エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

チョウ 私の青春

2008-04-14 | 自然観察
あの日も捕虫網を携え、麦わら帽、三角管、手拭いと身支度を整え山へ向かった。まだ山ひだに雪の残る山道には、もうコツバメ、ミヤマセセリが舞い、ハンミョウが先導をつとめる。緑の静寂の中、蝶を捕らえ、感動に震える手で三角紙に納めた。
 蝶に魅せられた少年の日の爽やかな思い、再びかえらぬ楽しき春はまぼろしであったのか。ああ、今老いた心で、遠き日のあまりに豊かな春を誰に語ればいいのだろうか。

北杜夫の「幽霊」を読みながら、蝶を求め心を躍らせた信州での青春を思い出した。
「幽霊」の第4章の書き出しには『それからというもの、僕のまわりには大いなる<自然>があった。』とある。同じような気持ちで信州の山々を眺め、自然の中で多くの感動をもらった。今「幽霊」の文字を辿り、限りなくすばらしい信州の四季をふり返えっている。

 急に青春を追憶してみたくなり、もう何十年も押し入れにしまい込んだままの標本箱を出してみた。いつか純真な気持ちで蝶を求めた少年期のこころがよみがえった。これら小さな蝶のいのちをながめ、自然の中での日々がほのかに思い出された。
梢を矢のように飛び交うメスアカミドリシジミ、夕陽を背に飛び乱れるウウラナミアカシジミ、そしてあの山道の曲がり口のクヌギには、きまってゴマダラチョウ、オオムラサキ、カナブン、スズメバチが群れていた。額に汗して息を殺して樹液に近づいたあの心の高鳴りは何処へ行ってしまったのだろう。

チョウに魅せられた少年のこころは、その後、採集から飼育、観察、研究へと発展し、チョウは私の青春となった。
 ある時、博物館の標本作成を依頼された。標本のお礼にいただいたお金は、私にとって特別な意味があった。そのお金で購入した専門書の見返しには、当時の後ろめたい心が記されている。それは、大自然に自由に羽ばたくチョウの命を絶った事実を弁明できない自分のもどかしさであった。いつの頃からか、そんなわだかまりがあったことに気づいていた。
 
 あれから三十年、捕虫網をカメラに持ち替え、今も虫の気持ちになって観察を続けている。いつも人一倍強い自然への畏敬の念を抱きながら、崇高な生命を見つめている。これはかつてチョウから教えられ培われた私の自然観に違いない。