都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
ところで、日本では礼服はなぜ黒になったのでしょうか。
『日本書紀』などの文献によると、その頃の喪服は白であったという記録が残されています。
それが平安時代、718年に発令された「養老喪葬令」で「天皇は直系二親等以上の喪の際には、墨染めの色を着用すること」と定められたのがきっかけで、黒の喪服が少しずつ広まり、平安後期には一般的に黒が着られるようになったそうです。
ところがその後、室町時代にまた白が復活します。その理由はまだ解明されていませんが、平安時代以降黒の喪服を着用したのは上流階級だけで、庶民は一貫して白のままだったのではないかと推測されているそうです。
白い布を黒く染めるには染料も必要ですし、それだけ手間もかかります。庶民が守り続けていた「白」の伝統が、貴族文化の影響力が薄れてきた室町時代に上流社会にも復活し、黒の喪服がなくなっていったのではないかと考えられます。
このように、一部の人の間で喪服に黒の衣装を着用した時代があったとはいえ、長い日本歴史の中では「喪服は白」が主流だったようです。
その伝統が崩れたのは明治に入ってからです。明治維新をきっかけに、欧米諸国の影響を受けて少しずつモーニングなどのフォーマルが見かけられるようになります。
1897年(明治30年)の皇室の葬儀の際に、政府は列強諸国の国賓の目を気にして黒に統一されたのがきっかけで、後に皇室の喪服は黒と正式に規定されるようになったそうです。
これは、時の政府がオーストリア女帝、「マリア・テレジア(1717~1780年)」が夫のフランツ1世が亡くなってからは、ほかの色に染まらない黒が誠実の証として生涯喪服を着続けた話にあやかったかどうか定かではありませんが、当時導入され始めた学生服にも黒を推進したということです。
それでも、一般庶民が喪服に黒い服を着用するのはまだ先の話になります。第二次世界大戦中から戦死者を送る葬儀が多くなって需要が増加しました。
当時は貸衣装が当たり前だったようです。そうなると、貸衣装店は汚れやすい白ではなく汚れが目立たない黒を揃えるようになりました。
手入れのしやすさや、欧米諸国の影響もあり、戦後は急速に黒い喪服が広まっていくことになります。
日本では昔は白装束がフォーマルだったのに、明治・大正・昭和と戦争を重ねるごとにだんだん黒に変化していったそうです。
現在では黒を着用することが一般的な喪服ですが、長い日本の歴史を紐解けば、喪服は白→黒→白→黒と変わっています。
時代劇の切腹シーンなどでは、白装束を着ています。
ネクタイでいうと慶事は白、弔事は黒という概念がありますが、これは日本独自の礼服文化だそうです。
ブラックスーツは、昼の準礼装のディレクターズスーツを基に、1960年代に日本で作られたものです。高度成長期の新生活運動(冠婚葬祭の簡素化を目指した農村運動)の流れの中で全国に普及しました。
慶事の場合の白のネクタイは、国際的ルールから外れているという意見もありますが、日本独自の習慣として確立しているスタイルです。
年配の方の間ではいまだに略礼服が礼装と信じている人が多いが、最近の若者の間では略礼服離れが進んでいるそうです。
ただし、国際的には非常識にあたるので、そういった場合はシルバーグレーの無地または柄を合わせたほうがいいそうです。
したっけ。