■京都のランドマーク■
二十歳前、当時京都市北部に下宿をしていた兄の元に転がり込み、泊まり込んでいた頃に始まり、家業を継いだ後も得意先の関係から、振り返れば現在に至るまで、ボクが京都市内へ向かった回数は数え切れない。
京都市内への車でのアプローチは、ほとんどの場合で名神高速の京都南インターで降りて市内に入ることが多い。インターを降りて国道1号線を北上し、京都市内の中心部に入ると実際には十字の交差点ながら、直進ができず、突き当たった感覚になる交差点がある。そこにあるのが、東寺だ。だから、東寺は京都市街の中心に入る際の目印=ランドマーク的な存在だ。
面白いことにその感覚はあながち間違いではなく、その昔、この交差点付近には、洛中と洛外とを隔てる「羅生門(「らしょうもん」あるいは「らじょうもん」)があったそうだ。そういった感覚がリンクするあたりも京都が「京都らしい」ところであろう。
ところで、その東寺だが、多くの人々と同じでボクも「若かりし頃」は何の興味もなく、ただの「右折ポイント」としての認識しかなかったし、恥ずかしながら、「東寺」と「東本願寺」との区別も曖昧で、いい加減この上ない状態だった。
そんな東寺を訪問したのは、開花が遅れている桜はもとより、梅すらも満開ではない寒い日曜日だった。
■境内へ■
東寺とは桓武天皇(かんむてんのう)が平安京に遷都された際に、羅生門の左右に大寺を置いたことに始まる。当初は今日の「寺院」という意味合いは少なく、むしろ「迎賓館(げいひんかん)」的存在であったそうだが、その役目が終わり、弘法大師(空海)に下賜されて以降は、本格的密教寺院として大きく発展した大伽藍だ。また、「東寺」という名が表すように、荒廃して現在は跡形もなくなっているが、羅生門の西には西寺があったそうだ。
本尊は薬師如来様ということなのだが、弘法大師が大きく関わっているだけに、真言宗、すなわち密教系なので、当然ながら大日如来様も大きな扱いでまつられている。
まずは、拝観受付で料金を払う。境内に入る料金と塔頭の観智院、宝物館を含めて¥1000というのは、他の寺院に比べると低い設定であるから、嬉しい限りだ。
入って目を引くのが大きなしだれ桜なのだが、全く咲いておらず、残念。それを見越して先に進むと大池があって、その池越しに五重塔が見えてくる。
■五重塔■
弘法大師による最初の創建以来、五重塔は4度の焼失があって、今に至る。現在のものは1644年に江戸幕府三代将軍、徳川家光の寄進によるものだ。
この塔は5月の連休頃には内部を公開するそうだが、当日は非公開となっていた。
■講堂■
次に向かったのは、講堂。実は、この講堂がボク的には一番見たかった場所だ。真言宗(密教)では宇宙を曼荼羅(まんだら)で表すが、その多くが絵画であったり織物であったりする。しかし、この講堂内には、それがいわゆる仏像そのもので表現されており、それ故「立体曼荼羅」と言われている。
あいにく内部は撮影不可となっているので、この目に焼き付ける他はなかったのだが、21尊の仏像全体的に、軟らかな表情ものが多いことが印象的だった。
この講堂も本来は弘法大師によって創建されたが、オリジナルのものは日本史の教科書でおなじみの「山城国一揆」によって焼失している。したがって、現存のものは室町時代に建てられたものということだが、立体曼荼羅を構成する全21尊の内、15は焼失を免れたらしく、平安時代前期の作だそうだ。
そんなことを知れば、上述した「表情の柔らかさ」は、「武家が天下を取る以前の時代の作だからか?」と、納得できるような気がする。
■金堂■
続いては金堂へと向かう。金堂にはご本尊の薬師如来様が祀られている。ここも山城国一揆で焼失し、現存のものは豊臣秀吉の子、秀頼が発願して再興したものだ。
左右の月光菩薩(がっこうぼさつ)と日光菩薩(じっこうぼさつ)と共に並ぶお姿は、安土桃山期のため、講堂の仏像群とは違った表情があって、見比べると面白い。
■大師堂(御影堂=みえいどう)■
大師堂(御影堂)とは、弘法大師の住房だった建物で、内部には誰も見たことがないと言われる秘仏の不動明王が安置されている。ここもまた南北朝時代に焼失しているので、室町期の再建になるが、その価値は高いそうだ。
この、お堂の歴史的価値については、歴史小説家の司馬遼太郎氏の記述があり、立て札にして示している。
これによると、このお堂が、現存する平安京最古の遺構だそうだ。
そしてその後は食堂、宝物館、観智院と一通り見終わって、この大伽藍を後にした。
1号線、171号線という、京都市内を走るメインの国道が際を通る割に内部は意外に静かで、堂内の仏像群と土塀で隔てられた外界を走る自動車の群れとの間には、まさしく「隔世の感」があって、タイムスリップしたかのような感覚を味わう。そして、町のど真ん中にあるにもかかわらず、「世界遺産条約」に登録されているから、「意外さ」はさらに増す。
規模や敷地の大きさは、外から土塀の長さを見るだけで簡単に想像できるが、そんな大伽藍であっても、たとえば同規模の禅宗寺院に比べると、お堂同士の間隔が広くて開放的な感じがする。これは宗派の違いのせいか、それとも都の土地に余裕があった時代に創建されたせいかは判らないが、鎌倉~室町期の伽藍とは全く世界観が違う。
「そういった伽藍の中を流れる空気の違いを感じることが楽しい。」と思った東寺めぐりだった。
二十歳前、当時京都市北部に下宿をしていた兄の元に転がり込み、泊まり込んでいた頃に始まり、家業を継いだ後も得意先の関係から、振り返れば現在に至るまで、ボクが京都市内へ向かった回数は数え切れない。
京都市内への車でのアプローチは、ほとんどの場合で名神高速の京都南インターで降りて市内に入ることが多い。インターを降りて国道1号線を北上し、京都市内の中心部に入ると実際には十字の交差点ながら、直進ができず、突き当たった感覚になる交差点がある。そこにあるのが、東寺だ。だから、東寺は京都市街の中心に入る際の目印=ランドマーク的な存在だ。
面白いことにその感覚はあながち間違いではなく、その昔、この交差点付近には、洛中と洛外とを隔てる「羅生門(「らしょうもん」あるいは「らじょうもん」)があったそうだ。そういった感覚がリンクするあたりも京都が「京都らしい」ところであろう。
●国道1号線からの、いつもの風景●
ところで、その東寺だが、多くの人々と同じでボクも「若かりし頃」は何の興味もなく、ただの「右折ポイント」としての認識しかなかったし、恥ずかしながら、「東寺」と「東本願寺」との区別も曖昧で、いい加減この上ない状態だった。
そんな東寺を訪問したのは、開花が遅れている桜はもとより、梅すらも満開ではない寒い日曜日だった。
●梅は5分咲き程度●
●鴨の夫婦も水に入れずに、凍えていた●
■境内へ■
東寺とは桓武天皇(かんむてんのう)が平安京に遷都された際に、羅生門の左右に大寺を置いたことに始まる。当初は今日の「寺院」という意味合いは少なく、むしろ「迎賓館(げいひんかん)」的存在であったそうだが、その役目が終わり、弘法大師(空海)に下賜されて以降は、本格的密教寺院として大きく発展した大伽藍だ。また、「東寺」という名が表すように、荒廃して現在は跡形もなくなっているが、羅生門の西には西寺があったそうだ。
本尊は薬師如来様ということなのだが、弘法大師が大きく関わっているだけに、真言宗、すなわち密教系なので、当然ながら大日如来様も大きな扱いでまつられている。
まずは、拝観受付で料金を払う。境内に入る料金と塔頭の観智院、宝物館を含めて¥1000というのは、他の寺院に比べると低い設定であるから、嬉しい限りだ。
入って目を引くのが大きなしだれ桜なのだが、全く咲いておらず、残念。それを見越して先に進むと大池があって、その池越しに五重塔が見えてくる。
●大池と五重塔●
■五重塔■
弘法大師による最初の創建以来、五重塔は4度の焼失があって、今に至る。現在のものは1644年に江戸幕府三代将軍、徳川家光の寄進によるものだ。
この塔は5月の連休頃には内部を公開するそうだが、当日は非公開となっていた。
●五重塔●
■講堂■
次に向かったのは、講堂。実は、この講堂がボク的には一番見たかった場所だ。真言宗(密教)では宇宙を曼荼羅(まんだら)で表すが、その多くが絵画であったり織物であったりする。しかし、この講堂内には、それがいわゆる仏像そのもので表現されており、それ故「立体曼荼羅」と言われている。
●講堂内部は撮影不可のため、パンフレットで我慢を●
あいにく内部は撮影不可となっているので、この目に焼き付ける他はなかったのだが、21尊の仏像全体的に、軟らかな表情ものが多いことが印象的だった。
この講堂も本来は弘法大師によって創建されたが、オリジナルのものは日本史の教科書でおなじみの「山城国一揆」によって焼失している。したがって、現存のものは室町時代に建てられたものということだが、立体曼荼羅を構成する全21尊の内、15は焼失を免れたらしく、平安時代前期の作だそうだ。
そんなことを知れば、上述した「表情の柔らかさ」は、「武家が天下を取る以前の時代の作だからか?」と、納得できるような気がする。
■金堂■
続いては金堂へと向かう。金堂にはご本尊の薬師如来様が祀られている。ここも山城国一揆で焼失し、現存のものは豊臣秀吉の子、秀頼が発願して再興したものだ。
●金堂の外観●
左右の月光菩薩(がっこうぼさつ)と日光菩薩(じっこうぼさつ)と共に並ぶお姿は、安土桃山期のため、講堂の仏像群とは違った表情があって、見比べると面白い。
●金堂内部は撮影不可のため、パンフレットで我慢を●
■大師堂(御影堂=みえいどう)■
大師堂(御影堂)とは、弘法大師の住房だった建物で、内部には誰も見たことがないと言われる秘仏の不動明王が安置されている。ここもまた南北朝時代に焼失しているので、室町期の再建になるが、その価値は高いそうだ。
●大師堂(御影堂)●
この、お堂の歴史的価値については、歴史小説家の司馬遼太郎氏の記述があり、立て札にして示している。
●「古寺巡礼 京都」の一節●
これによると、このお堂が、現存する平安京最古の遺構だそうだ。
そしてその後は食堂、宝物館、観智院と一通り見終わって、この大伽藍を後にした。
1号線、171号線という、京都市内を走るメインの国道が際を通る割に内部は意外に静かで、堂内の仏像群と土塀で隔てられた外界を走る自動車の群れとの間には、まさしく「隔世の感」があって、タイムスリップしたかのような感覚を味わう。そして、町のど真ん中にあるにもかかわらず、「世界遺産条約」に登録されているから、「意外さ」はさらに増す。
規模や敷地の大きさは、外から土塀の長さを見るだけで簡単に想像できるが、そんな大伽藍であっても、たとえば同規模の禅宗寺院に比べると、お堂同士の間隔が広くて開放的な感じがする。これは宗派の違いのせいか、それとも都の土地に余裕があった時代に創建されたせいかは判らないが、鎌倉~室町期の伽藍とは全く世界観が違う。
「そういった伽藍の中を流れる空気の違いを感じることが楽しい。」と思った東寺めぐりだった。