先日、バス釣り専門誌「BASS World」という雑誌を読んでいた。その中に「水温が1度違うだけで魚の住む場所が変わる。」と言いつつ、温度設定を変えたサーモを繋いだ水槽をスタジオに何台も持ち込んで魚の生態についての説明をし、「地球が温暖化をすると魚たちが住み辛くなるから、CO2を減らそう」と叫んでいる某タレントの話がコラムの中に出てくる。それに対し著者は「自分が普通に生活をする以上に電気を食うサーモ付きの水槽を諦めるという『我慢』ができないのに、人に我慢を求めるということが理解できない。」といった主旨で書いていた。
こういうことには日頃からよくツッ込んでいたから、ワタシも言いたいことは解るような気がする。
今、電力会社はベースの部分は原子力を主体に背負わせ、昼間の需要期に火力その他で補うというのが電力の供給パターンであるらしい。であれば、CO2の排出抑制を一番に考えると、化石燃料を燃やすピークである真夏の昼間に、身近な電気器機の中では"大電力を消費する"エアコンのスイッチを切るのが一番効くような気がするし、ある意味地球温暖化よりも深刻な「ヒートアイランド現象」にも効果があると思うけど、「何度か設定温度を上げよう」という声は聞いたことがあるが、経済的理由ではなく、このクソ暑い真夏の都会で昼間に一切エアコンをつけないで過ごしているエコ活動家がいったい何人居るのだろうか?と思うことがある。
こんな風に矛盾を感じる話は他にもすぐに浮かんでくる。
このごろは週末に高速道路が¥1000になり、恩恵?を受けている人が増えて、各高速道路の通行量も増えている。しかしエコ活動家たる者、そんな甘言に乗らず、公共交通機関一本槍でなくてはならないが、ソレを貫いている人はいったい何人いるのだろうか?。
「地産地消を推進し、搬送にかかる燃料を減らそう」と声高に叫ぶのなら、その人は率先して外食はせずに、料理は全て自分達で作らなければならない。モチロン、輸入原料の多い格安の回転寿司は食ってはいけないし、ゲップや糞から出るガスに、強い温室効果があると言われるから、牛を始めとする畜肉類は一切食せず、飼育頭数を減らす運動も合わせてしてゆかなければならない。
また、需給バランスが崩れた後に起こる、農産品の価格高騰に対して「低所得者はどうすればいいのか?」「絶対数が足りない国産の農産物を増やす方法があるのか?」というところまで考え、具体策を持たなくてはならないが、ソコまでを含めた運動を実践している人はいったい何人いるのだろうか?
しかしながら、そんな生活を追求していくと、ついには原始生活に戻るしかなく、そんな社会が始まれば産業と雇用が破壊され、失業者の大量発生に繋がっていくだろうから、ここまでヤルのは不可能だ。
矛盾点以外にも世に言う「エコ活動」には気になる問題点があるように思う。
以前に見た報道番組での話だが、環境団体の一部には手段が目的化し、今やビジネスになっている団体があるという。つまり活動は「後の募金が目的」で「そのために派手なパフォーマンスで世間にアピールしているだけ」ということらしい。こういうのを「環境ゴロ」というらしいが、たとえ大看板を掲げていて、信頼できるとされている慈善団体でも「募金総額から経費を差し引いた金額=現地に届く金額が低い」として批判が出ているというから、本当の意味で環境改善に貢献をしている団体に寄付をするのには、かなりの慎重さが必要なようだ。
また、学術的あるいは科学的に確固たる根拠のないニセモノ科学を「トンデモ科学」というらしいが、そのトンデモ科学で裏付け?されたデータを元に恐怖を煽って本を売ったり、募金を集める個人や団体もあると聞く。トンデモ科学によってやり玉に挙げられた企業なり個人の風評被害に対する責任は、いったい誰が取るのだろうか?と思うこともある。
みんながどこかで自分の都合を除外しているのでは、ソコに矛盾が生まれてくるのは当然だ。ワタシを含めてみんなが自己矛盾を抱えているからこそ、何か後ろめたさを感じているのかも知れない。だから、付け入る隙が生まれて我々一般大衆は様々な報道、運動、団体等に振り回されてしまうのだろう。
そういう状況であれば、皆が一度原点に返ってみるのがイイと思う。海や山を歩けば「エッ、何で?」と思うことが沢山あることに気付くし、町を歩くだけでも、例えば、ゴミを食い散らかすカラスを見るだけでも何かに気付くだろう。環境問題は地球に生きていく以上、個人個人が主人公であり、人に指摘されて動くモノではないはずだ。だから、自分で「見て、感じて」気付いた身の回りの環境改善策=それはゴミ拾いでもイイし、光燃費の節約や使用する洗剤を少なくするのでもイイから、それを「黙って自分でヤル」というのが本筋だと思う。小さなことだと思うかも知れないが、それでいてコレが一番効果があるように思うのだが、どうだろうか…。
こういうことには日頃からよくツッ込んでいたから、ワタシも言いたいことは解るような気がする。
今、電力会社はベースの部分は原子力を主体に背負わせ、昼間の需要期に火力その他で補うというのが電力の供給パターンであるらしい。であれば、CO2の排出抑制を一番に考えると、化石燃料を燃やすピークである真夏の昼間に、身近な電気器機の中では"大電力を消費する"エアコンのスイッチを切るのが一番効くような気がするし、ある意味地球温暖化よりも深刻な「ヒートアイランド現象」にも効果があると思うけど、「何度か設定温度を上げよう」という声は聞いたことがあるが、経済的理由ではなく、このクソ暑い真夏の都会で昼間に一切エアコンをつけないで過ごしているエコ活動家がいったい何人居るのだろうか?と思うことがある。
こんな風に矛盾を感じる話は他にもすぐに浮かんでくる。
このごろは週末に高速道路が¥1000になり、恩恵?を受けている人が増えて、各高速道路の通行量も増えている。しかしエコ活動家たる者、そんな甘言に乗らず、公共交通機関一本槍でなくてはならないが、ソレを貫いている人はいったい何人いるのだろうか?。
「地産地消を推進し、搬送にかかる燃料を減らそう」と声高に叫ぶのなら、その人は率先して外食はせずに、料理は全て自分達で作らなければならない。モチロン、輸入原料の多い格安の回転寿司は食ってはいけないし、ゲップや糞から出るガスに、強い温室効果があると言われるから、牛を始めとする畜肉類は一切食せず、飼育頭数を減らす運動も合わせてしてゆかなければならない。
また、需給バランスが崩れた後に起こる、農産品の価格高騰に対して「低所得者はどうすればいいのか?」「絶対数が足りない国産の農産物を増やす方法があるのか?」というところまで考え、具体策を持たなくてはならないが、ソコまでを含めた運動を実践している人はいったい何人いるのだろうか?
しかしながら、そんな生活を追求していくと、ついには原始生活に戻るしかなく、そんな社会が始まれば産業と雇用が破壊され、失業者の大量発生に繋がっていくだろうから、ここまでヤルのは不可能だ。
矛盾点以外にも世に言う「エコ活動」には気になる問題点があるように思う。
以前に見た報道番組での話だが、環境団体の一部には手段が目的化し、今やビジネスになっている団体があるという。つまり活動は「後の募金が目的」で「そのために派手なパフォーマンスで世間にアピールしているだけ」ということらしい。こういうのを「環境ゴロ」というらしいが、たとえ大看板を掲げていて、信頼できるとされている慈善団体でも「募金総額から経費を差し引いた金額=現地に届く金額が低い」として批判が出ているというから、本当の意味で環境改善に貢献をしている団体に寄付をするのには、かなりの慎重さが必要なようだ。
また、学術的あるいは科学的に確固たる根拠のないニセモノ科学を「トンデモ科学」というらしいが、そのトンデモ科学で裏付け?されたデータを元に恐怖を煽って本を売ったり、募金を集める個人や団体もあると聞く。トンデモ科学によってやり玉に挙げられた企業なり個人の風評被害に対する責任は、いったい誰が取るのだろうか?と思うこともある。
みんながどこかで自分の都合を除外しているのでは、ソコに矛盾が生まれてくるのは当然だ。ワタシを含めてみんなが自己矛盾を抱えているからこそ、何か後ろめたさを感じているのかも知れない。だから、付け入る隙が生まれて我々一般大衆は様々な報道、運動、団体等に振り回されてしまうのだろう。
そういう状況であれば、皆が一度原点に返ってみるのがイイと思う。海や山を歩けば「エッ、何で?」と思うことが沢山あることに気付くし、町を歩くだけでも、例えば、ゴミを食い散らかすカラスを見るだけでも何かに気付くだろう。環境問題は地球に生きていく以上、個人個人が主人公であり、人に指摘されて動くモノではないはずだ。だから、自分で「見て、感じて」気付いた身の回りの環境改善策=それはゴミ拾いでもイイし、光燃費の節約や使用する洗剤を少なくするのでもイイから、それを「黙って自分でヤル」というのが本筋だと思う。小さなことだと思うかも知れないが、それでいてコレが一番効果があるように思うのだが、どうだろうか…。