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都月満夫の短編小説集2

「羆霧(くまぎり)」
「容姿端麗」
「加奈子」
「知らない女」

都月満夫の短編小説集

「キヨシの帰省」
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

「結婚形態と歴史」について考える

2012-07-17 08:53:18 | インポート

神前結婚式」は、明治三十三年(1900年)の大正天皇の結婚式が最初だそうです。たかだか100年程度の歴史しかない非常に歴史の浅いものなのです。これでは日本の伝統的な結婚式とは呼べません。

では、それ以前、一般の日本人は結婚においてどのような儀式等を行なっていたのでしょうか。「結婚」は古くから存在していたようですが、今のような結婚式の形は全体の歴史から見るとかなり最近になってからのようです。

Photo_2 もそも原始時代は、男女が気ままに結婚する「共同婚(きょうどうこん)」又は「集団婚」と呼ばれる形態だったようです。古代では「共同婚」により集団で性を享受する「村内婚」だったたようです。この婚姻形態は、ひとことで言えば複数の男と女がグループで婚姻関係を結ぶもので、日本を含めて狩猟採集時代から歴史的に長く行われていたかたちだそうです。

「村内婚」とは、同一村落内で行われる婚姻をいい、村外婚と相対しています。かつての村(むら)は独立性、封鎖性が強く、それが婚姻にも反映していたようです。

村の男女は少年期から青年期にかけて「ツレ」、「ドシ」、「朋輩(ほうばい)」などとよばれる同輩集団を組み、集団同士の交際を展開していました。

「村内婚」は、村の生産基盤を安定化させる上で重要なシステムだったようです。

はじめは村内で行われていたのが村外にも広がり、生まれた子は母のもとで育つようになりました。これが「母系氏族制」の始まりです。

「はらから(同胞)」とは、古くは「はらがら」といわれ同じ母から生まれた兄弟姉妹のことだったのです

つまり、父親は特定できませんが母親は分かるということです。母親をよりどころにして「氏」、「部族」が形成されたのです。

その頃は、儀式としての「結婚式」は行われていなかったのではないかと考えられます。

やがて、古墳時代になると夫婦が結婚後も同居せず、夫が妻の家に通う「妻問婚/妻訪い婚(つまどいこん)」または「通い婚」という形になります。

Photo_3 「妻問婚」とは、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』などの書物に記されているように、自由恋愛による結婚だったようです。しかし、夫婦は別居しており、男が女家の窓や戸口のすきまなどから呼んだり、男の求婚歌に女が答歌したりするなどの方法で行われていました。結婚式という形が出来上がる前の時代と言えるようです。

『竹取物語』にも、五人の貴族が美しい「かぐや姫」の「婿」になろうと、あらゆる手段を用いて「よばい(夜這い/婚い)」、つまり求婚を試みたことが書かれています。

 はるか昔から男が女に求婚するかたちだったようです。この点は現代でも大きくは変わっていません。

このように「結婚」は、単なる男女の結びつきでしかありませんでした。

奈良・平安時代になると、次第に「婚礼(結婚式)」と言う形をとるようになってきます。

婚礼は、最初は「露顕(ところあらわし)」として発生しました。これは、男が女のもとに通ってきて寝ている現場を、女家の人たちが見つけて明らかにし、餅を男に食べさせて、男を女家の一員とする「儀式」でした。

のちにこれは忍び通いの三日目ぐらいにするようになったので「三日餅(みかのもちひ)」(三夜餅などともいう)といわれます。

女家の親が婿を取る、いわゆる「婿取り」の儀式です。「三日餅」の儀式は、奈良時代頃に農民の間で発生したと考えられています。

この儀式は、いわゆる「結婚式」であり、奈良時代にはこの形態に移行していったようです。

この「結婚式(婚礼)」とは、結婚の儀式で広義には、婚約儀礼・披露宴など婚姻に関する儀礼の総称を指します。

そして、平安時代になると、文献には「婿取り」の語がみえ、「妻問婚」は「婿取婚(むことりこん)」、「婿入り婚(むこいこん)」に形を変えはじめたようです。

「露顕」、「三日餅」などの「婿取り」の儀式は、貴族の間でも儀式化、多様化し、諸行事が営まれるようになりました。

婚姻成立祝いを妻方であげ、以後、夫は妻方に住み込むか妻訪いの形で婚姻生活が営まれます。一定期間ののち夫方に移るので、「一時的妻問婚」ともいいます。

『源氏物語』に描かれているように、夫が妻の実家に会いに行く通い婚を経て、同居するのが一般的とされていて、夫が訪ねてこなくなれば、即離婚。夫が愛人をつくっても、どうすることも出来無かったそうです。

この頃の習慣が意外なところに残っています。「盛り塩」です。貴族たちは「牛車(ぎっしゃ)」で女性宅を訪問していました。そのため、女性は牛が寄り付くように玄関に塩を置いたのです。これが、花柳界に受け継がれて、客を呼ぶ縁起となったのです。

鎌倉時代頃になると、婿取婚の形をとりながらも、相当期間の後に夫方に居住するなど、次第に母系型家族の形が崩れてきます

それに伴ってか父権が絶対的なものとなり、武士の家に妻が嫁入りするようになってきます。家父長制の成立に伴い、この頃から、女性の地位が低下しています。そして、この習慣は社会全体に広まるようになります。

室町時代になると「嫁取婚」が行われるようになったといわれ、文献にも、「嫁取り」、「嫁入り」の語がみえはじめます。

嫁入りすることにより、極端な表現をすれば妻は夫の所有物と考えられるようになり、妻の不倫は夫への反逆として厳しく罰せられ留ようになります。

家と家との結びつきという色が濃くなり、武家などでは当たり前のように相手と同盟を結ぶ「政略結婚」が行なわれ留ようになります。

また、女性は夫を自分の意志で選ぶこともできなかったそうです。この頃の武家の結婚は、愛情など無関係なものになります。

現在の婚姻の文化は武士の礼法が基本になっています。武士の階級では「家」を継承するために婚姻を結びます。男子でなければ家督を相続できませんから、男子が生まれるまで子供を産みます。

一人の女性では嫡子を確保するのに不安がありますから、複数の女性を側室として抱えます。それは家を守るための防衛手段です。

武士以外にも裕福な人達は家を守るために側室を持つことが普通でした。

武士は「嫁入り」という婚姻の形式をとっていました。これは、女性が男性の家に嫁ぐもので処女に近い形(一般庶民は、既に男女間の性交があり子供があって嫁入りをしていたのと比較して。)のものです。

武士にとって子どもは家督を相続させるためのものですから、自分の子どもである必要があったのです。

婚礼における礼法も整えられ、色直し、引出物、里帰りなど、現代でもなじみ深いしきたりも、この時期に生まれています。

Photo_4 江戸時代には、仲人、見合いなども出現します。

幕府は上下の秩序を守るため『家』をすべての基礎としています。女性は「父に従い」、結婚してからは「夫に従い」、老いては「息子に従う」という、「三従の教え」があり、低い地位におかれています。

また、子どもが生まれない妻は、離婚されても文句は言えなかったそうで、妻が夫に妾を勧め、その子を自分の子として育てることもあったそうです。離婚するときも、「三下り半」と呼ばれる離縁状を妻に渡すことで離婚が成立していたそうです。

 明治時代になり、宗教の自由が憲法により保証されたこともあって、宗教による結婚式が増え、結婚のスタイルは多様化します。

明治のはじめまでは、一般庶民は「婿入り婚」が多かったそうです。婿入り婚とは、男性が女性の家に通う形式です。一定期間、妻となる女性の家に通います。そして男性の家に「嫁入り」するのは、男性の母親が家事の一切の権利を譲るときです。

従って、嫁入りまでに長い時間がかかることが多かったようです。当然何人かの子供を連れての嫁入りも珍しくなかったようです。

「婿入り」は、一定のルールの下に女性の家を訪ねます。何回か訪れた男性を、女性は拒否することもできます。これは「足入れ婚」ともいわれます。

おおらかな環境だったようで、現在のわれわれの価値観では理解しにくい面が多いと思います。外国人(キリスト教徒)にとっては、日本人は性的なモラルがないと映ったようです。

地方においては昔ながらの自宅結婚式が行われていましたが、都市部では、意外に簡略に行える神前結婚がにわかに流行し、神社での結婚式が増えました。

第二次大戦中、形だけの質素な結婚式しかできなかった時代もありましたが、現在では、結納、挙式、披露宴の合理化が進む一方で、個性あふれるさまざまな婚礼が行われるようになりました。

結納を行なうこと、仲人を立てることは武士の間の慣習に過ぎませんでした。

庶民は嫁入りのとき、親戚縁者を招いて祝宴を開いていました。既に、子沢山の状態で子連れ結婚ですから、処女の女性が嫁ぐというような雰囲気の儀式はなく、女性が家事の権限を譲渡されるお披露目の儀式でした。

婚姻の形態は、「共同婚」→「妻問婚」→「婿入り婚(足入れ婚)」→「嫁入り婚」のように変化してきました。

今の婚姻は「嫁入り」という形態になっています。明治になるまでは、武士だけが嫁入りだったのですが、大正、昭和の時代を経て、身分制度がなくなるとほとんどが武士のような嫁入りになったということです。

武士のような嫁入りとは、女性が子連れでない状態で嫁入りするということです。

平成の時代となった最近では、そのようなことにこだわることもなくなったようです。何気なく女性の部屋を訪れて、やがて同居、妊娠、結婚という流れは、「通い婚」、「婿入り婚」に戻ったような感じさえ受けるのは、私だけでしょうか・・・。

Photo

したっけ。

コメント (10)
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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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