都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「カニ族」とは1960年(昭和35年)~70年代に流行した言葉で、大きなリュックサックを背負った若い旅行者のことです。当時、車を持つ若者は少なく、旅行の移動手段は主に鉄道が使われていました。横幅の大きなリュックサックを背負って改札を通る際、リュックサックが邪魔で通過出来ず、横歩きになること、またこうしたリュックサックを背負った人の後姿がカニに似ていたことから「カニ族」と呼ばれるようになりました。
1964年(昭和39年)の東京オリンピックを境に人々が旅行する様になり、知床ブームにより北海道に押し寄せる若者が急増しました。
若者は汽車で押しかけ、国道に出て「ウトロ」、「標茶」などと書いたダンボールを持って親指を立てヒッチハイクをしていました。駅舎の軒先には何十人もの人が野宿していました。
やがて、ヒッチハイクをする若者の傍若無人な行動が目立ち始め車は止まらなくなります。
その頃から、徒歩やヒッチハイクは少なくなり、自転車の旅行者が増えていきます。
しかし、一般民家を訪れ食事を求めたり、宿泊を求めたりして社会問題化しました。
このため、駅周辺や観光地には、市町村や国鉄(現JR)が「カニの家」というテント張りの簡易宿泊施設が設けるようになりました。食堂が「カニの家」を併設するようにもなりました。(JR設立は1987年4月1日。)
「カニの家」は若者の情報交換の場にもなりました。
その後、1987年~ 1988年ころから、夏(7~8月)にバイクで北海道に渡り、ツーリングをするようになります。彼らは「ミツバチ族」と呼ばれました。
1986年には大阪・東京からそれぞれ北海道を結ぶ、バイク旅行のための列車(バイクを運搬する列車やバイクと一緒に移動出来る列車)も運行を開始し、「ミツバチ族」という言葉も広く普及しました。
「ミツバチ族」とは、ライダーが乗っていたバイクの排気音がミツバチの羽音に似ていることに由来します。「ブンブン族」とも言われました。
当然、「カニの家」は「ハチの家」と名称が変わりました。
ただし、バイク旅行のための列車が運行をやめた1998年辺りから死語となり、現在では「カニの家」も「ハチの家」もありません。
したっけ。