釣りをしていると魚以外の色々な生き物に出会う。でもソイツらは一般の人達にとっては愛らしくも珍しい存在かも知れないけど、釣り人にとってはかなり厄介者だ。
ウミガメに出遭ったのは、愛媛県にある御五神(おいつかみ)の「イサギバエ」という磯だ。100m沖に顔を出したかと思うと、潜水しつつ足元あたりまでやって来てはオキアミを食い(多分?)、再び沖に出ては水面から顔を出すという事を繰り返す。勿論、そんな行動が始まると全く魚は釣れない。ウミガメには昨年の男女群島釣行でも同じ目に遭っているが、魚が釣りたければ磯替わりをする意外に手だてが無くなってしまうのだ。
次にイルカだが、これも同じ御五神(おいつかみ)の「ニシキバエ」という磯でも出会っている。この時は20~30頭の群れだったが、日本海の舞鶴沖にある冠島でマダイを狙っている最中に遭遇したのは100~200頭単位だっただけにキョーレツだった。勿論、いずれの場合も釣りを諦めて退散するしかなかった。また、イルカよりも更に大きい15mはあろうかというクジラの10頭ほどの群れが沖を悠々と泳ぐ場面にも紀伊長島の「大島1番」という磯で出会ったこともある。
上記のイルカやクジラ等は、その生物本来の行動パターンによってワタシの目の前に現れたものだが、本来の季節や生息域を越えてを外れて我々の目の前に現れるパターンは少々?問題を含んでいる。
本来はそこにほとんど居なかったハズの熱帯性の魚が大量に釣れたりすることや、潮流や水温の変化で回遊魚のコースが大きく変わった結果、何年も釣れなかったりすることはその一例だろう。また、私の大好きなグレ釣りの場合、昔は10月に入るとそろそろハシリの良型が釣れ始め、11月中旬には徐々にシーズンが本格化していたのが、昨今では11月後半でようやくハシリの良型が釣れ始めるケースが多いが、これもその一例だろう。結局、これらは今よく言われる「地球温暖化」の結果だと思われる。
釣り人から見た温暖化以外の問題としては、「外来生物」の存在も環境破壊の一部になるだろう。
例えば、先日、友人がブログで「ヌートリア」の存在に驚いていたが、ワタシ自身は山間のダム湖でブラックバスを釣っていた際に何度か目撃しているので、そう珍しくはないように思っているが、その時私が釣っていた「ブラックバス」自体も外来種であるし、その際、外道で釣れてくる「ブルーギル」もそうだ。その他「カミツキガメ」や「ガーパイク」なんかも一部で増えているという。
また、外来種ではなくても、国内の例えば本来は琵琶湖とその周辺にしか生息していなかった「ハス」や「オイカワ」が全国的に生息するようになったのは、琵琶湖のアユを全国の河川に放流した際に混入した結果であるというし、その「アユ」自体もよく考えてみると琵琶湖のものを他の川に放流した時点で生態系に影響を与えてしまっているのではないだろうか?。また、「イワナ」「ヤマメ」「アマゴ」といった渓流魚も養殖したモノが各地で入り交じった状態になっている。
外来生物等は放された場所の環境に適応し、繁殖した結果、現在では日本古来の在来種の存在を脅かしたり、農作物などに食害を及ぼすようになっているが、元々は毛皮をとるためや食糧難対策に大した研究もせずに海外から導入して無秩序に増やし、以後放置した結果であったり、各地に漁師や釣り人が魚を無秩序に放流した結果なのだ。また、個人がペットを飼いきれなくて放した結果なんてモノもある。
これらは今頃になって特定外来生物に指定され、駆除の対象になっているが、個人的見解では新聞などで採り上げられるほどに「目立って」増えてしまうと、もう手遅れのような気がする。だからこそ我々釣り人のように普段から自然に接して、いち早く環境の変化に気付く必要があると思うのだ。そうすれば、かなり早い段階で「何かがオカシイ。」と思う人が増えるだろうから手の施しようもあったのかも知れない。
また、一般の市民よりかなり早くの段階から気付く分だけ、それらの問題が唐突とは思はないのでヒステリックな対応をすることなく冷静な判断が出来るような気がする。
例を挙げれば琵琶湖では在来種の減少に対してブラックバスをやり玉に挙げて、その原因のほとんどがこれあるかのようにマスコミ等で採り上げていたが、ここで釣りをしたことのある人間のように、それ以外に在来種の産んだ卵まで食い尽くすブルーギルの存在を知っていたり、湖岸のヨシ(葦)原を刈り取って護岸工事をした結果、魚の産卵場所を奪っていること、田んぼの水が大量に流れ込む時期に農薬や泥の影響で小魚が浮かんでいる光景を目にしていれば、ブラックバスだけのせいにするのはおかしいことが理解できるハズだ。
「環境問題」はより複雑な要素が、お互いに関連している。だから象徴的にとりあげられた「スケープゴート」のみにヒステリックな攻撃をしても改善はされないと思う。
こんな目で普段から「環境問題」を見ていると、近頃盛んに叫ばれている「レジ袋の廃止→エコ・バッグの普及」といった流れにも個人的に何だか疑問を感じるようになった。よく考えてみると、元々レジ袋は「燃やすとダイオキシンが出る。」と言って廃止を進めていたのを記憶している。その頃は「塩ビ=燃やすとダイオキシン」という流れの中、子供が使う消しゴムまでにクレームが付いていた。その後はそれに対応してレジ袋製造メーカーが「燃やしてもダイオキシンが出ない。」タイプの袋を製造するようになっていったが、何と最近の研究では「ダイオキシンは以前に言われていた程のオソロシイ害はほとんど無いだろう。」と言われ始めている。すると、気付けばいつの間にかレジ袋の問題は「製造するのにCO2が出るからダメ。」という話にすり替わっているではないか。これに関しては何も「レジ袋分のCO2なら出しても良いではないか?」と言っているのではなく、一度スケープゴートにとりあげた「レジ袋」の運命を見て恐ろしさを感じているのだ。そして更に最新の研究ではそのCO2に関しても「本当ににそれだけが悪者で、減らせば温暖化が無くなるのか?」という見解に流れているのだという。こうなれば、レジ袋を拒否するのなら最初から素直に「ゴミが増えるから」と言う方が一番的を得ていたのではないかと個人的には思う。
こういう話は他にもある。一時あれほど言われていた「フロンガスの廃止」もその結果、南極のオゾンホールが収縮したものの、南極風の風向きが変わって温暖化が進んでしまったというレポートが報告されているのだという。
結局、我々は自然の前にして、その仕組み(の一部?)を理解するには、まだかなりの年月が必要になると思う。ましてや科学者でもなんでもないワタクシ・レベルなんぞには解明は不能だろう。だからこそ個人として、釣りを含んだアウトドア全般の遊びを通じて自然に触れる回数を増やし、季節や環境の変化を肌で感じ取って冷静な判断をしつつ、本当の意味でのエコ活動をしなければならないと思う。そしてそれを次の世代に伝え、受け継がせることが大切だと思う。
じゃぁ、具体的にどうすればいいのか?。個人がとれる行動としては、普段から使う燃料や電力を減らし、出すゴミや使う洗剤等の量を減らすという、自然に対する「ローインパクト」な生活を心掛けるのが一番ではないかと思う。だから少々の不便なら我慢しなくてはならない。そのためにも家族で不便なキャンプ場で過ごすの時間は非常に良い体験になると思う。そして、そこで見た風景は、決してゴミなんぞで汚したくはない風景のハズだ。だからこそ、ワタシは家族と共にキャンプ場へ向かうのだ。
ウミガメに出遭ったのは、愛媛県にある御五神(おいつかみ)の「イサギバエ」という磯だ。100m沖に顔を出したかと思うと、潜水しつつ足元あたりまでやって来てはオキアミを食い(多分?)、再び沖に出ては水面から顔を出すという事を繰り返す。勿論、そんな行動が始まると全く魚は釣れない。ウミガメには昨年の男女群島釣行でも同じ目に遭っているが、魚が釣りたければ磯替わりをする意外に手だてが無くなってしまうのだ。
次にイルカだが、これも同じ御五神(おいつかみ)の「ニシキバエ」という磯でも出会っている。この時は20~30頭の群れだったが、日本海の舞鶴沖にある冠島でマダイを狙っている最中に遭遇したのは100~200頭単位だっただけにキョーレツだった。勿論、いずれの場合も釣りを諦めて退散するしかなかった。また、イルカよりも更に大きい15mはあろうかというクジラの10頭ほどの群れが沖を悠々と泳ぐ場面にも紀伊長島の「大島1番」という磯で出会ったこともある。
上記のイルカやクジラ等は、その生物本来の行動パターンによってワタシの目の前に現れたものだが、本来の季節や生息域を越えてを外れて我々の目の前に現れるパターンは少々?問題を含んでいる。
本来はそこにほとんど居なかったハズの熱帯性の魚が大量に釣れたりすることや、潮流や水温の変化で回遊魚のコースが大きく変わった結果、何年も釣れなかったりすることはその一例だろう。また、私の大好きなグレ釣りの場合、昔は10月に入るとそろそろハシリの良型が釣れ始め、11月中旬には徐々にシーズンが本格化していたのが、昨今では11月後半でようやくハシリの良型が釣れ始めるケースが多いが、これもその一例だろう。結局、これらは今よく言われる「地球温暖化」の結果だと思われる。
釣り人から見た温暖化以外の問題としては、「外来生物」の存在も環境破壊の一部になるだろう。
例えば、先日、友人がブログで「ヌートリア」の存在に驚いていたが、ワタシ自身は山間のダム湖でブラックバスを釣っていた際に何度か目撃しているので、そう珍しくはないように思っているが、その時私が釣っていた「ブラックバス」自体も外来種であるし、その際、外道で釣れてくる「ブルーギル」もそうだ。その他「カミツキガメ」や「ガーパイク」なんかも一部で増えているという。
また、外来種ではなくても、国内の例えば本来は琵琶湖とその周辺にしか生息していなかった「ハス」や「オイカワ」が全国的に生息するようになったのは、琵琶湖のアユを全国の河川に放流した際に混入した結果であるというし、その「アユ」自体もよく考えてみると琵琶湖のものを他の川に放流した時点で生態系に影響を与えてしまっているのではないだろうか?。また、「イワナ」「ヤマメ」「アマゴ」といった渓流魚も養殖したモノが各地で入り交じった状態になっている。
外来生物等は放された場所の環境に適応し、繁殖した結果、現在では日本古来の在来種の存在を脅かしたり、農作物などに食害を及ぼすようになっているが、元々は毛皮をとるためや食糧難対策に大した研究もせずに海外から導入して無秩序に増やし、以後放置した結果であったり、各地に漁師や釣り人が魚を無秩序に放流した結果なのだ。また、個人がペットを飼いきれなくて放した結果なんてモノもある。
これらは今頃になって特定外来生物に指定され、駆除の対象になっているが、個人的見解では新聞などで採り上げられるほどに「目立って」増えてしまうと、もう手遅れのような気がする。だからこそ我々釣り人のように普段から自然に接して、いち早く環境の変化に気付く必要があると思うのだ。そうすれば、かなり早い段階で「何かがオカシイ。」と思う人が増えるだろうから手の施しようもあったのかも知れない。
また、一般の市民よりかなり早くの段階から気付く分だけ、それらの問題が唐突とは思はないのでヒステリックな対応をすることなく冷静な判断が出来るような気がする。
例を挙げれば琵琶湖では在来種の減少に対してブラックバスをやり玉に挙げて、その原因のほとんどがこれあるかのようにマスコミ等で採り上げていたが、ここで釣りをしたことのある人間のように、それ以外に在来種の産んだ卵まで食い尽くすブルーギルの存在を知っていたり、湖岸のヨシ(葦)原を刈り取って護岸工事をした結果、魚の産卵場所を奪っていること、田んぼの水が大量に流れ込む時期に農薬や泥の影響で小魚が浮かんでいる光景を目にしていれば、ブラックバスだけのせいにするのはおかしいことが理解できるハズだ。
「環境問題」はより複雑な要素が、お互いに関連している。だから象徴的にとりあげられた「スケープゴート」のみにヒステリックな攻撃をしても改善はされないと思う。
こんな目で普段から「環境問題」を見ていると、近頃盛んに叫ばれている「レジ袋の廃止→エコ・バッグの普及」といった流れにも個人的に何だか疑問を感じるようになった。よく考えてみると、元々レジ袋は「燃やすとダイオキシンが出る。」と言って廃止を進めていたのを記憶している。その頃は「塩ビ=燃やすとダイオキシン」という流れの中、子供が使う消しゴムまでにクレームが付いていた。その後はそれに対応してレジ袋製造メーカーが「燃やしてもダイオキシンが出ない。」タイプの袋を製造するようになっていったが、何と最近の研究では「ダイオキシンは以前に言われていた程のオソロシイ害はほとんど無いだろう。」と言われ始めている。すると、気付けばいつの間にかレジ袋の問題は「製造するのにCO2が出るからダメ。」という話にすり替わっているではないか。これに関しては何も「レジ袋分のCO2なら出しても良いではないか?」と言っているのではなく、一度スケープゴートにとりあげた「レジ袋」の運命を見て恐ろしさを感じているのだ。そして更に最新の研究ではそのCO2に関しても「本当ににそれだけが悪者で、減らせば温暖化が無くなるのか?」という見解に流れているのだという。こうなれば、レジ袋を拒否するのなら最初から素直に「ゴミが増えるから」と言う方が一番的を得ていたのではないかと個人的には思う。
こういう話は他にもある。一時あれほど言われていた「フロンガスの廃止」もその結果、南極のオゾンホールが収縮したものの、南極風の風向きが変わって温暖化が進んでしまったというレポートが報告されているのだという。
結局、我々は自然の前にして、その仕組み(の一部?)を理解するには、まだかなりの年月が必要になると思う。ましてや科学者でもなんでもないワタクシ・レベルなんぞには解明は不能だろう。だからこそ個人として、釣りを含んだアウトドア全般の遊びを通じて自然に触れる回数を増やし、季節や環境の変化を肌で感じ取って冷静な判断をしつつ、本当の意味でのエコ活動をしなければならないと思う。そしてそれを次の世代に伝え、受け継がせることが大切だと思う。
じゃぁ、具体的にどうすればいいのか?。個人がとれる行動としては、普段から使う燃料や電力を減らし、出すゴミや使う洗剤等の量を減らすという、自然に対する「ローインパクト」な生活を心掛けるのが一番ではないかと思う。だから少々の不便なら我慢しなくてはならない。そのためにも家族で不便なキャンプ場で過ごすの時間は非常に良い体験になると思う。そして、そこで見た風景は、決してゴミなんぞで汚したくはない風景のハズだ。だからこそ、ワタシは家族と共にキャンプ場へ向かうのだ。