3/19(土)、第7回古社寺を歩こう会「記紀・万葉の宇陀路バスツアー」を実施した。3連休の初日で、3日間のうち唯一の晴天、しかもぽかぽか陽気にも恵まれた。参加者は、計34人という大所帯だった(当ブログから19人、会社のOB・同僚から15人)。
※写真はすべて、3/19の撮影。(Y)とあるのは県職員のYさんが撮影して下さったもの。Yさん、有難うございました!
この日のコースは、◆午前:墨坂(すみさか)神社→宇太水分(うだみくまり)神社(下社=榛原区)→宇太水分神社(中社=菟田野区)→人麻呂公園→かぎろひの丘万葉公園(昼食)◆午後:阿紀(あき)神社→宇陀松山の町並み散策(西口関門、久保本家など)→解散・打ち上げ参加者はあきののゆへ というものだった。以下、訪問順に概要を紹介する。
バスは奈良を出発し、まずは宇陀市榛原区へ。榛原区はWikipediaによると《奈良県中東部に位置し、四方を山地に囲まれた高原都市。町の北部を近鉄大阪線や国道165号が横断する。宇陀地区の中心となる町である》《町内を流れる宇陀川・芳野川周辺の平坦地とそれを取り囲む山地で構成される。平坦地の部分でも海抜300m前後の標高をほこり、周囲の山は600~800m級のものである。位置としては大和高原の南端に位置する》。
(Y)
榛原区・墨坂神社と宇太水分神社(下社)の案内役は、榛原観光ボランティアガイドの会の石田さん(=伊勢本街道保存会副会長)と大江さんだった。また今回のプランニングに際しアドバイスいただいた宇陀市商工観光課の室さんも、わざわざ足をお運び下さり、バスの乗降や道路の横断などをサポートしていただいた。
墨坂神社(宇陀市榛原区萩原)は、「記紀・万葉の宇陀路」というテーマにふさわしい古社である。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社刊)には《祭神=墨坂神 旧県社。「記・紀」崇神天皇の条に、悪病流行、人民死に絶えようとした時、『日本書紀』では神人が、『古事記』では大物主神が天皇の夢の中に現れて、墨坂の神に赤色の盾矛を、大坂の神に黒色の盾矛をもって祀れとの教えに従ったところ、悪病止んで平穏となったとある》。
榛原観光ボランティアガイドの会の石田さん(向かって左)と大江さん
《また『日本書紀』雄略天皇7年7月3日の条「三諸岳の神」に「此の山の神をば大物主神というといふ。或いはいふ、菟田墨坂の神なり」と出ている。もとは伊勢街道の宇陀市榛原区西峠付近の天の森に鎮座していたと伝わる》。西峠(榛原区)は近鉄榛原駅の北・国道165号線の北側にあり、行きも帰りも、バスで通りかかった場所だ。
(Y)
Tenbouさんが買われた「墨坂神社略記」を拝見すると《日本書紀によれば神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(マツリノニワ)を築かれ、天皇みづから皇祖天神を祭祀され「この地を上小野榛原(カミツオノハリハラ)、下小野榛原(シモツオノハリハラ)という」とある。その下小野榛原が即ち墨坂の地である。現在は西峠地区内にあるが、神武天皇の軍が大和菟田に入られた時この墨坂において賊軍がイコリズミ(山焼きの意)をもって防戦したため、天皇の軍は苦戦し菟田川を堰き止め消火して進軍した所でもある》。
さて次は、宇太水分神社・下社(榛原区下井足)である。境内の掲示板によると《奈良県宇陀郡榛原町下井足、舟形山に鎮座まします。当神社の創祀は、太古の国史「三代実録」(奈良時代-平安時代に編集された六国史本)によれば、「貞観元年」(859年)9月8日宇太水分神社へ風雨祈願のため勅使を遣わし幣(お金や織物等)を奉ったとあるから、その由来は実に古く。水分神は「ミクマリ」と読まれ、五穀豊穣と、生命を宿す御神徳の高い農耕神として、人々の崇拝の対象とされてきたことを物語る》。
宇太水分神社・下社(Y)
《延喜式神明帳では、当水分社は葛城、都祁、吉野水分と共に大和の四水分の大社とされていたが、応保年間(1160年)頃より芳野川にそって三所三座(当社・古市場社・芳野社)に祀られている。「延喜式登載」や「水分由来集」や「神体形相記」によると、 玉岡(古市場)水分は男躰、田山(井足)水分は女躰、中山(芳野)水分は童躰とあって、 かって祭礼には、中山水分から田山水分まで神輿の御渡があったと、伝えられている。明治の始め頃までは、本殿を始め、附属の建物はすべて古い形式で(春日造)であったが、明治11年、神社形式令により県社の指定を受け現在の神明造りになっている》。
ここで、ガイドの大江さんが万葉歌を紹介して下さった。墨坂(住坂)の地名が登場する。
「君が家(へ)にわが住坂の家道(いへぢ)をも われは忘れじ命死なずは」柿本人麻呂の妻(巻4―504)
解釈は様々に分かれているようだ。奈良新聞のグラフ「万葉の景色」によると 《「君が家にわが」までが「住む」という住坂を導く序詞。解釈をめぐっては諸説あるようだが、当時は男が女の家を訪ねる「通い夫」が一般的。ならば君(夫)の家に我(妻)が住むのは疑問だ。人麻呂が妻に贈った歌の書き誤りだとか、君と我の写し違いだなど…。何やらややこしい。旅立つ人麻呂に対し「私を忘れないでほしい」という願望を込めた妻の心を代弁した歌という説も。こちらに軍配を上げたい、そんな思いがした》。
ここで榛原観光ボランティアガイドの会の皆さんとお別れし、バスは菟田野区へ。菟田野区はWikipediaによると《奈良県の東北部大和高原の山中に位置し、町の東部から流れる芳野川(ほうのがわ)流域の谷間に集落が点在する》《古代の大和国宇陀郡多気郷の地であり、延喜式内・宇太水分神社(古市場)が鎮座する》《毛皮革産業・林業が盛んである》とある。
(Y)
(Y)
バスの車窓からは毛皮屋さんや、宇陀牛の肉屋さんの看板が見える。駐車場でバスを降り旧街道を歩くと、これは風情のある町並みであった。庄屋さんの旧家やレトロな農機具屋さん、雑貨屋さんなどがあって、なんとも昔懐かしい風景である。菟田野は、バスの駐車場からガイドまで、同僚のNさんがあらかじめ手配して下さっていた。菟田野観光ボランティアガイドの会の皆さんが、宇太水分神社・中社(菟田野区古市場)まで誘導して下さった。
正面が拝殿。ここでお祈りを捧げた(Y)
宇太水分神社では、まずは東日本大震災でお亡くなりになった方のご冥福、行方不明者のご無事、被災者の救護、被災地の復興を祈願し、禰宜の三家(みやけ)邦彦さんに祝詞(のりと)をあげていただいた。参加者全員、拝殿に上がらせていただき、本殿に向かってお祈りを捧げた。
(Y)
国宝の本殿(Y)
お祈りのあとは、榛原観光ボランティアガイドの会の元会長・森本徳蔵さん(森庄銘木産業株式会社取締役会長)が、神社の由緒や本殿建物(国宝)について、解説して下さった。森本さんは、NPO法人宇陀カエデの郷づくりの理事長も務めておられる。
宇陀市のHPによると《緑濃い木立の中に速秋津比古神、天水分神、国水分神の水分三座が祀られています。社伝では、崇神天皇の時代にはじまるといわれ、縁起では、大和国宇陀郡の水分大明神は天照大神の分神で、垂仁天皇の時代に神託によって社殿をかまえたと伝えている。本殿は、連棟社殿で中央と左右の三殿からなる一間社隅木入春日造り(国宝)水分連結造りの古型で、外部は朱塗り。蟇股など細部に鎌倉時代の特徴をみることができます》。NHKの「やまとの国宝」宇太水分神社の回では、三家さんが説明役で登場されていた。
境内の休憩所で「菟田野の秋祭り」のDVD映像を拝見した。このお祭りは、写真家・野本暉房さんのHPによると《菟田野の秋祭りは惣社水分(みくまり)神社の女神が宇太水分神社の男神へ年に一度会いに行くお祭りで千年以上も続いているそうです。女神を乗せた神輿がお供を従え、時代行列で5キロ程の街道を下ってきます。それを盛り上げるために町内各地から集まった6台の太鼓台が「ヨーイトサノセー、ヨイトサノセー」の掛け声で街を練り歩き、神社の境内ではさらに豪壮に練り回ります》。初めて映像を拝見したが、これはメガ勇壮なお祭りである。
菟田野秋祭り(by Mr.Nakagawa)
さていよいよ次は大宇陀区だ。Wikipediaによると、ここは《古代には阿騎野と呼ばれ、宮廷の狩場となった。柿本人麻呂が阿騎野で詠んだ歌「東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾ぬ」で有名である。延喜式内の阿紀神社(迫間)が鎮座する。中世には地侍出身の秋山氏が支配したが、その後支配者が入れ替わり、17世紀には織田松山藩3万石の城下町となった。織田氏転封後は幕府直轄領となり、明治維新を迎える》。
私たちは、又兵衛桜にほど近い阿騎野・人麻呂公園でバスを降りた。奥には市の体育館があり、その手前の中之庄遺跡(弥生時代、飛鳥時代、中・近世の3時期にわたる遺構)を埋め戻して整備された人麻呂公園が広がる。かぎろひの丘・万葉公園は、すぐ近くだ。ここでは、下見でお世話になった大宇陀観光ボランティアガイドの会の藤本さんはじめ、木下さん、奥谷さんと3人ものガイドさんが登場。参加者を3つのグループに分け、それぞれ懇切丁寧にご説明いただいた。
「ひむがしの…」の歌が詠まれたかぎろひ丘の上で、お待ちかねの昼食。大宇陀は薬のまち。今回は、薬草料理で知られる料理旅館「今阪屋旅館」(大宇陀区中新1975)の「薬草弁当」をいただいた。わざわざ献立表までつけていただいている。紹介すると
・小 鉢 山くらげ たたき牛蒡(ゴボウ)
・御造り 吉野本葛のお刺身 酢みそあしらえ
・焚 合 竹の子 菜の花 南京 小芋 桜麩 裏白椎茸 薬草あんかけ
・合 肴 薬草天ぷら 防風(ボウフウ=セリ科の薬草)
ユキノシタ ふきのとう 薩摩芋 茗荷(ミョウガ)
・御 飯 絹皮銀杏御飯
・果 物 いちご
わずか千円のお弁当に、薬草など、こんなにたくさんの地物を詰め合わせて下さった。しかも出来たてほやほやだ。私としては、歯触りのいい「吉野本葛のお刺身」と、ほのかな苦みに春を感じる「薬草天ぷら」が気に入った。皆さんの評判も、とても良かった。今阪屋さん、有難うございました。また今阪屋さんをご紹介下さったYさん、お世話をおかけしました。
食後は徒歩で阿紀神社へ。この神社は、Wikipediaによると《奈良県宇陀市に鎮座する神社。旧社格は県社、延喜式内社。旧称は阿貴宮および神戸(かんべ)大神宮、通称は神戸明神》《神代に神楽岡に創建され、崇神天皇の勅によって神戸大神宮の号を賜わる。 安土桃山時代(天正年間)に本郷川西岸の現在地に遷座されたときに、現在の社名へと改められた。 江戸時代前期に能舞台が建設され、能が上演されるようになる。 明治35年に郷社から昇格して県社に列格した》。
(Y)
この神社では毎年6月に「あきの蛍能」が催される。宇陀商工会青年部・大宇陀支部のHPによると《能の無形文化財保持者の浦田先生も出演される「あきの蛍能」は全国的にも知られており、この舞台を楽しみに毎年大勢の観客がここ阿紀神社に集まります。そして「蛍能」の名の通り、舞台のクライマックスに舞台袖で放たれた数百匹の蛍が漆黒の空に舞い上がる様は非常に幻想的です。私達青年部は毎年竹灯篭(会場の阿紀神社から帰路の足下を照らす為の灯篭)作りや会場準備、物産販売などのお手伝いしています》。
川で手を清める。モデルは銀とき子さん
さて、いよいよ伝統的建造物群保存地区「宇陀市松山地区」である。宇陀松山観光案内HPによると《2006年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された宇陀松山地区は、かつての大宇陀町である奈良県宇陀市の南西部に位置している、長い歴史を持った町です。周囲を吉野山地、竜門山地、大和高原などの山々に囲まれた辺境の地ではありましたが、京都や奈良と伊勢をつなぐ交通の要衝だったことから、古くから中央の影響を受けながら発達してきました》。
宇陀松山城の西口関門(Y)
《日本の歴史に宇陀が登場するのはかなり早く、飛鳥時代まで遡ることになります。宇陀地域の山々は鳥獣が豊富だったために絶好の狩猟場として見いだされ、「阿騎野」という呼び名で日本書紀に登場しています。また柿本人麻呂が軽皇子(文武天皇)の狩猟の情景を詠んだ歌も阿騎野でのことと知られています。交通の要衝となっていた宇陀地域が、町として形を成し始めるのは戦国時代、秋山庄の荘官から国人領主に成長した秋山氏が城を築き、その城下町として山腹に栄えたのが現在の松山の起源であると言われています》。
右端が大宇陀観光ボランティアガイドの会の藤本さん
《その後、秋山氏は豊臣氏に追放され、秋山城には秀吉の弟、秀長の家臣が入り、この頃に城の大規模改修と城下町の拡大整備が行われ、現在の骨格が整えられました。この時に阿貴町から松山町に名前が変えられたと考えられています。 元和元年に城は壊されましたが、宇陀松山藩となってからは長山に藩屋敷を置き、織田信長の次男信雄(のぶかつ)が初代藩主となり4代にわたって松山藩を治めました。やがて近代になると郡役所や裁判所ができ、政治の中心地として栄えたほか、県内初の乗り合いバスが走り、十数件の料理旅館がひしめいた時期があり、昭和の半ばまでその賑わいは続きました。それが宇陀松山の町並みです》。
重伝建・宇陀松山の町並みを、(宇陀松山城の)西口関門から、久保本家酒造まで歩いた。よほど住民とのコミュニケションが取れているのだろう、ガイドさんはお家の人に声をかけながら、古い看板や町家の設(しつら)いなどを指差しながら説明して下さる。美味しいと評判の本善食堂の前では、ちょうどご主人がいらっしゃったので、写真を撮らせていただいた。
本善食堂前で、Iさん・銀さんとスリーショット
大人気の洋菓子屋さん大宇陀アナンダでは、シュークリーム(またはマカロン)を買って、参加者1人に1個ずつお配りした。久保本家酒造では、試飲もさせていただいた。このあと道の駅に立ち寄り、再びバスへ。打ち上げ(懇親会)参加者は大宇陀温泉あきののゆで下車、直帰の方はそのまま近鉄榛原駅北口に向かった。
私は温泉で疲れをほぐしたあと、お食事処おときやで懇親会。ガイドの藤本さんにも加わっていただき、自己紹介やこの日の感想などでワイワイと盛り上がった。山菜とかやくご飯のお料理に、茶粥もつけていただいたので、お腹もいっぱいになった。温泉とレストランが一体となったこの施設は、とても便利だ。このあとバスは榛原駅経由で一路奈良へ。
それにしても、楽しいバスツアーだった。いつもは鉄道か路線バスとウォーキングだが、観光バスというのも良いものだ。「古社寺を歩こう会」は、もともとは会社の同好会のような形で始まったが、当ブログでも募集を開始してから参加者が増え、年齢層も広がった。第4回古社寺を歩こう会(今井町編)のコースは、昨年の奈良まほろばソムリエ検定(奈良商工会議所)の「体験学習プログラム」(大和今井を歩く)にも採用された。
(Y)
(Y)
いつも、「こんなツアーがあれば、ぜひ行きたい」「こういう風にツアーを組み立てれば、遠方からも奈良を訪ねて下さるだろう」「地元(訪問先)の方にも、喜んでいただけるだろう」と考えてコースを組んでいる。必ずガイドさんをつけ、食事にもこだわっている。だから、どんどんマネしていただきたいのである。参加者の間からは、早速、次回のプランも出てきている。
(Y)
(Y)
今回のツアーは、宇陀市役所の職員さん、ボランティアガイドの皆さん、水分神社の三家さん、森本さんはじめ、たくさんの方のご協力のおかげで実現しました、有難うございました。参加者の皆さん、楽しかったですね。また次回をお楽しみに!
※写真はすべて、3/19の撮影。(Y)とあるのは県職員のYさんが撮影して下さったもの。Yさん、有難うございました!
この日のコースは、◆午前:墨坂(すみさか)神社→宇太水分(うだみくまり)神社(下社=榛原区)→宇太水分神社(中社=菟田野区)→人麻呂公園→かぎろひの丘万葉公園(昼食)◆午後:阿紀(あき)神社→宇陀松山の町並み散策(西口関門、久保本家など)→解散・打ち上げ参加者はあきののゆへ というものだった。以下、訪問順に概要を紹介する。
バスは奈良を出発し、まずは宇陀市榛原区へ。榛原区はWikipediaによると《奈良県中東部に位置し、四方を山地に囲まれた高原都市。町の北部を近鉄大阪線や国道165号が横断する。宇陀地区の中心となる町である》《町内を流れる宇陀川・芳野川周辺の平坦地とそれを取り囲む山地で構成される。平坦地の部分でも海抜300m前後の標高をほこり、周囲の山は600~800m級のものである。位置としては大和高原の南端に位置する》。
(Y)
榛原区・墨坂神社と宇太水分神社(下社)の案内役は、榛原観光ボランティアガイドの会の石田さん(=伊勢本街道保存会副会長)と大江さんだった。また今回のプランニングに際しアドバイスいただいた宇陀市商工観光課の室さんも、わざわざ足をお運び下さり、バスの乗降や道路の横断などをサポートしていただいた。
墨坂神社(宇陀市榛原区萩原)は、「記紀・万葉の宇陀路」というテーマにふさわしい古社である。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社刊)には《祭神=墨坂神 旧県社。「記・紀」崇神天皇の条に、悪病流行、人民死に絶えようとした時、『日本書紀』では神人が、『古事記』では大物主神が天皇の夢の中に現れて、墨坂の神に赤色の盾矛を、大坂の神に黒色の盾矛をもって祀れとの教えに従ったところ、悪病止んで平穏となったとある》。
榛原観光ボランティアガイドの会の石田さん(向かって左)と大江さん
《また『日本書紀』雄略天皇7年7月3日の条「三諸岳の神」に「此の山の神をば大物主神というといふ。或いはいふ、菟田墨坂の神なり」と出ている。もとは伊勢街道の宇陀市榛原区西峠付近の天の森に鎮座していたと伝わる》。西峠(榛原区)は近鉄榛原駅の北・国道165号線の北側にあり、行きも帰りも、バスで通りかかった場所だ。
(Y)
Tenbouさんが買われた「墨坂神社略記」を拝見すると《日本書紀によれば神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(マツリノニワ)を築かれ、天皇みづから皇祖天神を祭祀され「この地を上小野榛原(カミツオノハリハラ)、下小野榛原(シモツオノハリハラ)という」とある。その下小野榛原が即ち墨坂の地である。現在は西峠地区内にあるが、神武天皇の軍が大和菟田に入られた時この墨坂において賊軍がイコリズミ(山焼きの意)をもって防戦したため、天皇の軍は苦戦し菟田川を堰き止め消火して進軍した所でもある》。
さて次は、宇太水分神社・下社(榛原区下井足)である。境内の掲示板によると《奈良県宇陀郡榛原町下井足、舟形山に鎮座まします。当神社の創祀は、太古の国史「三代実録」(奈良時代-平安時代に編集された六国史本)によれば、「貞観元年」(859年)9月8日宇太水分神社へ風雨祈願のため勅使を遣わし幣(お金や織物等)を奉ったとあるから、その由来は実に古く。水分神は「ミクマリ」と読まれ、五穀豊穣と、生命を宿す御神徳の高い農耕神として、人々の崇拝の対象とされてきたことを物語る》。
宇太水分神社・下社(Y)
《延喜式神明帳では、当水分社は葛城、都祁、吉野水分と共に大和の四水分の大社とされていたが、応保年間(1160年)頃より芳野川にそって三所三座(当社・古市場社・芳野社)に祀られている。「延喜式登載」や「水分由来集」や「神体形相記」によると、 玉岡(古市場)水分は男躰、田山(井足)水分は女躰、中山(芳野)水分は童躰とあって、 かって祭礼には、中山水分から田山水分まで神輿の御渡があったと、伝えられている。明治の始め頃までは、本殿を始め、附属の建物はすべて古い形式で(春日造)であったが、明治11年、神社形式令により県社の指定を受け現在の神明造りになっている》。
ここで、ガイドの大江さんが万葉歌を紹介して下さった。墨坂(住坂)の地名が登場する。
「君が家(へ)にわが住坂の家道(いへぢ)をも われは忘れじ命死なずは」柿本人麻呂の妻(巻4―504)
解釈は様々に分かれているようだ。奈良新聞のグラフ「万葉の景色」によると 《「君が家にわが」までが「住む」という住坂を導く序詞。解釈をめぐっては諸説あるようだが、当時は男が女の家を訪ねる「通い夫」が一般的。ならば君(夫)の家に我(妻)が住むのは疑問だ。人麻呂が妻に贈った歌の書き誤りだとか、君と我の写し違いだなど…。何やらややこしい。旅立つ人麻呂に対し「私を忘れないでほしい」という願望を込めた妻の心を代弁した歌という説も。こちらに軍配を上げたい、そんな思いがした》。
ここで榛原観光ボランティアガイドの会の皆さんとお別れし、バスは菟田野区へ。菟田野区はWikipediaによると《奈良県の東北部大和高原の山中に位置し、町の東部から流れる芳野川(ほうのがわ)流域の谷間に集落が点在する》《古代の大和国宇陀郡多気郷の地であり、延喜式内・宇太水分神社(古市場)が鎮座する》《毛皮革産業・林業が盛んである》とある。
(Y)
(Y)
バスの車窓からは毛皮屋さんや、宇陀牛の肉屋さんの看板が見える。駐車場でバスを降り旧街道を歩くと、これは風情のある町並みであった。庄屋さんの旧家やレトロな農機具屋さん、雑貨屋さんなどがあって、なんとも昔懐かしい風景である。菟田野は、バスの駐車場からガイドまで、同僚のNさんがあらかじめ手配して下さっていた。菟田野観光ボランティアガイドの会の皆さんが、宇太水分神社・中社(菟田野区古市場)まで誘導して下さった。
正面が拝殿。ここでお祈りを捧げた(Y)
宇太水分神社では、まずは東日本大震災でお亡くなりになった方のご冥福、行方不明者のご無事、被災者の救護、被災地の復興を祈願し、禰宜の三家(みやけ)邦彦さんに祝詞(のりと)をあげていただいた。参加者全員、拝殿に上がらせていただき、本殿に向かってお祈りを捧げた。
(Y)
国宝の本殿(Y)
お祈りのあとは、榛原観光ボランティアガイドの会の元会長・森本徳蔵さん(森庄銘木産業株式会社取締役会長)が、神社の由緒や本殿建物(国宝)について、解説して下さった。森本さんは、NPO法人宇陀カエデの郷づくりの理事長も務めておられる。
宇陀市のHPによると《緑濃い木立の中に速秋津比古神、天水分神、国水分神の水分三座が祀られています。社伝では、崇神天皇の時代にはじまるといわれ、縁起では、大和国宇陀郡の水分大明神は天照大神の分神で、垂仁天皇の時代に神託によって社殿をかまえたと伝えている。本殿は、連棟社殿で中央と左右の三殿からなる一間社隅木入春日造り(国宝)水分連結造りの古型で、外部は朱塗り。蟇股など細部に鎌倉時代の特徴をみることができます》。NHKの「やまとの国宝」宇太水分神社の回では、三家さんが説明役で登場されていた。
境内の休憩所で「菟田野の秋祭り」のDVD映像を拝見した。このお祭りは、写真家・野本暉房さんのHPによると《菟田野の秋祭りは惣社水分(みくまり)神社の女神が宇太水分神社の男神へ年に一度会いに行くお祭りで千年以上も続いているそうです。女神を乗せた神輿がお供を従え、時代行列で5キロ程の街道を下ってきます。それを盛り上げるために町内各地から集まった6台の太鼓台が「ヨーイトサノセー、ヨイトサノセー」の掛け声で街を練り歩き、神社の境内ではさらに豪壮に練り回ります》。初めて映像を拝見したが、これはメガ勇壮なお祭りである。
菟田野秋祭り(by Mr.Nakagawa)
さていよいよ次は大宇陀区だ。Wikipediaによると、ここは《古代には阿騎野と呼ばれ、宮廷の狩場となった。柿本人麻呂が阿騎野で詠んだ歌「東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾ぬ」で有名である。延喜式内の阿紀神社(迫間)が鎮座する。中世には地侍出身の秋山氏が支配したが、その後支配者が入れ替わり、17世紀には織田松山藩3万石の城下町となった。織田氏転封後は幕府直轄領となり、明治維新を迎える》。
私たちは、又兵衛桜にほど近い阿騎野・人麻呂公園でバスを降りた。奥には市の体育館があり、その手前の中之庄遺跡(弥生時代、飛鳥時代、中・近世の3時期にわたる遺構)を埋め戻して整備された人麻呂公園が広がる。かぎろひの丘・万葉公園は、すぐ近くだ。ここでは、下見でお世話になった大宇陀観光ボランティアガイドの会の藤本さんはじめ、木下さん、奥谷さんと3人ものガイドさんが登場。参加者を3つのグループに分け、それぞれ懇切丁寧にご説明いただいた。
「ひむがしの…」の歌が詠まれたかぎろひ丘の上で、お待ちかねの昼食。大宇陀は薬のまち。今回は、薬草料理で知られる料理旅館「今阪屋旅館」(大宇陀区中新1975)の「薬草弁当」をいただいた。わざわざ献立表までつけていただいている。紹介すると
・小 鉢 山くらげ たたき牛蒡(ゴボウ)
・御造り 吉野本葛のお刺身 酢みそあしらえ
・焚 合 竹の子 菜の花 南京 小芋 桜麩 裏白椎茸 薬草あんかけ
・合 肴 薬草天ぷら 防風(ボウフウ=セリ科の薬草)
ユキノシタ ふきのとう 薩摩芋 茗荷(ミョウガ)
・御 飯 絹皮銀杏御飯
・果 物 いちご
わずか千円のお弁当に、薬草など、こんなにたくさんの地物を詰め合わせて下さった。しかも出来たてほやほやだ。私としては、歯触りのいい「吉野本葛のお刺身」と、ほのかな苦みに春を感じる「薬草天ぷら」が気に入った。皆さんの評判も、とても良かった。今阪屋さん、有難うございました。また今阪屋さんをご紹介下さったYさん、お世話をおかけしました。
食後は徒歩で阿紀神社へ。この神社は、Wikipediaによると《奈良県宇陀市に鎮座する神社。旧社格は県社、延喜式内社。旧称は阿貴宮および神戸(かんべ)大神宮、通称は神戸明神》《神代に神楽岡に創建され、崇神天皇の勅によって神戸大神宮の号を賜わる。 安土桃山時代(天正年間)に本郷川西岸の現在地に遷座されたときに、現在の社名へと改められた。 江戸時代前期に能舞台が建設され、能が上演されるようになる。 明治35年に郷社から昇格して県社に列格した》。
(Y)
この神社では毎年6月に「あきの蛍能」が催される。宇陀商工会青年部・大宇陀支部のHPによると《能の無形文化財保持者の浦田先生も出演される「あきの蛍能」は全国的にも知られており、この舞台を楽しみに毎年大勢の観客がここ阿紀神社に集まります。そして「蛍能」の名の通り、舞台のクライマックスに舞台袖で放たれた数百匹の蛍が漆黒の空に舞い上がる様は非常に幻想的です。私達青年部は毎年竹灯篭(会場の阿紀神社から帰路の足下を照らす為の灯篭)作りや会場準備、物産販売などのお手伝いしています》。
川で手を清める。モデルは銀とき子さん
さて、いよいよ伝統的建造物群保存地区「宇陀市松山地区」である。宇陀松山観光案内HPによると《2006年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された宇陀松山地区は、かつての大宇陀町である奈良県宇陀市の南西部に位置している、長い歴史を持った町です。周囲を吉野山地、竜門山地、大和高原などの山々に囲まれた辺境の地ではありましたが、京都や奈良と伊勢をつなぐ交通の要衝だったことから、古くから中央の影響を受けながら発達してきました》。
宇陀松山城の西口関門(Y)
《日本の歴史に宇陀が登場するのはかなり早く、飛鳥時代まで遡ることになります。宇陀地域の山々は鳥獣が豊富だったために絶好の狩猟場として見いだされ、「阿騎野」という呼び名で日本書紀に登場しています。また柿本人麻呂が軽皇子(文武天皇)の狩猟の情景を詠んだ歌も阿騎野でのことと知られています。交通の要衝となっていた宇陀地域が、町として形を成し始めるのは戦国時代、秋山庄の荘官から国人領主に成長した秋山氏が城を築き、その城下町として山腹に栄えたのが現在の松山の起源であると言われています》。
右端が大宇陀観光ボランティアガイドの会の藤本さん
《その後、秋山氏は豊臣氏に追放され、秋山城には秀吉の弟、秀長の家臣が入り、この頃に城の大規模改修と城下町の拡大整備が行われ、現在の骨格が整えられました。この時に阿貴町から松山町に名前が変えられたと考えられています。 元和元年に城は壊されましたが、宇陀松山藩となってからは長山に藩屋敷を置き、織田信長の次男信雄(のぶかつ)が初代藩主となり4代にわたって松山藩を治めました。やがて近代になると郡役所や裁判所ができ、政治の中心地として栄えたほか、県内初の乗り合いバスが走り、十数件の料理旅館がひしめいた時期があり、昭和の半ばまでその賑わいは続きました。それが宇陀松山の町並みです》。
重伝建・宇陀松山の町並みを、(宇陀松山城の)西口関門から、久保本家酒造まで歩いた。よほど住民とのコミュニケションが取れているのだろう、ガイドさんはお家の人に声をかけながら、古い看板や町家の設(しつら)いなどを指差しながら説明して下さる。美味しいと評判の本善食堂の前では、ちょうどご主人がいらっしゃったので、写真を撮らせていただいた。
本善食堂前で、Iさん・銀さんとスリーショット
大人気の洋菓子屋さん大宇陀アナンダでは、シュークリーム(またはマカロン)を買って、参加者1人に1個ずつお配りした。久保本家酒造では、試飲もさせていただいた。このあと道の駅に立ち寄り、再びバスへ。打ち上げ(懇親会)参加者は大宇陀温泉あきののゆで下車、直帰の方はそのまま近鉄榛原駅北口に向かった。
私は温泉で疲れをほぐしたあと、お食事処おときやで懇親会。ガイドの藤本さんにも加わっていただき、自己紹介やこの日の感想などでワイワイと盛り上がった。山菜とかやくご飯のお料理に、茶粥もつけていただいたので、お腹もいっぱいになった。温泉とレストランが一体となったこの施設は、とても便利だ。このあとバスは榛原駅経由で一路奈良へ。
それにしても、楽しいバスツアーだった。いつもは鉄道か路線バスとウォーキングだが、観光バスというのも良いものだ。「古社寺を歩こう会」は、もともとは会社の同好会のような形で始まったが、当ブログでも募集を開始してから参加者が増え、年齢層も広がった。第4回古社寺を歩こう会(今井町編)のコースは、昨年の奈良まほろばソムリエ検定(奈良商工会議所)の「体験学習プログラム」(大和今井を歩く)にも採用された。
(Y)
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いつも、「こんなツアーがあれば、ぜひ行きたい」「こういう風にツアーを組み立てれば、遠方からも奈良を訪ねて下さるだろう」「地元(訪問先)の方にも、喜んでいただけるだろう」と考えてコースを組んでいる。必ずガイドさんをつけ、食事にもこだわっている。だから、どんどんマネしていただきたいのである。参加者の間からは、早速、次回のプランも出てきている。
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今回のツアーは、宇陀市役所の職員さん、ボランティアガイドの皆さん、水分神社の三家さん、森本さんはじめ、たくさんの方のご協力のおかげで実現しました、有難うございました。参加者の皆さん、楽しかったですね。また次回をお楽しみに!
当館を御紹介頂き又ブログにもコメントを頂きまして有難う御座います
4月になりますと又兵衛桜も咲き始めますので
また大宇陀に御越し下さいませ
有難う御座いました今後とも宜しく御願い致します
> 当館を御紹介頂き又ブログにもコメントを頂きまして有難う御座います
大好評でした。千円という価格設定はキツかったのでは、と反省しています。
> 又兵衛桜も咲き始めますのでまた大宇陀に御越し下さいませ
すっかり宇陀のファンになりました。日程があえば、又兵衛桜にもお邪魔したいと思っています。
「食」に対する関心が高まるなか、薬草料理は多くの人を引きつけると思います。あのお弁当を「毎日食べたい」という参加者がいました。私も、またいただきたいです。
> お祭りの日だけは、にぎやかで、唯一の活気のある町になります
> いつか機会があれば、生の秋祭りにも来ていただければ幸いです
東吉野村の「小川祭り」のあと、車で菟田野区を通りかかって、偶然チラリと拝見しましたが、勇壮なお祭りですね。またお邪魔します!