都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
今日は「成人の日」です。新成人の皆さんおめでとうございます。
さて、お正月の遊びといえば、昔はたくさんありました。今は、お正月だからといって特に行なわれることはありません。
「かるた」、「百人一首」、「独楽」、「双六」などがありました。
今日は、「福笑い」、「羽根突き」、「凧揚げ」について考えてみます。
■「福笑い」
「福笑い」といえばお馴染みなのは「お多福」の顔です。福を呼ぶ「お多福」は、どんな顔になってもご愛嬌です。
そのルーツは定かではありませんが、福笑いは、江戸時代に始まった遊びだとされています。
初期の「福笑い」は、「お座敷遊び」だったという説があります。
顔に紐を使って半紙を張り付け、のっぺらぼうの状態から始まります。墨の付いた筆を持たせてもらい、相手が言うなりに自分の顔の上の半紙に顔を描いていきます。口の次は目、その次は輪郭など、バラバラに攻められると不思議な顔の出来上がるというわけです。
これは、「お座敷遊び」としてはいかにもありそうですが、「福笑い」の起源としていかがな物かと思います。
また、古くは「こより」や「綱の輪」で、人の顔や目鼻を作る遊びだったという説もあります。今の人は「こより」を知らないですね。昔は和紙を筒状に丸めて閉じ紐に使ったものです。
現在のような「福笑い」は江戸時代の後期に遊ばれ始め、明治にはお正月の遊びとして定着しています。
目隠しをして、輪郭を描いた紙の上に、目・鼻・口・耳などを置いていくゲームですが、出来上がった顔立ちが滑稽なので、それを笑って楽しみます。おかめやお多福などの絵が多く、「笑う門には福来る」と縁起がいいことから、正月にふさわしい遊びになったようです。
■「羽根つき」
14世紀頃の中国で、羽根に硬貨をつけたものを蹴り合う遊びがあり、これが室町時代に日本に伝来し、羽根つきの原型になったといわれています。
当時の宮中の様子を記録した『看聞御日記(かんもんにっき)』(1432年)では、羽根つきに負けたらお酒を振舞っていたと記録されているそうです。
やがて江戸時代になると、羽根つきで厄祓いできると信じられるようになりました。
羽根に使われるムクロジの実を「無患子」と書き、「子が患わ無い」という魔除けに通じるものとして、女の子の初正月に羽子板を贈る風習が生まれます。
また、『世諺問答(せいげんもんどう)』(1544年)では、「羽根のとぶ様子がトンボに似ていることから、子供の病気の原因となる蚊に刺されないよう、蚊の天敵であるトンボに見たてて、正月に羽根つきをするようになった」と書かれているそうです。
羽根つき遊びが盛んになったのは、江戸時代の元禄(1688-1704)以降で、文化・文政(1804-1830)頃から人気役者の似顔を写した押し絵羽子板が流行し、明治には全盛期を迎えました。その後、形や素材を若干変えながらも、現在におよんでいます。
こうして、羽根つきは1年の厄をはね、子供の健やかな成長を願うものとして、親しまれてきたのです。打ち損じると顔に墨を塗るのも、魔除けのおまじないです。
■「凧揚げ」
古来中国では、凧あげは占いや戦いの道具のひとつでした。日本には平安時代に貴族の遊戯として入りました。
初は、「紙鳶 (しえん)」、「紙老鴟(しろうし)」とよばれ、凧揚げは技芸の一種だったようです。「鳶」や「鴟」は、鳥の「トビ」のことで、紙製のトビを意味しています。
戦国時代には、敵陣までの距離を測ったり、遠方へ放火する兵器としても活用されたりしていたそうです。
天下泰平の江戸時代には子どもの遊びとして全国に広まりました。季節を問わず、風が吹くと、凧揚げに興じる子どもの姿が見られるようになったそうです。
ところが、幕府は、江戸初期の1656年(明暦2年)凧揚げを禁止します。その理由は、参勤交代の邪魔になるというものでした。
凧揚げをする子どもには、上手な子もいれば、下手な子もいます。また、風向きが変ったり、風が弱くなったりすりと、凧はきりきり舞いしながら落ちてきます。落ちてきた凧が、武士の体や馬にからまって、行列の通行を妨げるという「事件」が起きていたそうです。
だからといって、子ども相手に武士が刀を抜くわけにもいきませんでした。
そこで幕府は、大名からの苦情を受けて、凧揚げ禁止令を出したのである。しかし、凧揚げくらいで厳しく取り締まるわけにも行かず、禁止令が出た後も、凧揚げをする子どもはいっこうに減らなかったそうです。
ちなみに、いわゆる「奴凧」が誕生したのは、江戸後期の1800年代のこと。あの姿は、武家の下級職である「折助(おりすけ)」を真似たもので、大流行となりました。
また、昔から「立春の季に空に向くは養生のひとつ」といわれたことから、立春に凧あげをするようになりました。昔は立春のころから新年となったので、ここからお正月の遊びとして定着したようです。
それぞれに、意味はあるのですが、どれも最近では見かけなくなりました。
したっけ。