都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
毎年、春分の日と秋分の日を挟んだ前後3日間にやってくる「お彼岸」。まだまだ、北海道では寒い折「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉が思い浮かびます。
昼夜の時間が同じになるこの時期が冬から春、夏から秋の変わり目という先人の経験による言葉には重みがあります。
今年は彼岸入りが3月17日、お中日が3月20日(春分の日)、彼岸明けが3月23日となっています。
「彼岸」はサンスクリット語の「波羅蜜多(ハラミッタ)」から来たもので、「到彼岸(とうひがん)」と訳される「仏語」です。
「波羅蜜多」とは、「煩悩と迷いの世界」である「此岸(しがん)」にある者が、「六波羅蜜」(ろくはらみつ)の修行をする事で「悟りの世界」すなわち「彼岸 (ひがん) 」の境地へ到達することが出来るというものです。
この対比でおわかりのとおり、「この世が此岸」、「あの世が彼岸」ということです。
太陽が真東から上がって、真西に沈み昼と夜の長さが同じになる「春分の日」と「秋分の日」を挟んだ前後3日の計7日間を「彼岸」と呼び、この期間に仏様の供養をする事で極楽浄土へ行くことが出来ると考えられていたのです。
そして、春分・秋分を「中日(ちゅうにち)」としてお墓参りをしたりするのは「彼岸会(ひがんえ)」という仏事であり、文字通り彼岸にいる仏様に会いに行く、想いを馳せる時期とされている。
それではなぜ、春分・秋分に「彼岸会」を行なうのでしょうか。
秋分・春分は昼夜の時間が同じ、つまり太陽が真東から昇って真西に沈む日であり、極楽浄土は彼方の西方(西方浄土)にあるとされていたことから、真西に沈む太陽を拝むことで彼岸により近づく、ということから生まれたようです。
「彼岸会」とは仏教や浄土思想からの行事なのですが、日本以外で仏教に縁が深い国では特に行事化されている例はないそうです。
ちなみに、歴史上最初に「彼岸会」が登場するのは806年、「早良親王」を偲んだものだと『日本後記』にはあるそうです。
さわら‐しんのう【早良親王】
[?~785]光仁天皇の第2皇子。兄桓武天皇の皇太子であったが、延暦4年(785)廃せられ、淡路へ配流の途上で死去。その祟(たた)りを恐れ、崇道(すどう)天皇と追号された。
大辞泉
『日本後紀(にほんこうき)』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書で、続日本紀に続く六 国史の第三にあたる。承和7年(840年)に完成し、延暦11年(792年)から天長10年( 833年)に至る42年間を記す。
ウィキペディア
現在では「お彼岸」は信仰宗派に関わらず「ご祖先を大切にする」という日本独自のとして行事として受け継がれているものなのです。
したっけ。