都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「今夜焼き鳥で・・・。」と誘われれば、もう酒の話とわかるくらいお馴染みなのが「焼き鳥」ですよね。
この時期でしたら、「ビール」でしょうか?
ところが今日の北海道は寒い。予想最高気温が13度。これでは熱燗で一杯になりそうですね。
ところで、古代は別として、日本人は鶏を食用とはせずに、ただ美しい羽色や鳴き声を楽しむだけに飼っていました。
卵も食べなかったそうです。
鶏(ニワトリ)が家禽(かきん)として飼育されだしたのは、4000年近く前だといわれますが、日本に鶏は約2500年前、中国から朝鮮半島を経由して伝えられて来ました。
鶏は毎朝ほぼ定時には鳴くことから、「時告烏」と称して神聖視もされ、鶏肉も卵も通常は賞味しない習慣がありました。
後醍醐天皇が吉野(奈良県)に朝廷を移した奈良期に入ると、1336年に仏教の肉食(にくじき)禁止により、「牛馬犬猿鶏の肉を喰う無かれ、犯すものあれば罰する」という布告が天武天皇により出され、1390年には「殺生禁断の令」が聖武天皇により出され、畜肉を食べる風習はなくなりました。これには、卵も含まれていました。
しかし、庶民は鶏を大事な「時告烏」と称して飼育し、雉(きじ)肉と偽って食べていたといいます。
また、先人達は、卵が栄養の塊(かたまり)であることも知っており、病人や病後の体カ回復の妙薬として密かに賞味して、殻は土中に埋めたといいます。
江戸時代には卵売りもいたようですが、高価で庶民の食べることはなかったようです。
食用として鶏が飼われ始めたのは明治以降だそうです。それまで日本にいなかった白色レグホン(卵)、白色コーニッシュ(にく)、プリマロック(卵・肉)などの食用鶏が、次々に輸入されました。
牛肉や豚肉より一般庶民に親しまれ、洋風な料理は中心だった牛肉や豚肉にくらべて、いち早く、日本料理に取り入れられました。
それは、「茶碗蒸し」、「鍋物」、「煮込み」、「吸い物」、「炊き込みご飯」、さらに「刺身」にまで幅広く使われています。
本題の「焼き鳥」が現れたのは、比較的新しく、大正の終わりごろだそうです。
それは、大正12年(1923年)の関東大震災の後だったといわれています。
初めは高級料理のひとつで、徐々に大衆化して言ったともいわれています。串に刺して焼くという、手軽さを考えると庶民に広まったのもうなずけるというものです。
北海道では、「豚串」といってバラ肉をくしに刺して焼いたものも「焼き鳥」と言います。
したっけ。