都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
1月7日は五節句の最初の節句、「人日の節句」です。
野の若菜、七つの草を羹(あつもの/温かい汁)や粥にして食して、お正月の疲れを癒すとともに無病息災を祈ります。
「人日の節句」、中国では「米(こめ)」、「粟(あわ)」、「黍(きび)」、「稗(ひえ)」、「簑(みの)」、「胡麻(ごま)」、「小豆(あずき)」の七種の穀物を粥にして食べていました。
また、「米・麦・小麦・栗・キビ・大豆・小豆」だったという説もあり、とにかく穀物を中心にしたお粥だったのです。
この中国の風習が「平安時代(794~1185)」の日本の都に伝わったのです。
山野に若菜を摘み、また、その場で宴を開き、和歌を詠んで楽しむ行事となりました。
「君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ」
光孝天皇(830~887)『古今集』
「あなたにさしあげるため、春の野原に出かけて若菜を摘んでいる私の着物の袖に、雪がしきりに降りかかってくる。」
平安時代の中期までは、若菜は正月七日ではなく、正月初子の日に行われていたため、若菜のことを「子の日」、または「子の日遊び」と呼んだようです。
これが時代を経て、「鎌倉時代」(1185年~1333)になった頃に現代のような米で作った「お粥」に七種類の野草を入れて食べるという物に変わってきたようです。
1月7日は都人にとっては昇進日。「名を成すために、菜を食す」という縁起かつぎということで、七草に変わったとも言われています。
当時の菜は色々、草以外にも木の実や海草など多彩に入れていたようです。
春の七草は、「四辻善成(よつつじのよしなり)左大臣」が詠んだと言われる「芹なずな 御形はこべら 仏の座 すずなすずしろ これぞ七草」という和歌でご存知の方も多いと思います。
「四辻善成」(1326年~1402年)の南北朝・室町時代の和学者、歌人です。
七草粥が庶民にも広まったのは、おせち料理やお雑煮同様、江戸時代でした。
江戸時代は庶民の食文化が開花した時代ですね。
この七草粥のルーツは諸説あるのですが、農業の豊作をお祈りするために室町時代頃に始まった「七草たたき」と言うものだとする説もあります。
正月6日の夜から7日の早朝にかけて、台所のまな板の上に調理の七つ道具(杓子・菜箸・火箸・すりこぎ・卸し金・割薪・火吹き竹)を並べて、そのまな板を七回叩いたあとで、囃子歌を歌いなから菜っぱを細かく刻むと言う行事でした。
歌の歌詞は「唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、なずな七草、手に摘み入れて、トントントン」など地方により多少の違いがあるそうです。北海道には、このような歌は残っていません。
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YouTube: 愛媛県今治市七草がゆの歌
とにかく、七草と言うのは新年を迎えて「今年一年、健康で、食に困らず、過ごせますように」とお祈りする農事神信仰の一種から始まったものと考えられています。
★ おまけ★
昨日私が「七草セット」を買ってきました。娘も買ってきました。家内も買ってきました。
380円 × 3個 = 1,140円
どうして食べようか・・・。
したっけ。