどん」だ。はくたくは餺飥と書く。平安時代中期、小野宮(おののみや)右大臣藤原実資(さねすけ)が日記「小右記(しょうゆうき)」に、一条天皇の春日大社行幸(989年)のおり、一行に餺飥が献上されたと記している。
 関連情報を総合すると、小麦粉・米粉を山芋でつないで延ばした練り粉を切って作ったようだ。饗宴の場で、京都から随行していた20人の「餺飥女」(はくたくめ)が両指先に油を少しつけ、切った練り粉を指先でもみ、音曲に合わせて麺にしたという。



再現された餺飥(麺)

 できた麺はゆでて椀(わん)に盛り、小豆のタレをかけて振る舞った。つけ汁が登場するのは鎌倉から室町時代にかけてなので、餺飥は平安時代の祭り食として、このように食べられていたのだろう。
      ※   ※   ※
 うどんの起こりには諸説ある。室町時代の公家の日記「山科家礼記(らいき)」などの記載により南北朝から室町時代の初めとする説、関東の武将・北条重時の書簡により鎌倉中期以前とする説、鎌倉時代の仁治(にんじ)2(1241)年に中国から帰国した僧・円爾(えんに)が製麺の技術を博多に持ち込んだという説などだ。
 今回、平安時代の餺飥を切り麺としてのうどんの元祖とし、鎌倉時代の料理書「厨事類記(ちゅうじるいき)」を参考にして、NPO法人奈良の食文化研究会(瀧川潔理事長)が中心となって現代風に再現したのが「春日はくたくうどん」だ。
 小麦粉に米粉や山芋の粉などを混ぜ、幅約1.2センチ、長さ約10~20センチのコシとモチモチ感のある平麺として完成させた。冷製のツユは鰹(かつお)ダシにしょうゆで味付けし、ユズで香りをつけた。トッピングはシメジ、刻みネギ、大根おろしと醤(ひしお)だ。イベントで用意した300食は、2時間足らずで完売した。イベントの委員長で奈良市飲食店組合長の増井義久さんは「うどんを食べて、奈良の食の奥深い歴史を感じてほしい」と話していた。
      ※   ※   ※
 このうどんは、奈良の食文化研究会推薦の「郷土料理しきしき」(新大宮駅南側)で味わうことができる。数に限りがあるので、ぜひ予約してお訪ねいただきたい(℡0742-36-8490)。今後は同組合を通じ、土産物としても商品化される予定だ。来年3月から、春日大社で20年に1度の式年造替(しきねんぞうたい)が始まる。これを機に参拝者には、ぜひ春日大社ゆかりのはくたくうどんを味わっていただきたいものだ。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事 鉄田憲男)

 平安時代に出されていたのはもっと短い麺だったそうだが、「春日はくたくうどん」は食感を考慮して、やや長め(10~20cm)に仕上げたそうだ。太短いきしめんのような形だが、モチモチしていてとても美味しい。「索餅まつり」で話題になり、テレビでも取り上げられた。

 今回の原稿をチェックしてくださった「奈良グルメフェア実行委員会」の皆様、有難うございました。「郷土料理しきしき」は、近鉄新大宮駅の南側スグ、ぜひ予約してお訪ねください!

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