tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

魚佐旅館が閉館、150年の歴史に幕!(2013Topic)

2012年12月30日 | お知らせ
年末ギリギリになって、悲しい知らせが届いた。奈良の老舗「魚佐旅館」が2013年1月3日に閉館するというのだ。奈良新聞(12/30付)《「魚佐旅館」廃業へ 観光支えた150年に幕》から一部を抜粋すると、
※トップとすぐ下の写真は、魚佐旅館・金田専務のFacebokより

3日に閉館 小泉八雲も宿泊 客足鈍化で決断
猿沢池のほとりで約150年の業歴を誇る老舗旅館「魚佐旅館」(奈良市下御門町、客室数59室)が来年1月3日に閉館することが、29日までに分かった。奈良市内最大規模の旅館として修学旅行生を中心に客を受け入れてきたが、近年の価格競争の激化や東日本大震災の影響などで客足が鈍化。「回復の兆しが見えず、体力のあるうちの廃業を決断した」(同館)。観光業者からは閉館を惜しむ声が上がっている。

東海地方の小学校の修学旅行客や全国高校ラグビー大会の出場校などを誘致し、堅実な経営を続けてきた。だが、バブル経済崩壊後は客足が徐々に鈍った。平城遷都1300年祭時に一時回復したが東日本大震災で再び減少。インターネットの普及に伴う価格競争の激化もあり直近の売上高はピーク時の3分の1に落ちていた。



建物は約2900平方メートルの敷地に鉄筋コンクリート造り(4階建て)と木造(2階建て)の2棟(延べ約3890平方メート)が併設。修学旅行客を最大350人まで収容できる。だが、木造棟は戦後すぐの、鉄筋棟は昭和32年から54年までの建築で老朽化も進んでいた。

4半世紀、同館の経営を支えた金田充史専務(49)は「設備更新も考えたが、建物の高さ規制や採算性などを検証し断念した。先祖代々の業をたたむのは断腸の思い」と話す。営業は1月3日に終了し、15日までに館内の物品整理などを終える。跡地利用は「収益や地域性を考慮し、何らかの事業化を検討している」(金田専務)。

県内184の旅館・ホテル事業者が加盟する県旅館・ホテル生活衛生同業組合によると、魚佐旅館は「市内旅館の客室数で最大規模」としている。吉川義博専務理事は「奈良の観光を支えた老舗旅館の灯が消えるのは寂しい。日本文化の魅力を伝える旅館業者を何とか元気づけたい」と力を込める。



これら2枚は、2007年12月29日、魚佐旅館で撮影。このお鍋は豆板醤でいただいた

魚佐の金田専務とは長いお付き合いなので、いろいろと興味深いお話をお聞きした。「本業は旅館、やってます。しかし、いろんな街中の催事イベントで、スタッフシャツで走り回ってます。大声が聞こえれば、たいてい私です」(FaceBookの「自己紹介」)という元気な人である。

なかでも、かつてご先祖が「暗峠(くらがりとうげ 東大阪市~生駒市)まで大八車を引いて、大阪方面から奈良に来られる旅行客の荷物を預かりに行った」という話が印象に残る。お客は手ぶらで奈良まで歩けるし、旅館は荷物を質に取ることで確実に泊まってもらえるのだ。「大仏商法」などと揶揄されることがあるが、こんな経営努力もされていたのである。金田さんご自身も、楽天トラベルを使って、大手旅行エージェントに頼らない集客の工夫をされていた。


金田家所蔵の二重はそう(はそうは瓦へんに泉)。須恵器の1種で、振るとカラカラと鳴る

最近は旅行の形態が大きく変化している。団体旅行から個人・グループ旅行へという大きな流れがあり、さらに奈良では修学旅行の減少(旅行先の多様化・少子化)が追い打ちをかける。「旅館・日本旅館が直面する課題」(あかつき鑑定法人株式会社のHP)には《現在の旅館は、時代のニーズに対応できず陳腐化した建物・設備により集客力が落ち、価格競争に飲み込まれている。団体客不在で小口化した客と価格下落によるダブルパンチにより利益が出なくなった旅館事業、バブル期に借り入れた借入金の利息さえも支払えないことにより、設備の更新費用のための資金の手配もままならない状況にあるのが今日の旅館業の姿かもしれない》とある。全国各地、旅館経営は大変なのである。

「湯快リゾート」では、大人1人が7,800円(1泊2食付)で泊まれるし、しかも365日同一料金である。こんな価格競争に巻き込まれては、とても採算が取れないだろう。

金田さんは12月3日以降、Facebookに何も投稿されなくなり「体調でも壊されたのだろうか」と心配していたが、その原因が今回の閉館だったのである。このような厳しい環境のなかでの長年にわたる旅館経営は、本当に大変だったことだろう。

金田さん、勇気ある決断でしたね。残務整理がひと区切りつきましたら、また元気な大声を聞かせてください!
コメント (14)
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孝女伊麻のふるさと葛城(産経新聞「なら再発見」第11回)

2012年12月30日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版と三重版に好評連載中の「なら再発見」、11回目が昨日(12/29)掲載された。執筆されたのは、奈良検定の最上級資格「奈良まほろばソムリエ」を持つ有志によって構成される「奈良まほろばソムリエ友の会」の田原敏明さんである。お題は「孝女伊麻(いま)」である。

 難波と大和を結ぶ古道の竹内街道と長尾街道は、二上山南東の近鉄南大阪線磐城(いわき)駅(葛城市)近くにある長尾神社前で交差する。
 その昔、三輪山(桜井市)を三重に取り巻き、その尾が当地まで延びる大きなヘビがいたという。三輪明神が頭で、長尾神社はその尾にあたるとの伝説だ。
 長尾街道を南へ数百メートル歩いた葛城市南今市に「孝女伊麻(こうじょいま)旧跡」がある。
 ここが、地元の農夫の娘、孝女伊麻の誕生の地と伝えられ、「孝子(こうし)碑」と彫られた古い石碑が残る。伊麻の事績が忘れられないよう、天保11(1840)年の建立とある。

      *   *   *
 石碑を見つめていると通行途中の女性が、近くの葛城市立磐城小学校に孝女伊麻像が建っていると教えてくれた。警備の人に声をかけ、校舎玄関横の孝女伊麻像を見つけた。昭和42年建立とある。


子供たちにも親しまれている孝女伊麻像=葛城市立磐城小

 伊麻は寛永元(1624)年に農夫の子として生まれた。4歳年下の弟がいた。幼くして母を失い、2人の子連れの継母を迎えた。
 13歳で伊麻は農家、弟は商家の丁稚奉公に。姉弟は一生懸命働き、両親に尽くしたが、継母は家を出てしまう。成人して弟は桶屋を開き結婚したが、伊麻は生涯独身で糸を紡(つむ)いで働き続けた。
 大和で流行した疫痢で父が病にかかり、医者にも見放された。伊麻は父の回復を神仏に祈り続けた。ウナギの肝が病気に効くと聞き、姉弟は川を探したが見つからない。それでも伊麻は看病を続け、ウナギを探した。
 ある夜、台所の水瓶から水が飛び出る音で目を覚ました。瓶の中を見ると大きなウナギが入っていた。父に食べさせると、たちまち全快。残りのウナギを村人に分けて多くの命を救ったとされる。「伊麻の父を思う心が神仏に通じた」と誰もが伊麻に感謝した。

      *   *   *
 この話を聞いた松尾芭蕉も、伊麻のもとを訪ねた。「今回の旅は伊麻に会ったことで充分だ」。芭蕉は友人に手紙を書いたという。伊麻は父が死ぬまで孝行を続け、晩年は仏門に入り名を妙徳(みょうとく)と改め、81歳で亡くなった。
 孝女伊麻は地元では「お伊麻さん」と親しまれている。2月27日の伊麻の命日には、徳をしのぶ法要が旧宅跡で行われる。
 磐城小の児童も参列して拝礼する。明治22年創立以来の行事という。しかも磐城小の校章は、ウナギがいたという水瓶を図案化したものだ。校歌にも「不滅の孝女信じて行かん」の一節がある。
 これからもお伊麻さんは、母親のような慈しみの心で、児童を見守り続けることだろう。(奈良まほろばソムリエ友の会 田原敏明)


文中にあるとおり「孝女伊麻顕彰法要」は、彼女の命日の2月27日に毎年「孝女伊麻旧跡」で行われる。この法要には、磐城小学校と磐城第一・第二保育園の子ども全員が孝女伊麻旧跡にお参りするそうだ。お伊麻さんの親孝行ぶりが、今もこうして受け継がれているというのは素晴らしいことである。田原さん、良いお話を有難うございました!
(来週はお正月のため「なら再発見」は休載となり、次回の掲載は1/12です。)


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