都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
羊は野生種の起源をたどれば250万年前の氷河期に、家畜としての歴史をさかのぼっても紀元前8000~7000年にはなるといいます。
人類最初の文字とされるメソポタミア文字(前5000年)にはもう牛とならんで羊を表わす文字があったといい、前4000年までには西アジアのみならずヨーロッパ、北アフリカ、中国にも家畜化がひろまっていたといいます。人類の歴史に羊は欠かせぬ存在だったようです。
アブラハムにはじまる旧約の民にとってはもちろん、大英帝国の富のいしずえになったのも羊でした。彼らに敗れはしたけれど、世界最強の艦隊をそなえて「無敵」の名をほしいままにしたスペインの富をささえたのも、コロンブスやマゼランの遠征費用を賄ったのも羊でした。
羊が人類の歴史をひらき、歴史をつくってきた。まさに「人類史の立役者」ともいうべき羊を、19世紀もすえの四半世紀に至るまで、普通の日本人は目のあたりにしたことがなかったといいます。
羊そのものではなく、高級毛織物ラシャがはじめて官許のポルトガル船で入ってきたのが1555年(天文24年、弘治元年)だそうです。
羊の毛を刈り、それを織ってラシャを生産すれば国家の利益になる。なんてことを思いたった平賀源内が、長崎から「緬羊(めんよう)」を入手し(長崎のオランダ商館では自給用の羊を飼育)、日本ではじめて飼育と製織をこころみるや、たちどころに羊が「痒い痒い病※」にかかり挫折したというのが1771年(明和8年)のことだそうです。
※疥癬(かいせん、英: scabies)は、無気門亜目ヒゼンダニ科のダニ、ヒゼンダニ(学名:Sarcoptes scabiei var. hominis)の寄生による皮膚感染症。湿瘡(しっそう)、皮癬(ひぜん)ともいう。日本ではヒツジの疥癬は家畜伝染病予防法における届出伝染病(同法の定める家畜伝染病以外の監視伝染病)に指定されている。知られている皮膚疾患の中で、掻痒は最高度である。 Wikipedia |
政府が軍用の毛織をまかなうため、緬羊飼育振興対策に本腰を入れたのは明治になってからでしたが、これも失敗におわりました。明治後期に大流行した薄地で温かいウール素材モスリンもすべてが舶来品でした。
第一次世界大戦によって輸入がストップしてはじめて「100万頭増殖計画」を政策とし、紆余曲折をへつつ、第二次大戦前後の食糧難、物不足をあがなう資材としてようやく羊は「花形家畜」になりました。目標の100万頭を達成したのが増産のピークとなる1957年(昭和32年)だったというから、日本がいかに人類史において特殊であるかがうかがえます。
文献上、日本にはじめて羊がやってきたのは『日本書紀』推古天皇七年(599年)九月一日、「百済、駱駝一疋、驢一疋、羊二頭、白雉一隻を貢る(百済(くだら)、駱駝(らくだ)一匹(ひとつ)、驢(うさぎうま)一匹、羊二頭(ふたつ)、白雉(しろきぎす)一隻(ひとつ)を貢(たてまつ)れり)」にさかのぼります。
駱駝」は「ラクダ」、「驢」は“うさぎうま”と訓がふられているが「ロバ」のことのようだ。「羊」はそのまま「ヒツジ」で、「白雉」は“しろききぎす”と訓がふってあり、「白いキギス(キジ)」のことといわれます。
外交上のプレゼントになるくらいだから珍獣であったにちがいありません。
数少ないその後の史料においても、羊は政治臭をまとわせられた貢物でありつづけました。したがって、日常的に未方(ひつじのかた)、未刻(ひつじのこく)、未年(ひつじどし)などとはいいながら、庶民にとって十二支の「未」は、動物の「羊」とはまったく無縁でした。おそらく想像と観念の中にしか住んでいなかったと思われます。
たとえば、勅撰和歌集『千載集』にこんな一首があるそうです。
『栄花物語』の作者として知られる赤染衛門(956?~1041年)が山寺に詣でたときに詠んだ歌だそうです
けふもまた午(むま)の貝こそ 吹きつなれ ひつじの歩み近づきぬらん 午(むま)刻のこくに法螺貝が鳴った。その音色をききながら、屠所にひかれる羊の歩みのように寿命が刻々と尽き、死が近づいていることをしみじみと感じさせられた(午の刻の次は未の刻) |
ほぼ同時代人である紫式部の『源氏物語』浮舟巻にも「羊の歩み」が出てきます。ヒロイン浮舟が薫大将と匂宮から熱愛され、板ばさみの苦悩から入水自殺を決意するという場面です。「川のほうを見やりつつ、羊の歩みよりもほどなき心地す……」
宇治川のほうに目をやりやりすると、死が間近に迫ってくるような気がするというのです。
典拠は仏典。『涅槃経』に「是れ寿命は……囚の市に趣きて歩歩死に近づくがごとく、牛羊を牽きて屠所に詣いたるが如し」と説かれ、『摩訶摩耶経』にも、牛羊が一歩あゆむたびに死に近づくよりも、人の命が刻々と死にむかうことのほうが疾はやいと説かれているといいます。
彼女たちは当代きっての才女ですが、王朝時代、そこそこ教養のある人々は、「羊の歩み」ときいては命のはかなさ世のはかなさを思い、無常の理ことわりかみしめたにちがいありません。
もちろん、「屠所にひかれてゆく羊」に救主の姿を仮託した人々が、はるかアジアの西のかなたにいたなどということは知るよしもなかったでしょう。
したっけ。
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