都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
都月満夫
その電話が鳴ったのは、七月の暑い日。水曜日の午後だった。
「部長、一番にお電話です。」
「誰から…?」
「井上様とおっしゃる女性ですが…。」
…、井上?覚えがなかった。
私は、介護用住宅の建設や改築、介護用品の販売、リースを行う会社の経理を担当している。仕事の性質上、知らない人物からの電話はほとんどない。
小さな会社なので、人事も私の仕事だ。しかし、今は、社員募集も行っていない。
「はい、坂野です。失礼ですが、どちらの井上様でしょうか?」
「あらっ、ごめんなさい。井上といってもわかりませんよね。伊藤です。伊藤慶子…。S高校のときの同級生だった…。坂野裕一さんですよね…。」
「はい。そうです…。」
…、すぐに思い出した。伊藤慶子、クラス一の美人だった。頭がよくて、清楚で、いかにも女学生らしい、百合の花のような生徒だった。目立つこともない、ジャガイモの花みたいな私は、会話をした記憶さえなかった。
「伊藤慶子さん。お久しぶりです。…で、どうなさいました。」
私の記憶は、ズームレンズのピントが合うように、三十年の歳月を駆け戻り、制服姿の彼女の顔を鮮明に映し出した。
「どうなさいました…だなんて、そんな言い方なさらないで…。同級生なのですから。」
おとなしかった彼女のイメージとは違い、濃艶な女の雰囲気に、私は圧倒された。しかし、卒業以来、一度も会ったことのない同級生が、一体何の用なのだ。
「…で、どうして、私がここにいることが分かったのですか?」
私も何人かは同級生の付き合いはあるが、彼女との接点のある人物は思い当たらない。
「先日、月刊情報誌の『チャオ』を拝見しました。今、急成長の介護事業の特集記事として、そちらの記事が載っていて…。」
そういえば、取材を受けた。もう発刊されて、会社にも届いていたはずだ。私は、まだ読んではいなかった。
「お名前が載っていて、もしかしたらと思って…。ヤッパリそうだったのね。」
「ああ、そうでしたか…。なんか、伊藤さんが私に電話をくれるなんて、思いもよりませんでした。よく覚えていてくれましたね。なんだか、恥ずかしいな…。」
私はどう答えていいものか困っていた。私の思考は、遠心力を失った独楽のように、不安定に回っていた。
慌てていた。クラス一の美人に憧れがなかったとはいえない。特に目立つこともない平凡な生徒であった私は、遠くから彼女を見ていた。今、その人から電話がきている。
「覚えているわよ。優しくて、いつもニコニコしていらした…。」
「あ、それはどうも…。ありがとうございます。」
彼女が私を覚えていてくれただけで、ドキリとした。急に血管が脈打つ音が鼓膜に響きだした。男子生徒の憧れの的だった人からの電話に、明らかに動揺している自分がいる。
「そちらの会社で、ほら、廃業したホテルを買い取って、高齢者介護施設を開業するって…。それで坂野君が準備室長だと載っていたわ。随分ご活躍なのね。」
「いえ、そんなことは…。来春以降の開業を目途に改築をしているところです。私はスタッフが決まるまでの仮の役職ですから…。」
そうか、介護施設に用があるのか…。
「仮といっても、大変なのでしょう?」
「ええ、それはそれなりに…。何しろ初めてなものですから…。」
「それじゃあ、ヤッパリ無理ですわね…」
…、なんだか思わせぶりな口調である。
「えっ、何が…、ですか?」
「いえね。一度お会いしたいなと思いまして…。」
…、なんだ。どういうことなのだ。私の中で、虹色のシャボン玉が膨らんだ。
「ええっ…、私と…、ですか?」
「そうよっ。お写真を拝見したら、全然変わってなくて、若々しくていらして…。懐かしくなってしまいましたの。変ですか?」
「いやあ…、変ということではありませんが…。」
「坂野君とは、あまりお話しする機会はありませんでしたが、私は、いい方だなと思っていましたのよ。」
…。何てことだ。今、彼女は私のことを、いい方だと思っていたと言った。私は何というか、恋愛には縁がなく、家内とも見合い結婚である。ああ…、そんなことは関係ない。どうしたらいいのだ。
シャボン玉はどんどん膨れ上がり、虹色がグルグルと回り始めた。
「クラス会でも開くのですか?」
「あら、それもいいわね。でも、今回は坂野君に会いたいのよ…。」
「えっ、私に…。私と二人きりですか?」
…二人きり。何てことを聞いているのだ。
「ええ、そうよ。いけない。子どもじゃないのですから、二人きりだって、いいじゃありませんか…。」
「いえ、いけなくはありませんが…。」
「じゃあいいのね。」
「あ、ハイ…。」
「それじゃあ、坂野君の都合のいい日に、お電話くださるかしら…。」
「ええ、それはかまいませんが…。何のご用でしょうか?」
最初の疑問を、やっと聞くことが出来た。
「あら、同級生が顔を見たくなった。…ではいけません?」
「いえ、あ、ハイ…。」
彼女は自分の携帯の番号を言って、電話を切った。最後に意味ありげな含み笑いが聞こえたような気がした。
電話を置くと、女性社員たちが私の顔を見て笑っている。
「なんだ、君たち…。」
一人が答えた。
「部長。昔の彼女さんですか?汗びっしょりですよ。」
「馬鹿なことを言うな。私にはそんな人はいない。」
それを聞いた彼女たちは、そんなことは知っているわよと言わんばかりに、肩を震わせてクスクスと笑った。
何をムキになっているのだ。そうだと受け流せばいいものを…。
気がつくと、エアコンのきいた事務所で、脇腹を汗が流れていた。
※
「あなた、どうなさったの?今日の夕食、美味しくなかったですか?」
妻の多美子が、食器を片付け、キッチンへ向かいながら言った。
「いや…、美味しかったよ。」
「そう…。それならいいの。結婚以来、何も言ってくれないのは、今日が初めてよ。」
「ああ…、そうか、ゴメン。」
「いえ、いいのよ。何かあったのかと思って、ちょっと心配だったから…。」
私が多美子と結婚して、もう、十八年になろうとしている。
私は多美子を好きだったわけではない。嫌いだったわけでもない。親戚の知り合いを紹介され、見合いをした相手だった。多美子は小さな会社の事務員で、私より二つ年上だった。
見合いをしてから、二、三度食事をした。多美子も、私同様どこといって際立ったところはなく、おとなしい女だった。
別に断る理由もなく、相手も気に入ってくれたので、そのまま結婚した。
恋という字の上部は「絲と言」からなり、もつれた糸にけじめをつけようとしても、容易に分けられないことだそうだ。その下に心を加えたのが「戀」という字で、心がさまざまに乱れて、思い切りがつかないことを表しているという。
私は、そんな複雑な思いなど経験せずに、結婚してしまった。
それでも、結婚とは不思議なもので、面識のなかった男女が引き合わされ、同居を始めた。そのことに、何の疑問も持たずに、現在まで過ごしてきた。
息子もでき、人並みの親としても、夫としても何の不満もなく、生きてきた。
「あなた…。やっぱり今日、何かあったのですか?いつもと違うみたい。」
多美子がキッチンから戻って話しかけた。
私は、伊藤慶子からの電話のことを考えていた。だからといって、普段と違うとは思ってもいなかった。
「いや…、何もないけど…。」
「それならいいの…。あんまり喋らないから、心配事でもあるのかと思って…。」
何故、電話のことを話さなかったのか。ただの同級生からの電話だったのに…。
彼女が何のつもりで投じたかわからない小石が、胸の中で波紋を広げた。ざわめく風の中で、今も細波が立っている。
「あなた、満夫も来年からは大学生になるのよ。大丈夫かしら…。」
早いもので、息子も来年は、大学に入る歳になった。
「大丈夫って何が…?」
私は夕刊を読みながら聞いた。
「景気よ。景気がなかなかよくならなくて大変だって時期に、春の大震災でしょ。満夫が卒業する頃は、景気がよくなっているかしらね。」
「そうだな…。せっかく景気が上向きのときの震災だからな…。」
「良くなって貰わなくては、困るわよね。」
「そうだな…。」
私の頭の中は、景気や大震災を考える隙間はなかった。伊藤慶子、彼女を何処に呼び出せばいいのかで埋め尽くされていた。
誰かを交えて会うのなら気楽だが、二人でとなると、どうしていいのやら、思いもつかない。友人に相談するわけにもいかない。
こちらの都合のよい日を連絡して、そちらで場所を指定してくれと言うわけにもいかないだろう。
女性との付き合いが、多美子との結婚前の食事だけという、ないに等しい経験では、どうしていいかわからない。野暮なオヤジには難題であった。
会いたいというからには、やはり、食事に誘わなくてはならないのだろうか?
喫茶店で、お茶でもいいものだろうか?
夕食に誘って、酒でも…、ってことになったらどうすればいいんだ。
バーのカウンターで、ほろ酔いの慶子の顔が浮かぶ。それも、高校生の慶子である。その後の顔は知らないのだから仕方がない。
いや、いかん、いかん。夕食は…、夜は問題がある。
しかし、まさか昼飯にラーメン屋ってわけにもいかないだろう。
まさに、心がさまざまに乱れて思い切りがつかない状態とは、このことだろうか…。
※
土曜日の午前十一時半。私は市内のHホテルのラウンジでコーヒーを飲んでいた。
伊藤慶子から電話があった次の日、このホテルで昼食を…、と電話をした。あれこれ考えたすえに出した結論である。
ホテルでランチとは、我ながらいいアイディアだと悦に入っていた。
この二日間、仕事にも身が入らなかった。緊張していた。落ち着かなかった。
私は自信がなかった。いいアイディアだと思いながらも、これでいいのかと不安であった。彼女のような美人だと、男性に誘われた経験も多いことだろう。
こんなところに、私を誘うの…。などと思われてはいないだろうか…。
今日は土曜日だが出勤日だった。十一時には用事があると、会社を出た。十五分でホテルに着いた。もう、水を三杯も飲んでいる。
今朝、家を出がけに、多美子に言われた。
「あら、そのネクタイ、初めて締めてくれたわね。買ってあげたときは、派手だといって締めてくれなかったのに…。どうしたのかしら、女性とでもお会いになるの?」
「馬鹿なことをいうな。」
「冗談ですよ…。似合っているわよ。」
あの時は、ドキリとした。今さら、彼女のことは言い出せない。本当に冗談だったのだろうか?女の勘は鋭いと言うから、見透かされているのではないのか?
なんだか、後ろめたい気がした。
愛という字の下半部は原型のままだが、その上部は「旡」のひどく変形したものだそうだ。旡とは、人間が腹をいっぱいにつまらせて、後ろにのけぞった姿だという。胸いっぱいの切なさ、それを愛というのだそうだ。それは心の姿だから、心の字をそえ、また切なさに足を引きずり、歩みも滞りがちとなるので、足ずりの形「夂」を添えたという。
私は今、多美子に対して、愛という胸いっぱいの切なさを感じていた。
多美子は、私の心の動揺を見抜き心配し、普段と違う行動に何かを感じ取った。
私は、何気なく過ごしてきた満ち足りた日常に胡坐をかき、それを当たり前だと思って生きてきた。十八年の歳月は、前が見えないほどに、私の心を満たしていたのだ。
何故、今日のことを多美子に告げなかったのだ…。靄のかかった胸の中で、後悔という名の花火が打ち上がる。シャッターを降ろすように、火の粉が燃え落ち、心を閉じた。
ラウンジに掛けられた、大きな時計が、コチッコチッと時を刻む。その音は、私の鼓動と共鳴し、耳の奥で反響する。秒針はスローモーションのように動いている。
コーヒーはとっくに冷たくなっている。震災以来、控えられているとはいえ、冷房の効いた場所で、私は汗ばんでいる。冷めたコーヒーを口に含んだ。飲み込むときに、ゴクリとやけに大きな音がした。
時計の針は、五分で十二時になろうとしている。入口付近を見つめる私の目は、落ち着きのない犬のようにキョロキョロしていた。
自動ドアが開き、女性が入ってきた。華やかではあるが、決して下品ではない、落ち着いた服装の女性だ。
私はすぐに、伊藤慶子だと思った。高校時代と変わらぬ美しさであった。
彼女も私を見つけ、近寄ってくる。私は、立ち上がった。
「井上でございます。お久しぶりです。本日はお忙しいところを、お時間をいただき、ありがとうございます。」
彼女が挨拶を終えると、背後から若い女性があらわれた。
「娘でございます。来春、福祉系の大学を卒業いたします。」
そういうことだったのか…。こんなことなら、野暮な私にだってすぐに理解ができる。
あの日以来、グルグル回っていたシャボン玉がはじけた。私は体中の力を失い、ヘナヘナと倒れるように椅子に座り込んだ。
勘違いもはなはだしい。笑いがこみ上げてきた。声を出して笑った。
カラカラと重いシャッターを持ち上げた向こうに、眩しい多美子の顔があった。
私は、多美子を食事に誘いたいと思った。今すぐ、迎えにいきたいと思った。
井上母娘が、引きつった笑顔で、私を見おろしていることには、気づかなかった。