tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

そば処 山里

2009年05月24日 | グルメガイド
5/16(土)、上北山村に向かう途中、川上村(奈良県吉野郡)のあたりでお昼になる予定だった。村内に良い食べ物屋さんがないか、川上村に詳しい藤丸正明さん(ふじまる・ただあき 株式会社地域活性局代表)にお聞きすると「大滝の山里というそば屋さんが美味しいです」と教えていただいたので、訪ねてみた。

大滝地区は、吉野町方面から入ると、村の入り口(北端)にある。「そば処 山里(そばどころ・やまざと)」は169号線の沿道にあるので、とても分かりやすい。柿の葉寿司で有名な「大滝茶屋」も近い(南方向に行く)。



店先に「おすすめ 天ざるそば 1300円」とあったので、これを注文した。店内には「当店のそば粉は信州産の石臼挽で手打ちの二八(にはち)そばです。冷たいそばがお勧めです」とある。そばは十割より二八(そば粉8割)くらいがちょうど良いと最近思い始めていたので、これは具合がいい。

トップ写真が天ざるそばだ。エビのほか野菜の天ぷらがついていた。大きな葉っぱはオカノリ(陸海苔)で、「健康レシピの食材辞典」によると《アオイ科で「冬葵(ふゆあおい)」の変種といわれます。葉を乾燥させて火であぶると、海苔に煮た食べ物になることから名付けられたとか。ゆでると少しだけぬめりが出ます。おひたしとか胡麻あえにぴったり。意外にくせもアクもないので、いきなり炒めても大丈夫です。葉は、カルシウムやビタミン類が豊富に含まれています》。
http://syokuzai.ochamehaha.com/2006/09/post_63.html



小さな芽は、アシタバ(明日葉)の若芽だ。Wikipediaによると《セリ科シシウド属の植物。日本原産で、房総半島から紀伊半島と伊豆諸島の太平洋岸に自生する》《和名の由来は「夕べに葉を摘んでも明日には芽が出る」という、強靭で発育が速いことから来ているというが、さすがにそこまでの生命力があるわけでもない》《伊豆大島では、アシタバを椿油で揚げた天ぷらが名物料理になっている》《便秘防止や利尿・強壮作用があるとされ、緑黄色野菜としてミネラルやビタミンも豊富なことから、近年健康食品として人気が高まっている》。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%90



二八そばは、そばの香りものどごしも良い。店内は民芸調にこざっぱりとまとめられている。いただいた名刺には《100%手打ちにて、提供しています。たまに売り切れあります。お電話いただければ残しておきます》とあった。



他のメニューは、冷たいそばでは、ざるそば(700円)、山かけそば(900円)、上三味そば(天ぷら、とろろ、合鴨 1800円)。温かいそばは、梅若そば(梅、大葉、ワカメ 800円)、カレーそば(900円)、天ぷらそば(1100円)。ミニ丼は、親子丼(350円)、他人丼(400円)。他にうどんメニューもある。

メニューは豊富だし、ミニ丼が選べるのも有り難い。川上村探訪の際は、ぜひお立ち寄りいただきたい。

※吉野郡川上村大滝872 ℡0746-53-2248[中西靖雄・釉子(つやこ)さん]
 月・火休 営業時間 11:00~14:00
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魔境!大台ヶ原

2009年05月23日 | 写真
5/17(日)、「ホテルかみきた」で朝食をいただいた後、車で大台ヶ原をめざした。この日は、登山者の安全を祈願する「大台ヶ原山祭り」が行われる。郷土芸能、餅まき、山上スタンブラリーハイキング、特産品物産店などが催されるという。下界は薄曇りだが、山上の天気が心配だ。何しろ、日本一の多雨・濃霧地帯なのだ。


大台ヶ原と日出ヶ岳(展望所)はこのあたり。熊野灘が近い

上北山村から大台へは、新伯母峰(しんおばみね)トンネルを抜けて一旦川上村に出てから「大台ヶ原ドライブウェイ」に入る。走りやすい道だが、途中から霧が深くなってきた。

Wikipedia「大台ヶ原山」によると《吉野郡上北山村、同郡川上村および三重県多気郡大台町旧宮川村に跨って座す山。標高1694.9m(日出ヶ岳)。深田久弥によって「日本百名山」の一つとされている。日本百景、日本の秘境100選にも選ばれている》。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%B0%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%B1%B1


ドライブウェイを走る車窓から、西大台の風景が楽しめる(入山は規制されている)

《大台ヶ原は世界的に見ても多雨地帯として知られている。そのことが植物や動物など生物の生育と分布に大きな影響を与えている。そのため吉野熊野国立公園のなかでも特に規制の厳しい特別保護地区に指定されている》。



《大台ヶ原を散策するにはビジターセンターからとなるが、大台ヶ原を堪能するなら「東大台ハイキングコース」約9キロがお勧め。標準的に4時間あれば十分まわれる距離となるが途中荒れた道や、勾配のきつい道が点在するので普段運動をしない人にとって多少厳しい。ビジターセンターで販売しているハイキングマップ(100円)には3コース紹介されている。その中にはこれよりも半分程度の距離のハイキングコースも紹介されている》。



《環境省は2007年(平成19年)9月1日より西大台地区において入山規制を実施することを決定した。規制以降入山するには、予め申し込んで有料の認定証を取得し、入山当日は大台ヶ原ビジターセンターで講義を受ける必要がある。なお、東大台地区は入山規制の対象外となっている》。

環境省(近畿地方環境事務所)のHPによると、西大台の「入山規制」とは《大台ヶ原は様々な要因により森林などの衰退が進んでおり、西大台地区においてもその兆候がみられることに加え、今後の利用者の増加による様々な影響が懸念されています。そこで、西大台の美しい自然環境を守り、将来にわたり静寂で、豊かな自然を多くの方々に楽しんでいただけるように、西大台地区を利用調整地区に指定しました》というものだ。


大台ヶ原山祭りの会場(準備中)。建物はビジターセンター

しかしこの規制が厳しすぎて、入山者が激減している。朝日新聞(3/17付)によると《入山者、減りすぎ…「定員」の1割と低迷 西大台の調整地区、08年度利用》《原生的な森林環境を守るため、入山する前に「立入認定証」を必要とする吉野熊野国立公園大台ヶ原の「西大台利用調整地区」(上北山村)の入山者数が08年度、「定員」の約1割と低迷したことが、環境省近畿地方環境事務所のまとめでわかった。同事務所は4月から「静かで豊かな森の魅力をもっと多くの人に知ってほしい」と、事前手続きの締め切りを現行の入山日の2週間前から10日前に緩和する》。

《入山者の「減りすぎ」に同事務所も困惑気味だ。大台ヶ原をよく知る市民からも「申請手続きをもっと合理化すべきだ」「西大台の自然の価値を来訪者に伝える専門ガイドを養成すべきだ」といった声が上がっている》。私の周囲でも「大台ヶ原への入山はすべて規制されている」とカン違いし、大台ヶ原を敬遠している人が多い。規制されているのは「西大台」だけで、日出ヶ岳や大蛇(だいじゃぐら)など主要な展望地がある「東大台」には規制がないので、ぜひ誤解を解いていただきたいと思う。 



駐車場(ビジターセンター前)に着くと、あたりは深い霧の中だった。それでも祭り見物や周辺ハイキングの車やバスが続々と到着する。バス3台を連ねてやってきたこのグループは、奈良市・生駒市・田原本町など県下各地からの団体で、東大台の日出ヶ岳・大蛇(だいじゃぐら)・牛石ヶ原の周辺を歩くという(=東大台ハイキングコース)。あいにくの霧のため、景色はあまり期待できないが、涼しいので山歩きにはちょうど良い。


五里霧中のスタート、気をつけて!

帰り道、ドライブウェイの傍らで、不思議な光景に出くわした。畑の「葉もの野菜」のように、高山植物が群落を形成していたのだ(トップ写真も同じ)。写真を撮っている人もいる。なぜ、獣に食べられずに残っているのだろう。



この高山植物は、バイケイソウ(梅草)である。Wikipedia「バイケイソウ」によると《ユリ科に属する多年草の高山植物。APG植物分類体系ではユリ目メランチウム科に分類される。 花がウメ、葉がケイランに似ていることからこの名がある。 ヨーロッパ、北アフリカ、シベリア、東アジア、アリューシャン列島、アラスカ州のスワード半島に分布する。日本では高地の湿地帯などに自生し、6月から8月に2cmほどの緑白色の花を房状につける。開花期の草丈は1mを超える》。



《根茎は白藜蘆根(びゃくりろこん)と呼ばれ血圧降下剤として用いられたが、催吐作用や強い毒性があるので現在では用いられない。また、東雲草(しののめそう)の名で殺虫剤としても使われた。芽生えの姿が、山菜のオオバギボウシ(ウルイ)やギョウジャニンニクとよく似ているため、毎年のように誤食して中毒する事例がある。重症例では血圧低下から意識喪失し死亡する場合もある》。なんと、こんなコワい毒草だったのだ。動物が食べないはずである。それにしても、何とも不思議な光景である。

これまで大台ヶ原へは何度か訪れているが、こんな霧の深い日は初めてだった。ちゃんと写真に撮れているか心配だったが、なんとか写っていて安心した。それどころか有り難いことに、大台ヶ原の神秘的な雰囲気が、霧のおかげで引き立っている。



奈良検定(ならまほろばソムリエ検定)の公式テキスト(山と渓谷社刊)には、《急峻な地形と多雨・濃霧などによって「魔境の山」・「迷いの山」とされてきたが、幕末から明治中期にかけての探検家・松浦武四郎によって紹介されて一般に知られるようになった。また岐阜県郡上郡美並村の人・古川嵩(かさむ)が明治24年(1891年)に大台ヶ原に入山、3ヶ月にわたって現在の東大台・西大台を踏査して開山の第一歩を記した。古川は明治32年(1899)に大台教会を開設、気象観測や自然保護にも力を尽くした》。



しかし今や《伊勢湾台風による大量の風倒木跡にササ類が進入、ドライブウエイの開通による訪問者の急増、ニホンシカの増加による針葉樹の実生や樹皮の採食などの原因が重なり森林植生の衰退が進行しており、環境省では自然再生検討会を設置して対策を協議しています》(地球環境関西フォーラムのHP)という状況にある。自然災害にヒトの進入と鹿害が加わって森が傷んでいるのである。ビジターセンターでは、その様子が詳しく写真パネルで紹介されていた。
http://www.global-kansai.or.jp/kansai100sen/fukei081.htm



豊かな自然に育まれた大台ヶ原は、山道の整備や防鹿柵の設置が進められ、ハイカーの立ち入りルート制限などが行われた結果、傷んだ森が徐々に回復している。回復には100年単位の時間が必要だそうだが、ご先祖からうけついだこの遺産を、子々孫々まで守り伝えて行かなければならない。
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観光地奈良の勝ち残り戦略(25)ブログと写真ギャラリー

2009年05月21日 | 観光地奈良の勝ち残り戦略
日曜日(5/17)の新聞コラム(奈良日日新聞「悠言録」)に、こんな話が載っていた。《JR奈良駅前バス停で中年の夫婦に「法隆寺へはタクシーで何分かかる」と尋ねられ「なぜ車で」と聞くと「奈良市内にあると思って」》《5年ほど前京都へ向かう近鉄特急で隣の席の4人連れの娘さんの1人が「大きな宅地造成じゃない」と言った。窓外に見えたのは平城宮跡だった。連れの「昔の奈良の都の跡でしょう」の一言でこの話は終わった》

知識人も油断できない。《「今年のお花見は吉野へ行った。吉野は京都かと思ったら奈良だった。どうも私の場合は行ってみなければわからない。京都のどこか奥まった山だと勘違いしていた」。これは新潮社の月刊PR誌の「波」平成4年6月号のエッセー「魚眼レンズのお花見」の書き出しだ。書いた人は作家尾辻克彦》《この一連の勘違いの共通点は、奈良は正しく知られていないに尽きる》

尾辻克彦(赤瀬川原平)は芥川賞作家であるが、それでもこのレベルなのだ。全く奈良は正しく知られていない、逆にいえば情報発信が不足しているのである。吉野山が世界遺産(紀伊山地の霊場と参詣道)に登録された今も、この状況が大きく改善されたとは思えない。

奈良に来る人は、どうやって情報を入手しているのだろう。奈良のむらづくり協議会の「奈良観光の評価に関する調査結果の概要」(08年1月)によれば、ホームページ(29.9%)、新聞(21.2%)、テレビ(14.6%)、口コミ(13.9%)の順である。しかしその評価で「十分得られた」は31.5%に過ぎない。
http://www.naranomura.jp/report_survey.pdf

「今後欲しい情報」の設問には、季節ごとの見どころ情報・楽しみ方など(51.1%)、地元の人しか知らないような穴場情報(29.1%)に答えが集中し、入手方法は「インターネット」が45.8%と、ほぼ半数を占めている…。

ここまで書いてきて、当ブログを始めた頃(05年11月)のことを思い出した。30年近く奈良に住み続けているので、地元の季節の移ろいや、街の話題などをアップすれば良いだろうと考えた。好きな花の写真や、美味しい食べ物屋さんのことなどをぼちぼちと書くだけなら、簡単だ…。

そのうちアクセス数もコメントもどんどん増えてきたので、「これはマジで取り組まなければ」と、いろんなトピックを織り交ぜるようになった。いきおい文章の量が多くなり、写真点数も増えていった。おかげさまで、今では1日平均700人にアクセスいただき、1日約2000ページビュー(記事数)も読んでいただいている。電卓をたたいてみると、この3年半の累計で、のべ45万人もの方にアクセスしていただいた計算になり、自分でも驚いている[=3.5年×365日×(700÷2)]。図らずも上記アンケートで明らかになった傾向(季節のみどころや穴場情報をネットで情報収集する)に、うまくマッチしたのだ。

今は宿泊予約でも、旅行代理店ではなく、じゃらんnetや楽天トラベルなどの旅行情報サイトから申し込むケースが最も多い。この「じゃらんnet」は宿泊施設のための有料オプション(販促用)として、ブログや写真ギャラリー機能(200枚の写真を閲覧できる)を用意している。通り一遍の説明ではなく、施設や観光地のリアルタイムの情報を、多くの画像とともに知らせたいということなのだろう。確かにこういう情報は、既存旅行代理店のパンフレットからうかがい知ることはできない。

「正しく知られていない」奈良としては、このような県外への情報発信にこれからも一層注力しなければならない。それは行政だけではなく、民間業者や県民にも求められている。

もっといえば、県民はもっと地元のことを勉強しなければならない。一昨日、奈良に転勤してまだ1か月という方にお目にかかった。お住まいは大阪で、奈良での勤務は初めてという管理職である。「何か、奈良の美味しい食べ物を発見されましたか?」とお聞きすると「いえ、ランチに美味しい所を知っているかと(県内在住の)社員に聞いても、教えてくれるのは(大手外食の)チェーン店ばかりで…」と頭をかく。しかし彼の会社は、情報に敏感なはずの広告代理店なのである。

先週も、さるメディアの営業担当の方とお会いする機会があって、地元出身・在住の何人かの社員さんに「他府県の方に奈良の食べ物を紹介する場合、何を推しますか?」と質問した。しかし考え込むばかりで、なかなか答が出てこない。数分後にやっと出てきた答えは「柿の葉寿司」と「三輪そうめん」という平凡なものだった。せめて「吉野山ひょうたろうの柿の葉寿司」とか「長岳寺の庫裏でいただくにゅうめん」といった「地元の人しか知らないような穴場情報」を盛り込んでほしかったのだが…。

県外の方が奈良を知らないのは当然である。だから県外に向けては情報発信に注力しなければならない。メインツールはインターネットであり、提供すべき情報は「季節ごとの見どころ情報・楽しみ方」と「地元の人しか知らないような穴場情報」である。

一方奈良県民は情報提供者側として、自分で情報収集して、口コミでも良いから、県外の人に機会をとらえてお伝えすべきである。そのためには、あらかじめ自分で足を運んでおかなければならないが、そもそも県民が自県のことをよく知らない。知らないから奈良の良さを伝えられない、という悲惨な状況になっている。

以前、茂木健一郎が奈良で開かれたシンポジウムで、こんなことを言っていた。《奈良の人はもっと地元に誇りを持たなければいけない。先日バリ島に行ったが、島民は「ここが世界の文明の中心だ」としきりに言っていた。奈良の人も「ここが文明の中心」とアピールすべきだ。そのためには、本気でそのように思わなければいけない》。県民が訪れる人に「奈良は文明の中心だ」と言って、誰が迷惑するだろう。
※「祈りの時代」を考える(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/f7a3adcef3fc44de1f4430ef818fc648

冒頭の新聞コラムは《奈良のみやげ物店の一番目立つところに桃割れ髪で正座した人形が京都名物の生やつはしの宣伝をしている。奈良の独自性は? 来年の大事業を控え徹底したPRを!》と締めくくられている。最後の「!」に筆者のイラ立ちがこもっている。1300年祭で奈良に来られるお客さまのために、われわれ県民がすべきことは数多い。

※トップ写真は県庁前(奈良公園)。08.5.1撮影。
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上北山 イズ ミステリー

2009年05月20日 | 奈良にこだわる
土日(5/16~17)に訪れた上北山村(奈良県吉野郡)では、村内のあちこちを巡った。初日は、郷土史家の中岡孝之さんにご案内いただき、後南朝(ごなんちょう)の史跡などを訪れた。中岡さんは元校長先生で、村の元教育長さんでいらっしゃる。

いきなり「後南朝」などと書いても、たいていの方はチンプンカンプンだろう。実は、私もそうだった。歴史の教科書には出てこないし、奈良検定(奈良まほろばソムリエ検定)のテキストでもわずか10行程度しか触れられていない。私は中岡さんから詳しくお話を伺ったが、お隣の川上村のHPにあらましが出ているので、それを引用すると…。


まず北山宮(きたやまぐう)を参拝。祭神は北山宮(きたやまのみや=自天王)

《1336年に後醍醐天皇が吉野に御座を移されてから約60年。元中九(1392)年、足利義満の呼びかけに応えて後亀山天皇が京都に遷幸され、南北朝の歴史もようやく幕を下ろしたと思われました。しかし「皇位は両朝交互に与えられる」という約束も守られず、南北朝の合体は実質的には南朝の消滅となりました》。
http://www.vill.kawakami.nara.jp/n/j-03a/j-03a-01.htm

《後亀山天皇の皇子、実仁親王は、幕府に抗議し戦いますが、川上村に潜幸され、嘉吉三(1443)年に崩御されます。そして、同年ついに「嘉吉の変」に乗じ、小倉害の皇子である天基親王と円満院宮が京都へ進攻して三種の神器のひとつ神璽(しんじ)を奪い、吉野南山に御所を置きました》。


瀧川寺(りゅうせんじ)。ここに自天王(北山宮)の墓がある

《一方この変が起こる以前に、天碁親王と円満院宮の弟・尊義王は近江から川上郷に移り住んでおり、尊義王は兄の円満院宮から神璽を譲られ、皇子の尊秀王(一ノ宮、自天王)と忠義王(二ノ宮、河野宮)を連れて、三之公(さんのこ)に御所を構えました。しかし、尊義王は南朝の再興を果たすことなく45歳で病死してしまいます》。兄の「尊秀王」は北山宮(きたやまのみや)、一ノ宮とか自天王(じてんのう)と呼ばれ、この方をお祀りするのが上北山村小橡(ことち)の北山宮(きたやまぐう)という神社である。


中岡孝之さん(瀧川寺で)。地図までご用意いただいた

《その後、自天王(北山宮)は北山郷(上北山村)に、忠義王は河野谷村(川上村神之谷)にそれぞれ御所を構え、南朝の夢を果たそうとします。ところが、嘉吉の乱により滅ぼされた赤松家の家臣が、お家を再興させるため、当時、北朝方や将軍家が血まなこになって探していた神璽を南朝から奪回することを企てました。長禄元(1457)年12月2日の夜、赤松の家臣により2つの御所が襲撃され、自天王は18歳の若さでこの世を去り、忠義王は御所で討死、あるいはその場は死地を脱したものの、本村(川上村)の高原で最期を遂げたと伝えられています》。



《惨事はいちはやく川上郷に伝えられ、郷土たちは、自天王の首と神璽を手に逃走する赤松の郎等を迎え撃ちます。塩谷村(北塩谷)の名うての射手・大西助五郎は、郎等の頭であった中村貞友を見事射止めたと伝承されています》。こうして川上の村人は皇子の首と神璽を取り返した。首は手厚く葬られたが神璽の方は再び1458年、赤松の残党に奪われてしまったという。


自天王(北山宮)の墓。瀧川寺境内

自天王(北山宮)のお墓が、瀧川寺の境内にある。トップ写真のとおり、宮内庁が「北山宮墓」という看板を建てているのだ。「のがれきて身をおく山の芝の戸に 月も心をあわせてぞすむ」という北山宮の歌碑も建てられている。墓碑はトップ写真の向かって右上にあり、それが上の写真である。なお川上村にも自天王のお墓があり、念のため翌日(5/17)訪ねたので、あとで紹介する。


小処(こどころ)温泉の玄関


小橡(ことち)川に面した露天風呂

次に訪れたのが、上北山村小橡(ことち)の小処(こどころ)温泉。村のホームページによると《大台ヶ原の山ふところにある、小処温泉は東熊野街道をもう少し下がり、小橡川に沿って枝道を山の中に向います。ここが関西の秘湯「小処温泉」です。平成13年8月にリニューアルオープンし、山村の味を活かし、木材をふんだんに使った造りとなっております》。
http://vill.kamikitayama.nara.jp/kankou_8.html


いい湯だな~♪



《自然の大小様々な石を使った「岩風呂(渓谷の湯)」槙の香り漂う「木風呂(大樹の湯)」があり、それぞれ渓流に面した露天風呂があり、清流の音を聞きながら、四季折々の風情(夏の蛍・秋の紅葉etc...)を満喫していただけます。泉質は、摂氏25.6度の単純硫化水素泉で神経痛・糖尿病・うちみ・慢性皮膚病などに効果があります》。



わずかに硫黄臭があり、あっさり・まったりした温泉だ。川原に人がいないので、こんな設計ができるのだろう、とても開放的でいい気分にひたれる。

鹿と大仏だけが奈良の観光ではない。奈良の「奥座敷」にも、深い歴史を秘めた史跡とお客を迎える立派な環境が整っているのだ。


以上、露天風呂からの眺め。青葉のカエデも良いが、秋の紅葉は格別だろう

小処温泉からさらに奥(北東)に行ったところに、「くらがり又谷」がある。ここにある滝(くらがり又谷の滝)は《最上部から下部まで七重にも八重にも重なり、さわやかな清水と清流の響きが素晴らしい滝です。奈良県の名水31にも選定されています。小処温泉の奥地にありますので、河合・小橡地区より道中の小橡川の清流と山の自然を観察しながら温泉と兼ねて自然散策を楽しんでください》(村のHP)。
http://vill.kamikitayama.nara.jp/kankou_6.html


くらがり又谷の滝。ずっと上の方から、狭い崖の間を落ちてくる

翌朝(5/17)は、大台ヶ原を訪れた。長くなるので、この話は後日に回すことにして、今回は午後に訪ねた金剛寺(川上村神之谷)を紹介する。ここに自天王(北山宮)のもう1つの墓があるのだ。


大台ヶ原ではツツジが咲き残っていた(ビジターセンター付近)

barakan1 さんのブログ「長生きも芸のうち日記」(金剛寺・南帝自天皇陵)によると《「金剛寺」は、後南朝菩提所としても知られており、「本堂」に向かって左の急な石段を上がった所に後亀山天皇玄孫の「南帝自天皇陵」があります。自天皇(北山宮)は上北山村(川上村の南)にある瀧川寺を行宮(あんぐう)とされていらっしゃり、長禄の変の際には、そこで襲撃されてしまわれました。自天皇の御首級は北朝の襲撃隊の手に渡りましたが、川上郷士はそれを奪回し、川上村金剛寺に埋葬しました》。
http://barakan1.exblog.jp/2616287/





《本堂の裏手には自天親王神社があります。また、本堂前には小松宮彰仁親王題額の「自天王碑」が1882(明治15)年に建てられています。一方、宮内庁は金剛寺境内にある御墓を自天皇の弟宮である「河野宮墓」として管轄しています》。

つまり宮内庁は、自天王(北山宮)の墓は瀧川寺(上北山村)にあり、金剛寺(川上村)にあるのは河野宮(北山宮の弟宮)の墓であるとする。一方川上村は、自天王の墓は金剛寺にあると主張する。これはややこしい。




尊秀王(=自天王、北山宮)の墓碑

《1993(平成5)年2月5日には例年のように朝拝式が執り行われましが、このとき「後亀山天皇玄孫 南帝自天皇陵」と刻まれた石碑の除幕式が行われました。宮内庁の「河野宮墓」という標識の前に、「自天皇陵」と刻まれた石碑が建つことになったのです》。


向かって右奥が宮内庁の河野宮(=自天王の弟宮)の墓。
手前は「南帝自天皇陵」(=南朝・自天王の墓)と刻まれた石碑

なお《川上村神之谷金剛寺の御朝拝式の歴史は室町時代まで遡るもので、後南朝を興した後亀山天皇のひ孫にあたる自天親王を慰霊する行事です。御朝拝式は赤松一族によって討たれた翌年から親王をお守りしていた人たちによって始められ、代々受け継ぎ今年で548回目。裃を着用した人たちが御朝拝殿を出発し、御幣を頭に石段を登り、同寺境内の自天親王神社前でお祓いを受け神饌を献じます。本陣の代表は大目付と呼ばれます。続いて南東部の四保六保と呼ばれる地区代表の出仕人と呼ばれる人たちが年齢順に地区名と名前を呼ばれ玉串を奉天します》(ならグルグル散歩のホームページより)。
http://naraguru.fc2web.com/gyouji02zg.htm

また《御朝拝式は筋目衆と呼ばれる人たちによって代々奉仕されてきましたが、平成19年には550年目にあたるこの年に筋目衆家系しか参列できなかったしきたりを廃し、高原の御朝拝式を統合して村民全体の行事として存続していくことになりました》と、上記「ならグルグル散歩」の管理人さんに教えていただいた。


鴨鍋定食800円

普段あまり聞くことのない後南朝のことは、この2日間でたっぷり勉強させていただいた。がらりと話は変わるが、昼食は、「くらや食堂」(川上村柏木)で鴨鍋の定食(800円)をいただいた。肌寒いお天気で冷えた体が、芯から温まってくる。



お土産は、大滝茶屋(同村大滝。製造直売)で名物・柿の葉寿司と栃餅を買った。この大滝茶屋では、店内でお寿司を食べることもできる(2階あり)。まとめ買いする常連さんも多く、店員さんはとても忙しそうだった。



それにしても充実した2日間だった。歴史スポットも、温泉も、景観も、ホテル(ホテルかみきた)も、堪能した。

ご案内いただいた中岡孝之先生、お世話いただいた同僚のYくん、有り難うございました。今度は私がガイド役となって、知人を村にお連れしますので…。
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ホテルかみきた鉄人シェフの「山の幸フルコース」

2009年05月18日 | グルメガイド
この土日(5/16~17)、上北山(かみきたやま)村を訪ねた。村の見どころは追って書くことにして、まずは宿泊場所の「ふれあいの郷 ホテルかみきた」(奈良県吉野郡上北山村河合552-2)を紹介したい。
※ふれあいの郷 ホテルかみきた公式ホームページ
http://www.htl-kamikita.jp/index.html


ホテル外観(吉公連のホームページより)

このホテルは1994年(平成6年)10月に村営ホテル「ふれあいの郷 かみきた」としてオープン、その後2005年(平成17年)3月からは民間のきたやまリゾート(株)が運営を受託している。再オープン時に館内が改装され、お洒落なプチ・リゾートホテルとして生まれ変わった(室数16、大広間・会議室完備)。客室の窓を開けると、高い山が目の前に迫っている。窓の下には北山川が流れる。底の砂利までくっきりと見える清流である。地名(河合)の通り、すぐ南で小橡(ことち)川と合流する。



このホテルについては「フロンティアエイジ」09年3月号(朝日新聞に折り込まれる情報紙)に詳しい。《行けども、行けども山。奈良・吉野から吉野川の源流域をひたすら上り、西大台ケ原の分水嶺・伯母峰峠(標高991メートル)の新トンネルからは逆に熊野灘へ続く北山川に沿って下る。整備された国道169号は走りやすく、長短19のトンネルをくぐって標高320メートルの谷あい、上北山温泉に1時間余で着いた》。私は奈良市内からマイカーで約2時間半だった。大阪市内からも同じくらいだそうだ(南阪奈道を利用)。


北山川の清流。夏でも冷たい

《役場などがある中心地だが、南朝・後亀山天皇の玄孫(げんそん=孫の孫)が隠れ住んだ里でもある。村おこし策として22年前、北山川の河原で掘り当てた温泉。4年前から民営になったが、日帰り温泉の薬師湯とホテル「かみきた」は大阪、京都、神戸、名古屋からリピーターたちが通うひそかな人気の湯どころとなっている》。
http://www.melma.com/backnumber_163970_4442046/


コウヤマキ(高野槙)を使った大浴場(上北山温泉。磨き石の浴槽と隔日交代)

《「初めての方が必ず口にされる通り山と川だけ。ですが自慢も二つ。きっと納得されるはず」と支配人の山根友喜さん(56)。一つは県内で「一、二を誇る」源泉の泉質の良さ。浴槽に足を入れた途端、薄い絹で覆われるような感触。腕も顔もたちまちツルンツルンになる。ナトリウム・炭酸水素塩泉の魅力という。毎分350リットルを自噴する豊富な湯量も自慢。湯上がりの女性たちは一様に艶やか美人に変身している》。


露天風呂(岩風呂と隔日交代)



ホテルの「二つめの自慢」が料理だ。あらかじめパンフレットを拝見すると、マグロやイカの刺身、エビの天ぷら、牛肉の陶板焼きといった料理が並んでいた。熊野までは約50kmなので、熊野灘の鮮魚や熊野牛といった良質の素材が手に入るのだそうだ。しかし、わざわざ奥吉野に来て刺身や熊野牛を食べたいとは思わない。


向かって左が佐伯料理長、右が山根支配人

あらかじめ山根支配人と連絡を取り「ぜひ、地元・上北山村の素材にこだわった料理を提供していただきたい」とお願いしてあった。何しろ料理長の佐伯惟教さんは、奈良県調理技能コンクール懐石部門でグランプリを取ったスゴ腕、いわば奈良の料理の鉄人だ。きっと期待にお応えいただけるだろうと、胸をワクワクさせながらレストラン「山ゆり」に向かった。


右上は季節八寸(北山川の稚鮎南蛮漬、白ずいき、ワラビの土佐煮など)。左は筍ご飯
下は刺身(熊野シビ=マグロ、ウニのアオリイカ巻きなど)。食前酒は「薬師の雫」(やたがらす)


北山ウナギと大和芋の茶巾。汁は絶品

「フロンティアエイジ」には《順に出される懐石料理の美しさに見惚れ、貝柱の椀物で汁の妙味にうなる。造りのマグロの鮮度にも驚くが、塩焼きで出た「北山アマゴ」は朱の斑点が浮かび、絶品の味》。


器にも気配りが行き届いている


猪肉の石焼き。グリーンアスパラなどを地元で捕れた猪肉で包み、バターで焼く

この日はアマゴの天ぷらが登場した。からっと揚がっていて、頭からバリバリといける。身にはたっぷりの木の芽。何でも、会長さんの自宅の庭に生えていたものを、今朝から摘んできていただいたのだそうだ。


射込み筍の含め煮

このタケノコも、会長さんが朝から竹やぶで掘り出していただいたもの。さすがに柔らかく、エグ味は全くない。


上北山の山菜天ぷら(ヨモギ、タラノメ、ウドノメなど)
これらを特別ブレンドした塩と抹茶でいただく


地元製コンニャクと山ウドを特別ブレンドの酢味噌でいただく

《「アマゴは北山川の天然ものを孵化から育て、臭みを抜くため、えさを与えずに地下水で蓄養したダイエット魚。熊野灘の深層水から取った塩を振って焼きました」。そう話す料理長・佐伯惟教さん(50)は県の調理技能日本料理部門でグランプリ受賞(03年)の腕。熊野の漁港まで車で1時間。その幸を奈良、大阪へ運ぶ国道169号は鯖街道と呼ばれてきた。そして豊富な山菜、山のけものたち》。


鹿肉の刺身。冷凍保存したものだが、臭味もなく美味しい



圧巻は、ご飯ものとして出てきた「上北山のとち餅茶粥(ちゃがゆ)」だ。実はホテル入りする前に、地元の方から「我々がいつも食べている栃餅の茶粥を観光客の方に食べていただければ、きっとご満足いただけると思うのですが」という話をお聞きしたばかりだったのだ。
 

茶粥の上にソフトな栃餅が浮かんでいる

確かにこれはイケる。Wikipediaによると《栃餅(とちもち)は、灰汁抜きした栃の実(トチノキの実)をもち米とともに蒸してからつき、餅にしたものである。もち米だけの餅よりも黄土色や茶色がかっており、独特の苦味がある。かつては米がほとんど取れない山村では重要な食糧で、21世紀初頭現在では土産物の1つとしても売られている。砂糖を付ける、餡に絡めるあるいは包む、塩茶漬けにするなどして食べる》。

私は、茶粥はよく食べるし、栃餅は吉野へ来るたびにお土産に買って帰る。それをドッキングさせると、こんな美味しい食べ物になるとは…。栃餅独特の苦みと、茶粥の香ばしさのコンビが絶妙である。



ここに山菜の佃煮や漬物を添えていただくと、もう気分は上北山村民だ。「とち餅茶粥」は従業員の上平さんが作られたもので、村内のご自宅と全く同じ方法で炊かれたそうだ。これまで、まかない飯として調理場で出されたことはあるが、料理として提供されたのはこれが初めてだそうだ。こんな美味しい郷土料理は、ぜひ定番にしていだきたいものである。

それにしても、このホテルの完成度の高さには舌を巻く。温泉、料理、接遇、設備のすべてが高いところでバランスしているのだ。リピーターが多いのも、当然だろう。上北山といえば、大台ヶ原への登山客が大半で、単に寝て食べて温泉に入ればそれで良し、という人が多いと思っていたが、最近は登山家や山男というより、一般のハイカーが多いので、食事や設備にもハイレベルなものを求められるのだ。


朝食。熊野産アジの干物、地元産の生湯葉、ワサビの茎の佃煮など

このホテルはそんなニーズにも十分応えられる素晴らしいホテルである。ぜひ、お訪ねいただきたいと思う。今回のメニューは「tetsudaスペシャル」との位置づけだった。

今後も地場産品をどんどんお使いになり、上北山村の良さを全国に発信していただきたいものである。

※ホテルかみきたスタッフブログ(ホテルかみきた新着情報)。もう少し、更新頻度を上げてほしいのだが…
http://bizleaders.jp/blog/htl-kamikita/

会長・社長、山根支配人、佐伯料理長、、福西さん、上平さんはじめ関係者の皆様、ムリを言って申し訳ありませんでした。おかげさまで温泉もお料理も、堪能させていただきました。今度はもっと大人数でお邪魔いたします。

※トップ写真は霧の西大台(5/17撮影)。大台ヶ原のなかでも「西大台」は入山者の利用調整(入山規制)が行われているが、ドライブウェイの道路沿いからは、こんな景色が眺められる。
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