都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「時計」と書いて「とけい」と読むことは皆さん知っています。しかし、どうして「じけい」でも「ときけい」でもないのでしょう。不思議に思ったことはありませんか?
じ【時】[漢字項目]
[音]ジ(呉) [訓]とき[学習漢字]2年
大辞泉
その答えは時計の歴史にありました。実は、中国では「三角に盛り上げたもの」を表す文字として、「圭」と言う字を使いました。
けい【×圭】
[人名用漢字] [音]ケイ(漢)
1 先端が三角になった玉器。「玉圭」
2 圭の形をしたもの。「圭角/土圭・刀圭」
大辞泉
土を三角に盛り上げてその影の長さを測る事で時間を調べていました。この日時計の事を「土圭(とけい)」と呼んでいたそうです。中国が「周(前11世紀~前771年)」と呼ばれていた頃のことです。
この「土圭」が日本に伝わったのは平安時代以前と考えられています。機械時計がなかった時代は、「日時計」の意味で「土圭」が使われました。
と‐けい【時計・土圭】
(もと「土圭(周代の緯度測定器)」を日本で中世に日時計の意に用いた。「時計」は当て字) 時刻を示しまたは時間を測定する器械。日時計をはじめ水時計・砂時計・火時計などから水晶時計・原子時計に至るまで種類が多い。機械時計は振子または天府テンプの振動の等時性を利用して歯車を動かし、指針を等時的に進ませる装置から成る。時辰儀。ウォッチ。クロック。日葡辞書「スナノトケイ」
広辞苑
日本で、最初に機械時計を手にしたのは誰かというと、周防(すおう:現山口県東部)の大内義隆でした。イエズス会の宣教師クラッセが書いた『日本西教史』(『日本教会史』)に、1550年(天文19年)、フランシスコ・ザビエルが日本に布教に来たときに機械時計を献上したとあります。
江戸時代中期、正徳3(1713)年頃出版された挿絵入り百科事典『和漢三才図会』によれば土圭は、「8尺の板を地面に立てて日影を測る日時計である」と書かれているそうです。
また、「磁針(じしゃくのはり)」の項目では、「土圭(とけい)針・子午針・指南針」という別名とともに、「土圭針とは方角・時刻を知るための器械。円盤の周囲に十二支を配列し、針を横にしてその真中に置き、浮かして旋回させる」という解説がなされているそうです。これは方位磁石のことですが、「時刻を知るための器械」とあるように、方位磁石は時計がわりにも使われていたことがわかります。太陽の向きによって時刻を知ることができるからです。
どうやらヨーロッパから機械時計がもたらされるまで、日本では時計は羅針盤とほぼ同じ意味で使われていたようです。
この「とけい」という音に対して、日本では、「土圭」、「斗鶏」、「自鳴鐘」、「時計」、「斗景」、「土計」、「時辰儀」等の文字をあてています。
鶏が時を告げるので「斗鶏」とはうまい当て字だと思います。「自鳴鐘」は外国から伝来した機械時計がベルの音の時報を奏でたことに由来します。中国では機械時計のことを「自鳴鐘」というそうです。
ではいつごろから「土圭」が「時計」となったか。その確実ないわれはあきらかではありません。因みに江戸時代、江戸城御用部屋の北にあった部屋は土圭の間とよばれ、和時計が置かれ、坊主が詰めていたそうです。
とけい‐の‐ま【土圭の間】
1 江戸時代、大名・旗本などの屋敷で、時計の置いてあった部屋。2 江戸城で、時計を置き、坊主が勤務して時報の任に当たった部屋。
大辞泉
『和漢三才図会』には、「自鳴鐘 俗に時計という」として説明が出ています。
明治7年の学校教育現場ではすでに「時計」の文字が使われていたそうです。誰が最初に使ったものか分からないらしいのです。
江戸時代から明治の初期にかけて「時を計る」と言う字を当て「時計」とし、読みは「とけい」のまま残ったようです。
したっけ。