都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
14世紀前半、現在のカナダはフランス政府の開拓をきっかけにフランスからの入植者が増え、16世紀の大航海時代になると、フランス政府は探検隊を新大陸に派遣させ1525年には現在のカナダ東部を探索させる事になりました。
このときフランス政府はこの東部の地を「ニューフランス(新フランス植民地)」と命名します。
当時フランス政府は小兵をもって城を陥落させるという効率の良い領土獲得政策を取っていました。
そして未だ他国の勢力が及んでいない大陸内部へセントローレンス川を経由し、1万人に満たない猟師や宣教師そして守備隊を投入していたのです。
その戦略は、先ず猟師が狩猟しながら森林を切り開き奥地へ進んでいきます。そして次に河川交通の要所に砦を築き、そこの守備隊を配備するというものでした。
当時の毛皮は非常に高価でそこから得られる交易の利益は命を賭けるに値するものだったのです。
その後、その土地には宣教師が送り込まれ、彼らは先住民のインディオをキリスト教に改宗させました。
やがてこの「ニューフランス」の中でもセントローレンス川流域に移住した人らがその地域を「カナダ」という俗称で呼び始める事になります。
この由来には次のようなものです。
時は1535年。セントローレンス川を遡ったフランス人探検家ジャック・カルティエが集落を見つけ、そこに住んでいた先住民に「ここはどこですか?」と尋ねると、その先住民はイロコイ語で「村」と言う意味の「カナタ(Kanata)」と答えました。その時彼らは スタダコナ(Stadacona)村(現在のケベックシティ辺り)を指して使っていたそうです。
当時、自分の探検している地域周辺を示す適当な名がなく不便を感じていたジャック・カルティエは、「Canada」という言葉は、スタダコナ(Stadacona)村だけでなく、ドンナコナ(Donnacona)酋長の支配にあった全部の領域を指すものだと思いました。
その後植民が進むにつれ、「Canada」の指す領域もどんどん拡大していったのです。あいまいな領域を指していた「Canada」は、1547年に地図が作られたとき、「セントローレンス川以北」を指すと定められた。
つまり、「カナダ」という名称は間違いから生まれたのです。
その後も「Canada」の拡大はどんどん進んだ。18世紀前半には、現在のアメリカの中西部、はるか南のルイジアナまでをカナダと呼ぶようになった。
北米の東岸地域にイギリス系とフランス系の移民が入ってそれぞれの植民地が建設されます。その後、イギリスとフランスは植民地の覇権を巡って争いを繰り広げ、最終的に七年戦争(1756年~1763年)と同時並行して行われたフレンチ・インディアン戦争でイギリスが最終的な勝利を収めて北米の覇者となります
「Canada」が正式名称として最初に使われたのは、1791年。現在のケベック州がアッパーカナダ、ローワーカナダ領域に分かれた時だった。1841年、二つのカナダは再び統合されカナダ州(The Province of Canada)と命名された。
その後、1982年に英国のカナダ法の改正と、それに続くカナダ憲法の成立により、カナダは真の独立国家としての地位を確立し正式国名を「Canada」としたそうです。
小さな村を指していた「カナダ」は、国の名前にまで上り詰めたのです。
カナダの国旗の左側の赤い部分は太平洋、反対に、右側の赤い部分は大西洋だそうです。中央の白い部分は北アメリカ大陸となります。中央には大きくカナダのシンボルであるメープルリーフがあります。
したっけ。