今日の「田中利典曰く」は、〈還暦となる君へ…〉(師のブログ 2017.6.1 付)。師は還暦を目前にして〈武田鉄矢氏が、この「去華就実」を「花散りて次に葉茂り実をむすぶ」と読み替えて、年齢を重ねるほどに華はなくしていくが、そのかわり実を結ぶのが人生だ、という風に言っていた。なるほどと思った〉。
※トップ写真は、椿寿庵(ちんじゅあん=大和郡山市)の椿(2010.2.6 撮影)
〈還暦を迎えたからと言って、そんなに老い込むこともないが、それでも若い頃と比べると、足腰の衰えや目や耳の老化に加え、頭の回転の悪さには自分ながら愕然とする。向こう意気だけで突っ走っていたわが人生ながら、もう充分じゃないのかなあという気もする〉と感慨を綴られる。では、全文を以下に紹介する。
「還暦となる君へ…」ー田中利典著述集290601
過去に掲載した機関誌『金峯山時報』のエッセイ欄「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。これは2年前、自分が還暦年を迎えるに当たって書いた記事。以前にも本稿に載せたかもしれませんが、今年還暦を迎える知人がけっこう私の周りにいるので、敢えて転記してみました。ほっとけ、っていわれそうですが…。
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「還暦となる君へ…」
今年で筆者は還暦を迎える。なんともあっという間の60年だったなあ、という感である。僧侶になってからの法﨟(ほうろう=出家・受戒後の年数)は45年。いずれにしろ「少年老いやすく、学成り難し」そのままの人生といえようか。
「子曰く、吾れ十有五にして学を志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(みみしたが)う」(論語為政篇)というが、その「耳順う」歳を迎えることとなったのである。この「耳順う」とは少々聞き慣れない言葉かもしれない。60歳になったら人の言うことを逆らわず素直に聴けるようになれ、というような意味である。
しかしながら、人の言葉というものは助言にせよ諌言(かんげん=いさめる言葉)にせよ、なかなか素直に聞けないもの。それは相手との人間関係であったり、自我のなさしむることであったり、いろいろと理由はあるが、人の言葉を言葉の意味のままに理解するのは存外難しいものである。論語を残した孔子でさえ60歳になってようやく、その境地に至ったと語っているわけであるから、筆者などの凡夫ではなかなか「耳順う」などという域には達せないだろう。
早稲田実業学校の校是に「去華就実」という有名な言葉があると聞いた。外見の華やかさを取り去り、実際に役に立つ人間になる、というほどの意味らしいるが、先日テレビを見ていたら歌手で俳優の武田鉄矢氏が、この「去華就実」を「花散りて次に葉茂り実をむすぶ」と読み替えて、年齢を重ねるほどに華はなくしていくが、そのかわり実を結ぶのが人生だ、という風に言っていた。なるほどと思ったのであった。
還暦を迎えたからと言って、そんなに老い込むこともないが、それでも若い頃と比べると、足腰の衰えや目や耳の老化に加え、頭の回転の悪さには自分ながら愕然とする。向こう意気だけで突っ走っていたわが人生ながら、もう充分じゃないのかなあという気もするし、「耳順う」歳を思えば、そう嘆くことでもあるまいと思ったりしている。それだからこそ、武田氏の「去華就実」がなるほどと身にしみるのである。
華はこれからもどんどん失って行くに違いない。我を張って生きることを止めて、耳順って生きることも大切である。そうやって生きる中で、人生の実を結ぶことが出来れば幸いと言えよう。そんなことをつれづれに感じている平成27年の新年である。
※『金峯山時報』平成27年1月号「蔵王清風」より
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還暦って、実際に2年前に越えてみて、なんだか人ごとのままに過ぎたような気がします。今度、信貴山の鈴木管長さまが還暦祝いの大パーティを催されて、私も招かれていますが、それはそれでおめでたいことです。
私は2年前、集英社新書の拙著上梓に併せて、出版記念パーティーの名前のもとに、5回ほど、お祝いの会を企画開催しましたが(延べになおすと参加者は350名は越える数です)、そういう形で還暦の節目は自分なりにつけさせていただいて、吉野の現役を勇退したのでした。
たくさんのお弟子さんがいるのに、弟子さんからの自発的なものでなく、自分でやったというのが如何にも私らしいかも…。まあ、僧侶というのは生き方の問題ですから、生涯、引退はありません。還暦も「死出の旅路の一里塚」というくらいで、ぼつぼつと進みましょう。
※トップ写真は、椿寿庵(ちんじゅあん=大和郡山市)の椿(2010.2.6 撮影)
〈還暦を迎えたからと言って、そんなに老い込むこともないが、それでも若い頃と比べると、足腰の衰えや目や耳の老化に加え、頭の回転の悪さには自分ながら愕然とする。向こう意気だけで突っ走っていたわが人生ながら、もう充分じゃないのかなあという気もする〉と感慨を綴られる。では、全文を以下に紹介する。
「還暦となる君へ…」ー田中利典著述集290601
過去に掲載した機関誌『金峯山時報』のエッセイ欄「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。これは2年前、自分が還暦年を迎えるに当たって書いた記事。以前にも本稿に載せたかもしれませんが、今年還暦を迎える知人がけっこう私の周りにいるので、敢えて転記してみました。ほっとけ、っていわれそうですが…。
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「還暦となる君へ…」
今年で筆者は還暦を迎える。なんともあっという間の60年だったなあ、という感である。僧侶になってからの法﨟(ほうろう=出家・受戒後の年数)は45年。いずれにしろ「少年老いやすく、学成り難し」そのままの人生といえようか。
「子曰く、吾れ十有五にして学を志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(みみしたが)う」(論語為政篇)というが、その「耳順う」歳を迎えることとなったのである。この「耳順う」とは少々聞き慣れない言葉かもしれない。60歳になったら人の言うことを逆らわず素直に聴けるようになれ、というような意味である。
しかしながら、人の言葉というものは助言にせよ諌言(かんげん=いさめる言葉)にせよ、なかなか素直に聞けないもの。それは相手との人間関係であったり、自我のなさしむることであったり、いろいろと理由はあるが、人の言葉を言葉の意味のままに理解するのは存外難しいものである。論語を残した孔子でさえ60歳になってようやく、その境地に至ったと語っているわけであるから、筆者などの凡夫ではなかなか「耳順う」などという域には達せないだろう。
早稲田実業学校の校是に「去華就実」という有名な言葉があると聞いた。外見の華やかさを取り去り、実際に役に立つ人間になる、というほどの意味らしいるが、先日テレビを見ていたら歌手で俳優の武田鉄矢氏が、この「去華就実」を「花散りて次に葉茂り実をむすぶ」と読み替えて、年齢を重ねるほどに華はなくしていくが、そのかわり実を結ぶのが人生だ、という風に言っていた。なるほどと思ったのであった。
還暦を迎えたからと言って、そんなに老い込むこともないが、それでも若い頃と比べると、足腰の衰えや目や耳の老化に加え、頭の回転の悪さには自分ながら愕然とする。向こう意気だけで突っ走っていたわが人生ながら、もう充分じゃないのかなあという気もするし、「耳順う」歳を思えば、そう嘆くことでもあるまいと思ったりしている。それだからこそ、武田氏の「去華就実」がなるほどと身にしみるのである。
華はこれからもどんどん失って行くに違いない。我を張って生きることを止めて、耳順って生きることも大切である。そうやって生きる中で、人生の実を結ぶことが出来れば幸いと言えよう。そんなことをつれづれに感じている平成27年の新年である。
※『金峯山時報』平成27年1月号「蔵王清風」より
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還暦って、実際に2年前に越えてみて、なんだか人ごとのままに過ぎたような気がします。今度、信貴山の鈴木管長さまが還暦祝いの大パーティを催されて、私も招かれていますが、それはそれでおめでたいことです。
私は2年前、集英社新書の拙著上梓に併せて、出版記念パーティーの名前のもとに、5回ほど、お祝いの会を企画開催しましたが(延べになおすと参加者は350名は越える数です)、そういう形で還暦の節目は自分なりにつけさせていただいて、吉野の現役を勇退したのでした。
たくさんのお弟子さんがいるのに、弟子さんからの自発的なものでなく、自分でやったというのが如何にも私らしいかも…。まあ、僧侶というのは生き方の問題ですから、生涯、引退はありません。還暦も「死出の旅路の一里塚」というくらいで、ぼつぼつと進みましょう。
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