土曜日(12/1)、「まほろばソムリエと行く!『古事記』をめぐるバスツアー」(旅行企画・実施=奈良交通、協力=奈良まほろばソムリエ友の会)の宇陀コースに同乗させていただいた。正式には《(4)神武東征の軌跡をたどる(@5,800円)平成24年12月1日(土)、16日(日)》である。講師役(ガイド)は雑賀耕三郎さん(桜井市。トップ写真向かって右)と津山進さん(四条畷市。写真左)。サポート役(オブザーバー)は吉澤定之さん(奈良市)と私であった。すべて「奈良まほろばソムリエ友の会」のメンバーである。
このツアーの特徴は、たくさんのコースを用意していること(古事記だけで6コース・全12回)、料金が安いこと、そして講師役が2人いることである。従来のバスツアーは講師は1人だけで、説明は現地のみだった。現地での説明は、長びくと苦痛になる(立ったままだし、屋外は寒かったり暑かったりする)。常々「途中のバスの中で解説してくれれば助かるのに」と思っていたが、車中と現地の両方でしゃべるのは1人ではシンドい。そこで、講師役を2人つけることにした。今回の雑賀さんと津山さんは、タイプの違う人(軟と硬)がコンビを組んだことで、お客さまには満足していただけたことと思う。さて今回のコース概要は、奈良交通のHPによると

宇賀(うが)神社をガイドされる雑賀さん
宇陀における神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと 神武天皇)の東征の道をたどります。建国にふさわしい地を求めて大和をめざした伊波礼毘古命は熊野に入り、神の使いである八咫烏(やたがらす)に導かれて宇陀に至ります。『古事記』に描かれた神武東征の意義と、宇陀の地での攻防を語り、古代に生きた人々に思いをはせます。
墨坂神社=八咫烏神社=宇太水分(うだみくまり)神社(お弁当の昼食)=宇賀神社=神武天皇聖蹟菟田穿邑顕彰碑=(人麻呂公園周辺下車)…阿紀神社…宇陀松山の町並散策…=大和八木駅(16:50頃)
というものであった。以下、今回のツアーのレジメから抜粋する。
1.神武天皇のヤマト入りのコースとは 吉野―宇陀の高城(八つ房杉)―宇陀の穿(宇賀志)―高倉山―墨坂、男坂(半坂)、女坂
2.ヤマトからみれば宇陀は秘境、同時に宇陀は四通八達の土地。神武天皇は吉野から宇陀に入る。天武天皇は壬申の乱で吉野から宇陀を抜けて東国へ。今も宇陀は吉野の玄関口である。秘境の宇陀と要路の宇陀という二つの顔を見る。
3.宇陀は丹(水銀)の採取地で、ヤマト朝廷にとって特別な場所だった。

今回は特別に「御神輿収納庫」を開けていただいた
榛原と墨坂神社
御祭神 墨坂大神(天御中主神-あめのみなかぬしのかみ、高皇産霊神-たかみむすひのかみ、神皇産霊神―かみなすみのかみ、伊邪那岐神、伊邪那美神、大物主神六柱)

おお、古事記に出てくる「赤の盾矛(たてほこ)」のレプリカが!こちらは矛(ほこ)
墨坂とは 神武天皇の軍が大和に入る時、この墨坂において、兄磯城が炭に火をつけて神武軍を阻んだとの故事がある。イコリズミ(山焼きの意)をもって防戦したため、神武軍は苦戦するが、宇陀川の水で消火して進軍したという。
由緒 古くは伊勢街道の天神の森に鎮座した。現社地から北西1kmの所であり、神武天皇の鳥見の霊畤の跡ともされている場所である。大物主の祟りを静めるため、「宇陀の墨坂神に赤色の楯矛(たてほこ)を、大坂神に黒色の楯矛を祭り…国家(あめのした)安らかに平らぎき」(古事記)という崇神天皇の伝承を伝える。

こちらは盾(たて)
八咫烏神社
ご祭神 建角身命(たけつぬみのみこと)
ご由緒 「続日本紀」慶雲2年(705年)9月の条に大和国宇太郡に「八咫烏社を創建祀り」と記されている。
社殿 造りは春日造。
八咫烏 三本足のカラスで建角身命の化身とされている。神武天皇が東征のために熊野から大和への難路を導いた。建角身命は高皇産霊尊のひ孫にあたり、加茂建角命とも云い、京都山城の加茂氏の始祖である。八咫烏は国威の象徴。日本サッカー協会のシンボルマークとなり、モニュメントが平成14年(2002年)に建てられている。
明治初期に京都の下鴨神社から鴨県主を奉幣使として迎える。八咫烏神社の紋は下鴨神社と同じ「葵」の紋で下鴨神社と関わりがある。
宇太水分神社(菟田野)
ご祭神 速秋津比古神(はやあきつひこのかみ、イザナギ・イザナミの子)、天水分神(あめのみくまりのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)の水分三座が祀られている。
ご由緒 崇神天皇の時代にはじまるといわれ、縁起では、大和国宇陀郡の水分大明神は天照大神の分神で、垂仁天皇の時代に神託によって社殿をかまえたと伝えている。

宇太水分神社では、瑞垣(みずがき)の中に入って神職の説明を受けた
社 殿 本殿は連棟社殿。中央と左右の三殿からなる一間社 隅木入 春日造り 水分連結造りの古型(国宝・1320年の墨書き)で、外部は朱塗り。他に春日神社、宗像神社があり、宗像神社の蟇股は蟹の印で有名。
秋の例祭 「菟田野の秋祭り」のDVDを昼食時に拝見する。10月の第3日曜日は宇太水分神社のご例祭(お渡り)。惣社水分神社の女神(速秋津姫神)(はやあきつひめのかみ)と宇太水分神社の男神(速秋津比古神)(はやあきつひこもかみ)が年に1度だけ会うという祭である。

珍しいカニの彫刻。宗像神社(宇太水分神社の境内摂社)で

宇太水分神社では座敷に上げていただいてお弁当(奈交フーズ製)。とても美味しい!
宇賀神社
ご祭神 宇迦斯神(うがしかみ)。穿の兄うかし(エウカシ)と弟うかし(オトウカシ)の両論がある。カムヤマトイワレビコ(神武天皇のこと)の東征に対した兄弟のことである。


雑賀さんに「笑顔がステキ!」との声が上がる
血原橋 菟田野の宇賀志の血原橋(室生の田口の血原橋)
ヲドノ 大殿の跡

ここは兄宇迦斯(えうかし)が命を落とした「大殿」の跡といわれる
菟田穿邑(うだうがちむら)聖蹟顕彰碑
聖蹟碑 紀元二千六百年奉祝の事業(昭和15年、1940年)で建てられた。花崗岩製の同一規格・設計により、全国19基、総工費25万円だった。

阿紀神社をガイドされる津山さん。向かって左は吉澤さん
阿紀神社
ご祭神 天照皇大神(あまてらすおおみかみ)(太陽神)、秋田比売神(ひめかみ)、邇邇杵命(ににぎのみこと)(天孫降臨神)、八意思兼神(おもいかね)(知恵の神)

ご由緒 創始は崇神天皇の頃とされ「神戸明神」と賜るとある。神楽岡に創建され安土桃山時代に現在地に遷座、「阿紀神社」と改める。垂仁天皇は皇后日葉酢媛命の皇女である倭姫命に勅命を出して天照大神を祀る場所として倭姫命が選んだのが、日出る神聖な東の地がこの阿貴宮である。この地を開拓したのは須佐之男命の子孫、秋毘賣命と伝えられる。天照大神が今の伊勢神宮に鎮座する前にこの地に祀ったことから元伊勢とも呼ばれている。


阿紀神社の近くに「高天原」の看板が!「阿紀神社旧社地」とある
社 殿 神明造りで南向きに建てられ伊勢神宮と同じ建て方である。
阿騎野 神武東征の宇陀ルートの要(日本書紀)であり、朝廷の狩猟場でもあった。柿本人麻呂が詠んだ「ひむがしの野にかぎろひの・・・」はこの地である。神社の前を流れる川は本郷川、阿紀神社の御手洗川で、ここで禊をおこなった。
蛍 能 能舞台は宇陀松山藩3代目の織田長頼が寄進した。平成7年から「あきの蛍能」が催され幽玄のひとときを楽しむことができる。

阿騎野・人麻呂公園
中之庄遺跡(弥生時代、飛鳥時代、中・近世の3時期にわたる遺構)。かぎろひの丘・万葉公園を遠望する。

人麻呂公園では、全員で人麻呂の歌朗詠し、大いに盛り上がった
伝統的建造物群保存地区「宇陀市松山地区」
宇陀松山地区は平成18年重要伝統的建造物群保存地区に選定された。中世(南北朝)には宇陀三将の秋山、(芳野は菟田野、沢は伊那佐山)が支配したが、その後、戦国時代を経て、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、福島正則の弟福島高晴が入り、本格的な築城、町づくりをすすめられた。当時の遺構は黒門と呼ばれる西口関門(国史跡)だけである。

大宇陀福祉会館(旧町役場)明治36年。久保医院。初代久保良平は緒方洪庵の弟子だった。
森野旧薬園。森野道貞(藤助)が開いた現存する最古の薬園である。
黒川本家(県指定文化財)1615年創業である。
山邊家住宅(県指定文化財)江戸時代中期。
郡司家(県指定文化財)。
久保本家(元禄15年創業の作り酒屋)。奈良初のバス会社を始めたのも久保家。
道の駅「大宇陀」へ。
今回は、雑賀さんと津山さんが何度も下見に行かれて神社と交渉されていて、とても行き届いたツアーだった。なかなかマネのできることではない。きちんと資料を押さえた津山さんの手堅いガイドぶりとは対照的に、雑賀さんは身振り手振りを交えながら、また笑いを取りながら、分かりやすく楽しくガイドされていた。まさに名人芸、「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く」(井上ひさし)のお手本である。
私にとっては、人麻呂公園での「犬養節」の朗詠が最も印象に残った。皆さん、古事記もお好きだが、万葉集も大好きなのだ。雑賀さんがまずお手本として朗詠し、そのあと全員でマネて詠う。それまでは聞き役一方だったお客さんが自らの声を出して詠う。つまりここでツアーは「体験型」に生まれ変わるのである。来年4月から、ソムリエと奈良交通のタイアップツアーとして「犬養節で万葉歌を朗詠しながら県内を回ろう!」という趣旨の新シリーズを計画しているところだが、私はこれでツアーの成功を確信した。
今回朗詠したのは「日並の皇子の命(みこと)の馬並めて御猟(みかり)立たせし時は来向かふ」と「東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」だった。雑賀さんのブログには《アカペラは難しいです。音だけでも伴奏があればね。でも、いったん出た後は生意気にも、あれこれ歌唱指導して、参加者みんなで朗詠できました。人麻呂の石像に前で、「ひむがしの~~」の合唱、気分好いですねえ。みなさんもテレずに歌っていただきました。ただ、嬉しかった》とあった。
参加されたやいちさんはFacebookに《メインのお2人は、柔と剛のコンビと変化があり楽しめました。万葉集だともっと題材がいいですね。犬養孝先生風の朗詠にもいっそう拍車がかかることでしょう》とコメントされ、雑賀さんは《ありがとうございました。参加者にほめられるのが一番うれしいですね》とお返事されていた。
雑賀さんはこの日の様子をツアー翌日に「古事記と宇陀のバスツアー 」というタイトルでアップされた。
僕のガイドの狙いは明確である。参加者が「感動できるか、その前提としての驚き、ビックリがあるか」である。これは難しいけど、僕が感動したか、僕がビックリしたかなら、これは判断できる。空でも、山でも、川でも、町でも、そして神社でも、お寺でも、史跡でも、歴史でも対象は問わない。ビックリがあり、そこから感動が広がる、そういうガイドが夢である。そして笑いがあればより良い。
今度のツアーは「3回の感動、10個のビックリ」が僕のテーマだった。そんなガイドができたの?といわれれば、やっぱり困るけど… ま、狙い、目標ということだ。感動はともかく、10個のビックリは達成できたと思う。参加者に失礼だから、10個のビックリ全部を書き連らねることはできないので、今日は一個だけ。墨坂神社の赤盾、赤矛のことである。
墨坂神社の神輿収蔵庫には、この(もちろんコピーだが)赤の盾8枚、矛8さおが収納されている。これを見ていただいた。いまは、お渡りでも盾、矛は歩いていないが、せめて御例祭などでは展示だけでもするといいなと思う(収蔵庫の開扉は宮司の許可を事前に得ておいてください)。
雑賀さん、津山さん、素晴らしいガイドでした。私には感動とビックリの連続でした。参加された皆さんは、とても喜んでおられました。吉澤さん、添乗員の谷さん、終始サポート有難うございました。このツアーは12月16日(日)にも同じコース・同じガイドで開催されます(詳細は、こちら)。この日は総選挙の投票日ですが、期日前投票は簡単にできますし、当日も午前7時から夜8時まで投票できます。
たくさんの方のご参加をお待ちしています!
このツアーの特徴は、たくさんのコースを用意していること(古事記だけで6コース・全12回)、料金が安いこと、そして講師役が2人いることである。従来のバスツアーは講師は1人だけで、説明は現地のみだった。現地での説明は、長びくと苦痛になる(立ったままだし、屋外は寒かったり暑かったりする)。常々「途中のバスの中で解説してくれれば助かるのに」と思っていたが、車中と現地の両方でしゃべるのは1人ではシンドい。そこで、講師役を2人つけることにした。今回の雑賀さんと津山さんは、タイプの違う人(軟と硬)がコンビを組んだことで、お客さまには満足していただけたことと思う。さて今回のコース概要は、奈良交通のHPによると

宇賀(うが)神社をガイドされる雑賀さん
宇陀における神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと 神武天皇)の東征の道をたどります。建国にふさわしい地を求めて大和をめざした伊波礼毘古命は熊野に入り、神の使いである八咫烏(やたがらす)に導かれて宇陀に至ります。『古事記』に描かれた神武東征の意義と、宇陀の地での攻防を語り、古代に生きた人々に思いをはせます。
墨坂神社=八咫烏神社=宇太水分(うだみくまり)神社(お弁当の昼食)=宇賀神社=神武天皇聖蹟菟田穿邑顕彰碑=(人麻呂公園周辺下車)…阿紀神社…宇陀松山の町並散策…=大和八木駅(16:50頃)
というものであった。以下、今回のツアーのレジメから抜粋する。
1.神武天皇のヤマト入りのコースとは 吉野―宇陀の高城(八つ房杉)―宇陀の穿(宇賀志)―高倉山―墨坂、男坂(半坂)、女坂
2.ヤマトからみれば宇陀は秘境、同時に宇陀は四通八達の土地。神武天皇は吉野から宇陀に入る。天武天皇は壬申の乱で吉野から宇陀を抜けて東国へ。今も宇陀は吉野の玄関口である。秘境の宇陀と要路の宇陀という二つの顔を見る。
3.宇陀は丹(水銀)の採取地で、ヤマト朝廷にとって特別な場所だった。

今回は特別に「御神輿収納庫」を開けていただいた
榛原と墨坂神社
御祭神 墨坂大神(天御中主神-あめのみなかぬしのかみ、高皇産霊神-たかみむすひのかみ、神皇産霊神―かみなすみのかみ、伊邪那岐神、伊邪那美神、大物主神六柱)

おお、古事記に出てくる「赤の盾矛(たてほこ)」のレプリカが!こちらは矛(ほこ)
墨坂とは 神武天皇の軍が大和に入る時、この墨坂において、兄磯城が炭に火をつけて神武軍を阻んだとの故事がある。イコリズミ(山焼きの意)をもって防戦したため、神武軍は苦戦するが、宇陀川の水で消火して進軍したという。
由緒 古くは伊勢街道の天神の森に鎮座した。現社地から北西1kmの所であり、神武天皇の鳥見の霊畤の跡ともされている場所である。大物主の祟りを静めるため、「宇陀の墨坂神に赤色の楯矛(たてほこ)を、大坂神に黒色の楯矛を祭り…国家(あめのした)安らかに平らぎき」(古事記)という崇神天皇の伝承を伝える。

こちらは盾(たて)
八咫烏神社
ご祭神 建角身命(たけつぬみのみこと)
ご由緒 「続日本紀」慶雲2年(705年)9月の条に大和国宇太郡に「八咫烏社を創建祀り」と記されている。
社殿 造りは春日造。
八咫烏 三本足のカラスで建角身命の化身とされている。神武天皇が東征のために熊野から大和への難路を導いた。建角身命は高皇産霊尊のひ孫にあたり、加茂建角命とも云い、京都山城の加茂氏の始祖である。八咫烏は国威の象徴。日本サッカー協会のシンボルマークとなり、モニュメントが平成14年(2002年)に建てられている。
明治初期に京都の下鴨神社から鴨県主を奉幣使として迎える。八咫烏神社の紋は下鴨神社と同じ「葵」の紋で下鴨神社と関わりがある。

宇太水分神社(菟田野)
ご祭神 速秋津比古神(はやあきつひこのかみ、イザナギ・イザナミの子)、天水分神(あめのみくまりのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)の水分三座が祀られている。
ご由緒 崇神天皇の時代にはじまるといわれ、縁起では、大和国宇陀郡の水分大明神は天照大神の分神で、垂仁天皇の時代に神託によって社殿をかまえたと伝えている。

宇太水分神社では、瑞垣(みずがき)の中に入って神職の説明を受けた
社 殿 本殿は連棟社殿。中央と左右の三殿からなる一間社 隅木入 春日造り 水分連結造りの古型(国宝・1320年の墨書き)で、外部は朱塗り。他に春日神社、宗像神社があり、宗像神社の蟇股は蟹の印で有名。
秋の例祭 「菟田野の秋祭り」のDVDを昼食時に拝見する。10月の第3日曜日は宇太水分神社のご例祭(お渡り)。惣社水分神社の女神(速秋津姫神)(はやあきつひめのかみ)と宇太水分神社の男神(速秋津比古神)(はやあきつひこもかみ)が年に1度だけ会うという祭である。

珍しいカニの彫刻。宗像神社(宇太水分神社の境内摂社)で

宇太水分神社では座敷に上げていただいてお弁当(奈交フーズ製)。とても美味しい!
宇賀神社
ご祭神 宇迦斯神(うがしかみ)。穿の兄うかし(エウカシ)と弟うかし(オトウカシ)の両論がある。カムヤマトイワレビコ(神武天皇のこと)の東征に対した兄弟のことである。


雑賀さんに「笑顔がステキ!」との声が上がる
血原橋 菟田野の宇賀志の血原橋(室生の田口の血原橋)
ヲドノ 大殿の跡

ここは兄宇迦斯(えうかし)が命を落とした「大殿」の跡といわれる
菟田穿邑(うだうがちむら)聖蹟顕彰碑
聖蹟碑 紀元二千六百年奉祝の事業(昭和15年、1940年)で建てられた。花崗岩製の同一規格・設計により、全国19基、総工費25万円だった。

阿紀神社をガイドされる津山さん。向かって左は吉澤さん
阿紀神社
ご祭神 天照皇大神(あまてらすおおみかみ)(太陽神)、秋田比売神(ひめかみ)、邇邇杵命(ににぎのみこと)(天孫降臨神)、八意思兼神(おもいかね)(知恵の神)

ご由緒 創始は崇神天皇の頃とされ「神戸明神」と賜るとある。神楽岡に創建され安土桃山時代に現在地に遷座、「阿紀神社」と改める。垂仁天皇は皇后日葉酢媛命の皇女である倭姫命に勅命を出して天照大神を祀る場所として倭姫命が選んだのが、日出る神聖な東の地がこの阿貴宮である。この地を開拓したのは須佐之男命の子孫、秋毘賣命と伝えられる。天照大神が今の伊勢神宮に鎮座する前にこの地に祀ったことから元伊勢とも呼ばれている。


阿紀神社の近くに「高天原」の看板が!「阿紀神社旧社地」とある
社 殿 神明造りで南向きに建てられ伊勢神宮と同じ建て方である。
阿騎野 神武東征の宇陀ルートの要(日本書紀)であり、朝廷の狩猟場でもあった。柿本人麻呂が詠んだ「ひむがしの野にかぎろひの・・・」はこの地である。神社の前を流れる川は本郷川、阿紀神社の御手洗川で、ここで禊をおこなった。
蛍 能 能舞台は宇陀松山藩3代目の織田長頼が寄進した。平成7年から「あきの蛍能」が催され幽玄のひとときを楽しむことができる。

阿騎野・人麻呂公園
中之庄遺跡(弥生時代、飛鳥時代、中・近世の3時期にわたる遺構)。かぎろひの丘・万葉公園を遠望する。

人麻呂公園では、全員で人麻呂の歌朗詠し、大いに盛り上がった
伝統的建造物群保存地区「宇陀市松山地区」
宇陀松山地区は平成18年重要伝統的建造物群保存地区に選定された。中世(南北朝)には宇陀三将の秋山、(芳野は菟田野、沢は伊那佐山)が支配したが、その後、戦国時代を経て、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、福島正則の弟福島高晴が入り、本格的な築城、町づくりをすすめられた。当時の遺構は黒門と呼ばれる西口関門(国史跡)だけである。

大宇陀福祉会館(旧町役場)明治36年。久保医院。初代久保良平は緒方洪庵の弟子だった。
森野旧薬園。森野道貞(藤助)が開いた現存する最古の薬園である。
黒川本家(県指定文化財)1615年創業である。
山邊家住宅(県指定文化財)江戸時代中期。
郡司家(県指定文化財)。
久保本家(元禄15年創業の作り酒屋)。奈良初のバス会社を始めたのも久保家。
道の駅「大宇陀」へ。
今回は、雑賀さんと津山さんが何度も下見に行かれて神社と交渉されていて、とても行き届いたツアーだった。なかなかマネのできることではない。きちんと資料を押さえた津山さんの手堅いガイドぶりとは対照的に、雑賀さんは身振り手振りを交えながら、また笑いを取りながら、分かりやすく楽しくガイドされていた。まさに名人芸、「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く」(井上ひさし)のお手本である。
私にとっては、人麻呂公園での「犬養節」の朗詠が最も印象に残った。皆さん、古事記もお好きだが、万葉集も大好きなのだ。雑賀さんがまずお手本として朗詠し、そのあと全員でマネて詠う。それまでは聞き役一方だったお客さんが自らの声を出して詠う。つまりここでツアーは「体験型」に生まれ変わるのである。来年4月から、ソムリエと奈良交通のタイアップツアーとして「犬養節で万葉歌を朗詠しながら県内を回ろう!」という趣旨の新シリーズを計画しているところだが、私はこれでツアーの成功を確信した。
今回朗詠したのは「日並の皇子の命(みこと)の馬並めて御猟(みかり)立たせし時は来向かふ」と「東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」だった。雑賀さんのブログには《アカペラは難しいです。音だけでも伴奏があればね。でも、いったん出た後は生意気にも、あれこれ歌唱指導して、参加者みんなで朗詠できました。人麻呂の石像に前で、「ひむがしの~~」の合唱、気分好いですねえ。みなさんもテレずに歌っていただきました。ただ、嬉しかった》とあった。
参加されたやいちさんはFacebookに《メインのお2人は、柔と剛のコンビと変化があり楽しめました。万葉集だともっと題材がいいですね。犬養孝先生風の朗詠にもいっそう拍車がかかることでしょう》とコメントされ、雑賀さんは《ありがとうございました。参加者にほめられるのが一番うれしいですね》とお返事されていた。
雑賀さんはこの日の様子をツアー翌日に「古事記と宇陀のバスツアー 」というタイトルでアップされた。
僕のガイドの狙いは明確である。参加者が「感動できるか、その前提としての驚き、ビックリがあるか」である。これは難しいけど、僕が感動したか、僕がビックリしたかなら、これは判断できる。空でも、山でも、川でも、町でも、そして神社でも、お寺でも、史跡でも、歴史でも対象は問わない。ビックリがあり、そこから感動が広がる、そういうガイドが夢である。そして笑いがあればより良い。
今度のツアーは「3回の感動、10個のビックリ」が僕のテーマだった。そんなガイドができたの?といわれれば、やっぱり困るけど… ま、狙い、目標ということだ。感動はともかく、10個のビックリは達成できたと思う。参加者に失礼だから、10個のビックリ全部を書き連らねることはできないので、今日は一個だけ。墨坂神社の赤盾、赤矛のことである。
墨坂神社の神輿収蔵庫には、この(もちろんコピーだが)赤の盾8枚、矛8さおが収納されている。これを見ていただいた。いまは、お渡りでも盾、矛は歩いていないが、せめて御例祭などでは展示だけでもするといいなと思う(収蔵庫の開扉は宮司の許可を事前に得ておいてください)。
雑賀さん、津山さん、素晴らしいガイドでした。私には感動とビックリの連続でした。参加された皆さんは、とても喜んでおられました。吉澤さん、添乗員の谷さん、終始サポート有難うございました。このツアーは12月16日(日)にも同じコース・同じガイドで開催されます(詳細は、こちら)。この日は総選挙の投票日ですが、期日前投票は簡単にできますし、当日も午前7時から夜8時まで投票できます。
たくさんの方のご参加をお待ちしています!