奈良新聞「明風清音」欄(木曜掲載)に毎月1~2回寄稿している。今週(2022.4.21)寄稿したのは〈逆説の日本史の「底流」〉、井沢元彦氏が『逆説の日本史』で主張する日本人の「無意識の信仰」(固定観念)をまとめて紹介した。
井沢氏独自の歴史推理には「突飛すぎて、ついていけない」という人もいるが、私は納得して読んでいる。この内容は講演でもお話したことがあり、幸いご好評いただいた。では、記事全文を紹介する。
逆説の日本史の「底流」
井沢元彦著『逆説の日本史』(小学館刊)は、シリーズ累計572万部を突破した。ユニークな歴史観・歴史推理には疑問視する声もあるが、私は愛読している。井沢氏の基本的な主張は、日本人の行動は「ケガレ(穢れ)、和、怨霊(おんりょう)、言霊(ことだま)」に対する無意識の信仰(固定観念)に基づいている、とするものだ。以下、氏の『日本史真髄』(小学館新書)から、その要点を抜粋する。
▼ケガレ(穢れ)忌避信仰
〈「ケガレ」は「よごれ」とはまったく別のものである〉。〈1つは、ケガレとは宗教的な観念である、ということ。もう1つは、罪や災禍、悪霊の仕業と同一視され、触ると伝染するので隔離しなければならないと信じられていた、ということである〉。〈藤原京以前、天皇が代替わりするたびに都を移転しなければならなかったのはなぜか。私は、当時の人々が、天皇の死によって都が「ケガレ」てしまったと信じていたからだと考えている〉。
そこで持統天皇は決断する。〈天皇ごとに新しく建設される都。ケガレを忌避するために、こうした神道的なやり方を続けている限り、日本は中国や朝鮮半島のように国家を発展させることはできない。持統天皇はそう考え、仏教の中にあった「火が汚いものを浄化する」という思想を利用することで、自らの遺骸を火葬にし、死穢(死に起因するケガレ)による都の汚染を防ごうとしたのだろう〉。
▼聖徳太子「和」の精神
聖徳太子は十七条憲法の第一条と第十七条で、「和」の大切さを力説した。〈第一条が話し合いの重要性と正しさを説いているものであるのに対し、第十七条は独断で物事を決めることの危険性を説いた上で、話し合いを勧めている〉〈つまり、聖徳太子は話し合いという行為に絶対の信を置く、「話し合い教」の信者だったということだ〉。
日本ではいつまでも談合がなくならない、ワンマンが嫌われるというのも「話し合い絶対主義」の産物とし、その典型が「稟議(りんぎ)」だという。〈日本以外の文明には、稟議という概念が存在しないのだ。稟議書社会には大きな問題がある。物事をみんなの話し合いで決めてきたために、責任を取る人がいなくなってしまうのである。これは別の見方をすれば、関係者全員が責任者ということでもある〉。
▼怨霊信仰から御霊信仰へ
かつて日本では〈地震や火山の噴火、落雷に風水害、さらには疫病や戦争まで、ありとあらゆる悪いことが起きると、それは怨霊の仕業だと信じられた〉。
よく知られているのが菅原道真である。無実の罪を着せられて大宰府へ左遷される。その2年後、道真は失意のまま現地で没した。死後、関係者にさまざまな不幸が降りかかり、これは道真が怨霊と化したと考えられた。それで社を建て、怨霊・道真を御霊(ごりょう=神)として祀ることにしたのである。
▼言霊信仰
〈「言霊」とは、平たく言えば「言葉には現実を動かす力がある」という日本古来の信仰(思想)である。例えば、「明日、東京に大地震が起きる」と発言すれば、本当に大地震が起きる、ということだ。もちろん科学的合理的に考えたらあり得ない〉。
〈不吉な言挙げは回避しなければならないが、社会生活において会話をゼロにすることなど不可能だ。そこで頻繁に行われるようになったのが、「言葉の言い換え」である〉。忌み言葉や放送禁止用語が、その典型である。
井沢氏は、これまで歴史学者はこれらの呪術的(宗教的)側面を無視してきたと指摘する。ご納得いただけただろうか。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
井沢氏独自の歴史推理には「突飛すぎて、ついていけない」という人もいるが、私は納得して読んでいる。この内容は講演でもお話したことがあり、幸いご好評いただいた。では、記事全文を紹介する。
逆説の日本史の「底流」
井沢元彦著『逆説の日本史』(小学館刊)は、シリーズ累計572万部を突破した。ユニークな歴史観・歴史推理には疑問視する声もあるが、私は愛読している。井沢氏の基本的な主張は、日本人の行動は「ケガレ(穢れ)、和、怨霊(おんりょう)、言霊(ことだま)」に対する無意識の信仰(固定観念)に基づいている、とするものだ。以下、氏の『日本史真髄』(小学館新書)から、その要点を抜粋する。
▼ケガレ(穢れ)忌避信仰
〈「ケガレ」は「よごれ」とはまったく別のものである〉。〈1つは、ケガレとは宗教的な観念である、ということ。もう1つは、罪や災禍、悪霊の仕業と同一視され、触ると伝染するので隔離しなければならないと信じられていた、ということである〉。〈藤原京以前、天皇が代替わりするたびに都を移転しなければならなかったのはなぜか。私は、当時の人々が、天皇の死によって都が「ケガレ」てしまったと信じていたからだと考えている〉。
そこで持統天皇は決断する。〈天皇ごとに新しく建設される都。ケガレを忌避するために、こうした神道的なやり方を続けている限り、日本は中国や朝鮮半島のように国家を発展させることはできない。持統天皇はそう考え、仏教の中にあった「火が汚いものを浄化する」という思想を利用することで、自らの遺骸を火葬にし、死穢(死に起因するケガレ)による都の汚染を防ごうとしたのだろう〉。
▼聖徳太子「和」の精神
聖徳太子は十七条憲法の第一条と第十七条で、「和」の大切さを力説した。〈第一条が話し合いの重要性と正しさを説いているものであるのに対し、第十七条は独断で物事を決めることの危険性を説いた上で、話し合いを勧めている〉〈つまり、聖徳太子は話し合いという行為に絶対の信を置く、「話し合い教」の信者だったということだ〉。
日本ではいつまでも談合がなくならない、ワンマンが嫌われるというのも「話し合い絶対主義」の産物とし、その典型が「稟議(りんぎ)」だという。〈日本以外の文明には、稟議という概念が存在しないのだ。稟議書社会には大きな問題がある。物事をみんなの話し合いで決めてきたために、責任を取る人がいなくなってしまうのである。これは別の見方をすれば、関係者全員が責任者ということでもある〉。
▼怨霊信仰から御霊信仰へ
かつて日本では〈地震や火山の噴火、落雷に風水害、さらには疫病や戦争まで、ありとあらゆる悪いことが起きると、それは怨霊の仕業だと信じられた〉。
よく知られているのが菅原道真である。無実の罪を着せられて大宰府へ左遷される。その2年後、道真は失意のまま現地で没した。死後、関係者にさまざまな不幸が降りかかり、これは道真が怨霊と化したと考えられた。それで社を建て、怨霊・道真を御霊(ごりょう=神)として祀ることにしたのである。
▼言霊信仰
〈「言霊」とは、平たく言えば「言葉には現実を動かす力がある」という日本古来の信仰(思想)である。例えば、「明日、東京に大地震が起きる」と発言すれば、本当に大地震が起きる、ということだ。もちろん科学的合理的に考えたらあり得ない〉。
〈不吉な言挙げは回避しなければならないが、社会生活において会話をゼロにすることなど不可能だ。そこで頻繁に行われるようになったのが、「言葉の言い換え」である〉。忌み言葉や放送禁止用語が、その典型である。
井沢氏は、これまで歴史学者はこれらの呪術的(宗教的)側面を無視してきたと指摘する。ご納得いただけただろうか。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
井沢さんが歴代遷宮の理由としている“死の穢れを避けるため”説は、19世紀末に久米邦武により提唱されていますが、(1)死穢により汚染された旧宮で即位する事例が通時的に存在する、(2)葬送の終了により死穢の汚染が解消されたとするなら遷宮の必要性自体が解消されてしまうと批判されています(仁藤敦史『都はなぜ移るのか』(吉川弘文館、2011年))。
さらに、私個人としても、舒明天皇の没後に妻の皇極天皇は飛鳥岡本宮の近くに飛鳥板蓋宮を造営しているが少し位置をずらせば穢れがなくなるのか、と疑問に思います。舒明天皇が亡くなったのは百済宮だから関係ないとでも理解するのでしょうか。
鉄田さんには申し訳ないのですが、私にとって井沢元彦は梅原猛と同じ位置づけです。
私は久米氏の著作も仁藤氏の著作も読んでいませんので何とも申せませんが、皇極天皇は道教を信仰していました。「不老長寿」(神仙思想)を願う道教の思想に、「死穢」という考えはなかったのではないでしょうか。
飛鳥時代の天皇といっても、それぞれの考え方には温度差があったのだと思いますが、いかがでしょう?
なお私は井沢さんも梅原さんも愛読しており、いずれもユニークで興味深い「歴史推理」だと考えています。