都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「ようかん」は漢字で「羊羹」と書きます。漢字をそのまま考えると、「羊(ひつじ)の羹(あつもの)」という意味です。ヒツジは分かるとして、羹(あつもの)とは何でしょう。
馴染みのない言葉ですが、「羹(あつもの)=熱物」であり、野菜、山菜や肉を入れて作られた「熱い吸い物」のことを指します。
つまり、「羊羹」の漢字を直訳すると「ヒツジの吸い物」という意味になります。
鎌倉時代~室町時代の頃、禅僧が中国へ留学するのが盛んでしたが、帰国時に「羊羹」を持ち帰ったのが始まりという説が濃厚のようです。
それでは、「羊羹」の原型とはいったいどんなものだったのでしょう。
「ようかん」には「羊肝」という当て字もあり、文字通り「ヒツジ」の「キモ」のこととも言われています。中国では、食間に食べる点心の一つとして食していたようですが、禅僧は修行の為「肉食」を禁じていたので肉が食べられません。
そこで、植物性の材料である小豆やくず粉、小麦粉を蒸し固め、ヒツジの肝に見立て料理の一品としていたという一説があり、これが原型だと言われています。いわゆる「蒸し羊羹」で、ここから「ういろう」が派生したそうです。
中国では元々日本の羊羹に似た食べもので、「羊肝こう」「羊肝もち」という、羊の肝に似せた小豆と砂糖で作る蒸し餅があったそうです。これが動物の肉を食べる習慣の無かった日本に伝わり、現在のようなお菓子となったという説があります。
これが日本に伝来した際、「肝(かん)」と「羹」の音が似ていたことから「羊羹」という文字が使われるようになったとされています。
また、他の説では、現代の「羊羹」とは形も異なり、味も全く違いますが、羊の肉を用いた中国の汁物(羮=熱物)が冷え固まった後の「煮こごり」が元になったのが原型ではないかといわれています。それが日本に伝わり、その後、室町時代の初期茶道の湯の菓子「点心」(定食の間の小食を意味する。)として用いられるようになり、改良されてお茶菓子となったという説があります。
島根県の安来市には、1400年も前に建立された「瑞光山清水寺(ずいこうざんきよみずでら)」通称「安来清水寺」というお寺があります。
安来清水寺には平安時代に「慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)」([794~864]平安初期の天台宗の僧)によって伝えられ、羊の肝料理を精進化し完成された精進料理が存在しているそうです。
「羊羹」はこの精進料理の一種から風雅で「羊肝」の如く口当りやわらかく、小豆色の芳香を持つ菓子に進化したそうです。
この「清水羊羹」は安来清水寺の名物だそうです。
どちらの説も「羊料理」が元になっていることは間違いなさそうです。元々、禅宗文化とともに中国より渡来し、精進料理の汁の実としてあった羊羹も、時代の移り変りやまた土地柄によって様々な形となっているようです。
「水羊羹」は、霊元天皇(1663即位)が、虎屋や二口屋の羊羹が固い(蒸羊羹が主流の時代)ということから、柔らかい品を好まれ、水羊羹と呼ばれたことにある様です。
寒天を使用した「羊羹」は、1589年に太閤秀吉が諸大名を京都の聚落第(じゅらくだい)に招いた際、伏見の鶴屋(現在の駿河屋)に作らせたのが初めと言われていわれています。
しかし、この新しい羊羹の製法はなかなか普及せず、江戸で盛んになるのは18世紀に入ってからのようです。
さまざまな工夫がされ、蒸しようかんより糖分が多く、日持ちがよいなどの理由から広まっていったようです。
したっけ。