■丹波路へ■
今秋は、荒天で釣行やハイキングの予定がずれ込んだため、紅葉見物に行く機会が極端に減っていた。そんな中、ようやく巡ってきたタイミングを生かそうと、とにかく丹波路に走ってみることにした。しかし、紅葉期は既に終盤を迎えていることがネット情報で流れていたことが気に掛かっていたのだが…。
■岩瀧寺■
紅葉のピークが過ぎていたとしても、寺域のレイアウトの面白さから、「見る物多し」と判断していた寺の一つが岩瀧寺(がんりゅうじ)という、兵庫県の丹波市(氷上町)の尼寺だった。
岩瀧寺は弘仁年間(809~823)に、嵯峨天皇が弘法大師に命じて、七堂伽藍を建てさせたのが開創といわれているらしいが、天正時代の兵火によって資料がほとんど残っていないため、定かなことは判らないというこらしい。
思えば丹波地方には”天正時代の兵火”で焼失した寺が多くある。勿論この時代は織田信長が天下統一を目指していた頃であり、その命を受けた方面軍司令官であるところの明智光秀が丹波平定に向けてこの地で激しい戦を繰り広げていた。寺院と言っても僧兵を抱え、実質”小城”として使用していた時期があったように、有事には砦として使えるので、いざ戦となれば、その地の支配者が抱える将兵が立て籠もることが多くなる。従って焼き払い等の苛烈な攻めが焼失の経緯なのだろう。しかし、その連続は守旧的な部分が性格にあったといわれる明智光秀にとって精神的に堪えるところがあったのだろうか?と思われ、それが後の謀反の原因の一部にあったのであろうと、勝手な想像をしている。
訪問当日は紅葉のピークを過ぎいたことに加え、夕刻に近い時間帯だったせいか、駐車場に駐まる車もほとんど無く、閑散とした状態だった。
まずは車を降り、右手方向にある参道を登って山門へと向かう。
この山門は大正天皇の即位を記念して創られたということで、大正門と呼ばれるそうだが、境内全体のイメージからすると、もっと古いようにも感じられる。
本堂には観音菩薩や愛染明王が祀られているそうだが、本尊は後述する別の場所にある。
そして、境内に派手さはなく、ひっそりとした空気が流れている。
本堂脇を抜けると、四国八十八箇所の本尊が石仏化され、並べられているところに出る。これは、そこを回れば「八十八箇所を巡礼したのと同じ御利益が得られる」という意味で並べられているのだが、こういった発想は我が西宮市の神呪寺前にもある。ただし、神呪寺のモノは交通手段が不十分だった江戸期に作られたのに対して、ここのモノは新しく作られたようだから、少し意味合いが変わってしまうと思う。
「ミニ四国八十八箇所巡り」を過ぎると、渓谷沿いの道へと変化する。ここで、ふとまわりの山々を見渡すと、岩肌が大きく見え、このあたりがいわゆる、岩山であることを知る。
そして程なく独鈷の滝(どっこのたき)に到達する。この滝は落差20mもあるので、そこそこな壮観だ。
独鈷の滝の横には一直線の石段があり、それを登り切ったところにあるのが、本尊の不動明王が祀られている拝殿だ。
この不動明王は、弘法大師作と言われているが、その出来具合と、保存には適さない岩窟内に納められているという扱い具合の様子から想像するに「…」となってしまう。
岩瀧寺は古来から日本人の心に受け継がれている自然崇拝からくる「山を神聖視する山岳信仰」を支える要素、つまり、渓谷と森、岩窟や滝、そして岩肌が見え隠れする山容と言ったモノが揃い、ここに来ると日本人であれば、何だかピリッとする感覚を味わうことになると思う、そんな寺だった。
■高山寺■
高山寺と書いて「こうさんじ」と読むらしい。前々回にこのブログで書いた京都高雄の高山寺とは関係はない。この寺は、平地を挟んで岩瀧寺と向かいあっている。だから移動にほとんど時間は掛からない。
寺自体の創建は古く、天平宝寺元年(757年)ということらしいが、現在の境内は昭和30年代に移築されたモノだそうだ。しかし、そう聞かなくても”新しさ”を感じる部分が多く、実際に境内歩いてみれば、歴史の重みをあまり感じない。
しかし、新しいだけあって計算された部分もあって、楼門から本堂に続く通路脇には石灯籠が連なり、そこにはモミジが植えられており、紅葉期に”紅の参道”となるよう、レイアウトされている。
しかし、当日はほとんどが散ってしまい、その面影すら感じることができなかった。
唯一、本堂左側の斜面脇に紅葉する木々をようやく見つけ、しばしそこで盛期の姿を想像しつつ眺めているしかなかった。
そして気付けば、夕暮れが迫り、今年の紅葉鑑賞に幕が下りていた。
丹波地方には紅葉の穴場が多く、京都の有名どころほどに混雑することが無いことが嬉しい。下調べの段階ではまだまだ沢山の寺院が候補に挙がっていて、その数から考えると、まだまだ行き尽くすには時間が掛かるようだ。来年、再来年と、紅葉期の楽しみが続きそうな丹波路だった。
今秋は、荒天で釣行やハイキングの予定がずれ込んだため、紅葉見物に行く機会が極端に減っていた。そんな中、ようやく巡ってきたタイミングを生かそうと、とにかく丹波路に走ってみることにした。しかし、紅葉期は既に終盤を迎えていることがネット情報で流れていたことが気に掛かっていたのだが…。
■岩瀧寺■
紅葉のピークが過ぎていたとしても、寺域のレイアウトの面白さから、「見る物多し」と判断していた寺の一つが岩瀧寺(がんりゅうじ)という、兵庫県の丹波市(氷上町)の尼寺だった。
岩瀧寺は弘仁年間(809~823)に、嵯峨天皇が弘法大師に命じて、七堂伽藍を建てさせたのが開創といわれているらしいが、天正時代の兵火によって資料がほとんど残っていないため、定かなことは判らないというこらしい。
思えば丹波地方には”天正時代の兵火”で焼失した寺が多くある。勿論この時代は織田信長が天下統一を目指していた頃であり、その命を受けた方面軍司令官であるところの明智光秀が丹波平定に向けてこの地で激しい戦を繰り広げていた。寺院と言っても僧兵を抱え、実質”小城”として使用していた時期があったように、有事には砦として使えるので、いざ戦となれば、その地の支配者が抱える将兵が立て籠もることが多くなる。従って焼き払い等の苛烈な攻めが焼失の経緯なのだろう。しかし、その連続は守旧的な部分が性格にあったといわれる明智光秀にとって精神的に堪えるところがあったのだろうか?と思われ、それが後の謀反の原因の一部にあったのであろうと、勝手な想像をしている。
●岩瀧寺周辺の木々●
訪問当日は紅葉のピークを過ぎいたことに加え、夕刻に近い時間帯だったせいか、駐車場に駐まる車もほとんど無く、閑散とした状態だった。
まずは車を降り、右手方向にある参道を登って山門へと向かう。
●山門へ続く参道●
この山門は大正天皇の即位を記念して創られたということで、大正門と呼ばれるそうだが、境内全体のイメージからすると、もっと古いようにも感じられる。
●本堂まわり●
本堂には観音菩薩や愛染明王が祀られているそうだが、本尊は後述する別の場所にある。
そして、境内に派手さはなく、ひっそりとした空気が流れている。
●残り物のモミジ●
本堂脇を抜けると、四国八十八箇所の本尊が石仏化され、並べられているところに出る。これは、そこを回れば「八十八箇所を巡礼したのと同じ御利益が得られる」という意味で並べられているのだが、こういった発想は我が西宮市の神呪寺前にもある。ただし、神呪寺のモノは交通手段が不十分だった江戸期に作られたのに対して、ここのモノは新しく作られたようだから、少し意味合いが変わってしまうと思う。
●四国八十八箇所、それぞれの本尊●
「ミニ四国八十八箇所巡り」を過ぎると、渓谷沿いの道へと変化する。ここで、ふとまわりの山々を見渡すと、岩肌が大きく見え、このあたりがいわゆる、岩山であることを知る。
●渓谷沿いを歩く●
そして程なく独鈷の滝(どっこのたき)に到達する。この滝は落差20mもあるので、そこそこな壮観だ。
●独鈷の滝●
独鈷の滝の横には一直線の石段があり、それを登り切ったところにあるのが、本尊の不動明王が祀られている拝殿だ。
この不動明王は、弘法大師作と言われているが、その出来具合と、保存には適さない岩窟内に納められているという扱い具合の様子から想像するに「…」となってしまう。
●拝殿●
岩瀧寺は古来から日本人の心に受け継がれている自然崇拝からくる「山を神聖視する山岳信仰」を支える要素、つまり、渓谷と森、岩窟や滝、そして岩肌が見え隠れする山容と言ったモノが揃い、ここに来ると日本人であれば、何だかピリッとする感覚を味わうことになると思う、そんな寺だった。
■高山寺■
高山寺と書いて「こうさんじ」と読むらしい。前々回にこのブログで書いた京都高雄の高山寺とは関係はない。この寺は、平地を挟んで岩瀧寺と向かいあっている。だから移動にほとんど時間は掛からない。
寺自体の創建は古く、天平宝寺元年(757年)ということらしいが、現在の境内は昭和30年代に移築されたモノだそうだ。しかし、そう聞かなくても”新しさ”を感じる部分が多く、実際に境内歩いてみれば、歴史の重みをあまり感じない。
●この寺の象徴である、楼門●
●楼門の天井部にある、龍の絵の新しい●
しかし、新しいだけあって計算された部分もあって、楼門から本堂に続く通路脇には石灯籠が連なり、そこにはモミジが植えられており、紅葉期に”紅の参道”となるよう、レイアウトされている。
●参道から楼門を振り返る●
しかし、当日はほとんどが散ってしまい、その面影すら感じることができなかった。
唯一、本堂左側の斜面脇に紅葉する木々をようやく見つけ、しばしそこで盛期の姿を想像しつつ眺めているしかなかった。
●残り紅葉●
そして気付けば、夕暮れが迫り、今年の紅葉鑑賞に幕が下りていた。
丹波地方には紅葉の穴場が多く、京都の有名どころほどに混雑することが無いことが嬉しい。下調べの段階ではまだまだ沢山の寺院が候補に挙がっていて、その数から考えると、まだまだ行き尽くすには時間が掛かるようだ。来年、再来年と、紅葉期の楽しみが続きそうな丹波路だった。