都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
都月満夫
「ねえ…、この辺で美味しいラーメン屋さん知らない?」
スナックのカウンターで、女はいきなりオレの腕に抱きついてきた。オレは驚いて女の顔を見た。三十過ぎの小柄な女だ。女の柔らかい胸の膨らみが、オレの腕を押している。
黒いドレスの女だ。深い襟元から覗く白い谷間が歪んでいる。スタイルは悪くない。
「ラーメン屋?ああ…、あるよ。」
看板の時間だったので、オレは女を連れて店を出た。女は相変わらず、腕にぶら下がっている。女の重さが心地よい。
いい女だが、それだけに気味が悪い。こんな女とは関わりにならないほうがいい。
「この小路を入ったら、右側にある…。」
そう言って、オレは別れようとした。
「ねえ…、付き合ってくれないの?」
「ああ…。オレは、腹減ってないし…。」
「ワタシを置いて帰るの?じゃあ、腹ごなしでもする?協力するわよ。ねっ…。」
女はそう言って、空を指差した。星も見えない空は深海のようだ。水母が逆立ちをして瞬いていた。ルージュで描いたように赤い。
オレは、もう断れなかった。
腹ごなしが終わって、オレたちはラーメン屋のカウンターにいた。小さな店なのでカウンター席しかない。
「あらっ、本当に美味しいわね…。」
「…、お客さん、ウチは不味いものは出さない主義なんでね。」
カウンターの向こうから、老女がネズミのような目で女を見た。
老女はカラスのように黒いワンピースに、白い割烹着を着ている。腰まで伸びた真っ白な髪は、無造作に後ろで束ねられている。
「おい…、旨いって言っただろう。」
オレは女に囁いてから、老女に尋ねた。
「この店は、時々見つからないことがあるんだけど…。酔っているからかな…。」
「お客さん、ウチはね、気に入ったスープが出来ないときは、店を開けないのさ。不味いものでお足は頂けないからね。そんな時は見つからないかもしれないね。ちっぽけな店だからさ…。今夜は運がよかったね。」
老女は、ヒッヒッヒっと笑った。
「あら…、本当に運がよかったのかしら、今夜のアナタは…。」
女はそう言って、オレの股間を握った。
「うっ。ああ…、そうだな。」
「ねえ、レンゲはないの?」
「ウチには、そんなものはないよ。どんぶりを持って、最後の一滴まで飲み干しな…。」
老女はそう言うと、丸椅子に腰掛け、ヒッヒッヒっと、また笑った。機嫌が悪いわけではない。いつもこの調子だ。
「こうやって飲むんだよ。」
オレは、どんぶりを両手で持ち、口をつけてスープを啜った。
…?啜ったはずのオレが、どんぶりに吸い込まれていく。そんなバカな…。オレは、どんどん吸い込まれていく。
熱い、熱いよ。助けてくれ。叫べ、声を出せ。夢だ、これは夢だ。
「わああああ!」
堅いベッドの上で目が覚めた。オレの部屋だ。時計の針は昼の十二時を回っていた。
頭の中は、暴れ馬が駆け回るように痛かった。どうやら、昨夜は飲みすぎたようだ。
頭の中が平穏になってきて、オレは女のことを思い出した。昨夜、女を抱いたはずだ。
思い出せない。髪の長い女だ。今どき珍しい、真っ黒で漆のような髪だ。長い髪は、黒いマントのようだった。唇は真っ赤に塗られていた。目は大きく、長い睫毛が重たそうだった。記憶は断片的で、まるで福笑いだ。
夢だったのか…。オレは、自信がなくなって考え込んだ。
いや、夢ではない。女からメモを貰った。
「腹ごなしをしたくなったら、いつでも電話していいわよ…。」そう言われた気がする。
オレはジャケットのポケットを探った。
あった。ポケットティッシュのラベルだ。裏側にアイブローペンシルで、携帯番号が書かれていた。夢ではなかった。
しかし、名前は書かれていない。オレは女に名を告げたのか…。オレは女に何を話したのか…。あの女は何者だったのか…。無駄な思考が雑踏のように交錯する。回転するミラーボールに当たる光のように、記憶が頭蓋骨に乱反射する。とにかく電話してみよう。
オレは枕の下から携帯を探り出した。
呼び出し音が五回ほど鳴って、女がでた。
「オレは、昨夜ラーメンを…。」
「あら、また腹ごなしがしたくなった?」
眠そうな声がした。
「またって…、オレが誰かわかるのか?」
「わかるわよ。アナタのことは全部…。」
「全部って…、どういうことだ?」
「全部は全部よ。」
小さな疑問は大きな不安となった。それは黒豹のように、爪を立て背中を駆け上った。
「もう一度会えないか?」
「なあに…、せっかちねえ…。
「そんな意味じゃない。」
「いいわ。今から、来ない?」
「仕事はどうする。同伴出勤は御免だぜ。」
「同伴?ああ…、違うわよ。ワタシ、そういうお仕事じゃないわよ…。」
「じゃあ、どういうお仕事だ?」
「どういうって…、保険関係かな。」
「保険…、生命保険か?色仕掛けで、オレを勧誘したってことか?」
「今どき、色仕掛けで保険の勧誘なんて流行らないわよ。ワタシ、面倒臭いのは苦手なの…。来るの?来ないの?」
女が教えてくれたマンションはすぐにわかった。駅南のマンション郡の中でひときわ豪華だった。
『アザーワールド』。別世界ってことか?あの世ってことはないだろう。オレのアパートとは比べ物にならない。玄関で、教えられたオートロックの暗証番号のキーを押した。
「入ったら、一番西側のエレベーターよ。間違えないで…。間違えたら、この部屋にはたどり着けないわよ。」
スピーカーから、気だるい女の声がした。
ドアが開いた。中に入ると、廊下は妙に静かで生活感がない。靴音がうるさいほどに、冷たいコンクリートをノックしてまわる。
言われたとおり、一番西側のエレベーターに乗り、十三階のボタンを押した。
エレベーターの内部は全面ガラス張りで、どっちを向いても自分がいる。どれが本物の自分かわからなくなり、目眩がしてきた。
ドアが開いたので、オレは慌ててエレベーターを降りた。…、ボタンを押し間違えた。
そこは、大浴場だった。どうやら女湯らしい。白い影がぼんやりと見える。
「キーッ!」湯気の向こうで、奇声が上がった。白い影が一斉に立ち上がった。
白い影が身をくねらせて、こちらへ向かってくる。湯気の中から現れたのは、女ではなかった。巨大な芋虫だった。今度は、こっちが奇声を上げる番だ。
オレはUターンして、今降りたばかりのエレベーターに飛び込んだ。そこにエレベーターはなかった。オレは、意識を十三階に残したまま、真っ暗闇の中へ落ちていった。体がゴムのように伸びた気がした。
何かに手が触れた。オレは無意識にそれを掴んだ。暗闇に目が慣れてくると、それが梯子だとわかった。天から地の底まで続いているように見える。旧約聖書の、創世記二十八章十二節で、ヤコブが夢に見た梯子…。天使が上り下りしているという梯子のようだ。
助かった。オレは梯子に足をかけ、登ろうと上を見た。忘れていた。巨大な芋虫が、糸を引いて降りてくる。下は底が見えない闇の中だ。上には芋虫の、黒い鎌のような口が目の前に迫っている。
オレは天使ではない。もう落ちるしか手段はない。オレは目をつぶり、手を離した。
「わああああ!」
気がつくと、オレは見知らぬ場所に立っていた。何処だろう。舗装されていない道。両側には雑草が生えている。空にはカラスの群れ。夕暮れだ。あたりが薄暗い。
見渡すと、白い泥壁の家や板壁の家が建っている。空き地も多い。古臭い風景だ。
右側のトタン屋根に看板があった。「西島塗装店」の文字が見える。少し歩くと、辻の向こうに「木村商店」があった。食料品、日用雑貨と書いてある。
中から、小太りのオバサンが出てきた。
「ヒロちゃん、早く帰らないと、人さらいにさらわれるよ。」
オバサンは、ヒッヒッヒっと、猫のような顔で笑い、店に戻った。
今どき、人さらいはないだろう。しかし、「ヒロちゃん」って誰だ。
オレはあらためて自分の姿を見た。白いランニングシャツに半ズボン、ゴムの靴を履いている。オレは子どもの姿になっていた。小学一、二年生のようだ。
「ヒロちゃん?」オレの親父か?そうか、親父と間違われたのか。ということは、昭和三十年代ということか…。
オレはこの状況に少しずつ慣れてきた。
近所に牛屋があったと親父から聞いた。一升瓶を持って牛乳を買いに行った話…。あった、少し先の左側に…。間違いない。
…、だとすると、牛屋の北側の空き地は、あの女のマンションが立っている場所だ。オレは、もう一度あたりを見渡した。
斜めに延びた火防線があった。その先には消防署があったといっていた。
火防線の先に、が赤く燃えていた。
夕陽は民家を押し潰すほどに大きい。しかし、空は夕陽をシカトするように、薄暗く沈黙し、灰色の雲が流れている。何かが変だ。
オレは気づいた。そこにあったのは、血のように赤い満月だ。夕陽ではない。火防線は南東に延びている。
赤い月が、上からニヤニヤ笑っている。
にやけた月の顔にいた兎が、水飴のように融けだした。融けた兎は、黒いヨダレとなって地面に滴り落ちた。
滴り落ちたヨダレは、一本の糸で吊り上げたように、黒い三角形となった。こちらに向かって来る。人影のようだ。
夏だというのに、黒いローブを着ている。
両肩から、白い大根のようなものがぶら下がっている。何かを背負っている。黒い影は、滑るように近づいてくる。驚くほど速い。
大根のように見えたのは足だ。黒い影は、スネをこちら側に向けて人を背負っている。
不気味な影に、オレは目を見張った。黒い影は、オレの存在など完全に無視して通り過ぎようとした。オレは慌てて飛び退いた。
擦れ違ったときに、微かに香水の匂いがした。あの女の香水だ。オレは反射的に振り返った。オレが見たのは、仰向けにぶら下がっている、今のオレだった。
ドッペルゲンガー…。オレは、もう一人の自分に出遭ってしまった。ドッペルゲンガーに出遭ってしまった人間は、間もなく死ぬ運命にあるという。
逆さに背負われている裸のオレは、口をあけ、大きく目を見開いている。
「わああああ!」
「…。どうしたのよ?」
女の声がした。あの女だ。女はベッドの中で、オレに背を向けている。裸の尻が、オレの腰に当たっている。
「オレに遭った…。」
「なあに…、寝ぼけているの?」
「違う、夢だ。そうだ、夢だよ。」
「夢?大丈夫…。この頃変よ。」
「この頃…。この頃って何だ。昨夜あったばかりだろう…。」
「やっぱり、どうかしている…。もう、三ヶ月じゃない。ふざけているの?」
「三ヶ月?ふざけてなんかいないさ。ふざけているのはキミだろう。そうだ、キミの仕事は何だ。保険関係とか言っていたな。」
「キミって何よ。裸で一緒にベッドにいる女に、言う言葉?」
「ああ、そうだな…。」
「言っても信用しないわよ。」
「言って見なきゃわかんないだろう。」
「ワタシ、人の未来が見えるの。占い師みたいなものよ。いいでしょ、私の仕事なんかどうでも…。面倒くさいのは嫌いなの…。それより…、ねえ。」
女は、肌掛けを右腕で撥ね上げた。
オレの目の前に絶景が現れた。丸い二つの山の頂上は、そそり立っている。山の谷間の向こうは、ゲレンデのように白い下り坂だ。坂を降りきった辺りに小さな窪みがある。その先には小さな丘が見える。丘の茂みは、朝露に濡れたように、黒く光っている。
女はオレの手首を掴み、その手を茂みへと導いて、腰を浮かせた。
オレの人指し指が茂みに触れた。そこにいたのは子猫ではなかった。何かヌルリとしたものが這い出して、指に絡みついた。ミミズのようだ。指は茂みの中へ引き込まれた。中でミミズが蠢いている。ミミズの巣窟だ。
今度は、手首に絡みついて引き込んだ。次は肘に絡みつき、肩に絡みつき、オレの右腕は、完全に茂みの奥に呑み込まれた。
驚いている間もなく、今度は白いマフラーを巻いた、腕ほどの太さの赤いミミズが這い出した。そいつは蛇が鎌首をもたげるように一瞬オレを見た。ミミズに眼はない。そんな冷静な分析をしている場合か…。オレは混乱していた。そいつがオレの首に巻きついた。
「わああああ!」
オレは細い管の中にいた。肉色の壁に窮屈に挟まっていた。頭を反らせると、管の先に白い明かりが見えた。オレは身体を動かしてみた。管は弾力があり身体は動かせる。オレは四つん這いになり、明かりの方に進んだ。
管の先は洞窟だった。息が止まるほどのすえた臭いが鼻を突き刺し、涙が出た。そこには何千、何万もの赤い蝋燭が灯っていた。
黒いローブを着た女が見えた。あの女だ。
「来たのね。このセンスの悪い制服と臭いは我慢してね。ワタシ、今、仕事中なの…。」
「仕事中?」
「ここは人の寿命の間燃え続ける、命の蝋燭の洞窟なのよ。蝋燭の一本一本が、その人の残りの寿命なの。ほら、名前が書いてあるでしょう。生まれたばかりの赤ん坊は長く、死ぬ間際の人間は、こんなに短いわ…。」
「まさか、お前は…。」
「そうよ…。そんなにドキドキすると、早く消えるわよ。アナタの蝋燭は、アナタの心臓の鼓動と同じ速さで燃えているの…。アナタにはもう時間がないわ。ワタシの仲間は、西洋では『グリム・リーパー(収穫者)』と呼ばれているわ。神に仕える農夫とも…。命の刈取り人ってことかしら…。」
「お前は、死神なのか…。」
「そうとも言うわね。」
「死神が、オレに何をした?」
「何もしないわ。保険を掛けさせてもらっただけよ。でも、悪いから、アナタにチャンスをあげるわ。自分の蝋燭を見つけ出して、この蝋燭を継ぎ足せば、寿命は延びるわ。」
そう言って、女は赤い蝋燭を差し出した。
「保険屋って、そういうことだったのか。」
「そんなことを詮索するより、早く自分の蝋燭を探したほうがいいわよ。アナタには、もう時間がないって言ったでしょう。」
「わああああ!」